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宴の翌日、目的地は雑司が谷、また「鬼子母神」さんに行くつもりなのですが、池袋周辺に宿をとったこともあり、近くを攻めてみよう、ということで、「御嶽神社」へ。
◯こちら===>>>
若い頃、巣鴨に住んでいたのですが、池袋周辺の神社仏閣などとんと興味がなく、もったいないことをしたものです……。
遠景。
やや曇り。
社標……?
おや、昔は「三嶽神社」だったのですね……関東に多いですかね、「三嶽神社」は。
社標。
村社だったようです。
これは……火消しの幟、ではなさそうですね……なんだろう、町内の神輿かな……。
左側は火消しのやつか……。
「池袋木遣睦」……木遣唄関係の何かでしょうかね……「睦」(これを、ボク、と読むのかどうか、詳しくないのでわかりません)というのは、何かでも観たことがあるのですが、「組」という意味合いなのか……そうではないのか……ちらっと検索しても浮かんでこないので、腰を据える必要がありますよ(誰が?<私ではありません)。
境内社の「子育稲荷神社」。
神輿。
普段から見られる、というのは個人的にはよいと思います(もちろん、大切に保管しておく、ということも大事だと思いますが)。
ふらっと参拝したら目に付くことで、みなさんの意識に残るのではないかと。
拝殿。
木鼻……でしたっけ、この部分……狛犬さんの彫刻がお見事です。
竜もいます。
拝殿遠景。
狛犬さん。
いけぶくろう……あれ、違ったかな……。
うーん……ちょっとこれは、読むのはしんどいです……。
御朱印。
さて。
公式HPより、御祭神は、
で、「子育稲荷神社」は、
「保食神」
とのこと。
由緒は、
「御鎮座の年代ははっきりしていないが、第百六代正親町天皇の御世天正年間(1573~1592)頃といわれ、その百年後の貞享四年(1687)に社殿創建(岸野六之助氏の調査)といわれる。また、古老の話によると武田勝頼(1546~1583)の家臣団が甲州より池袋の地に逃れ、持参してきた神宝でこの地に神社を造営したという伝承も残っている。爾来池袋下上の丘に鎮座し池袋駅西口一帯(池袋・西池袋)の鎮守の社として崇敬されてきた。
嘉永六年(1854)に社殿が造営され、幕末明治期には絵師 堤等川による大絵馬が数面奉納されている。昭和13年(1938)には村社に社格が昇格し、社名が三嶽神社から御嶽神社に改称される。」
なるほど、「三嶽神社」ではまずかったのでしょうか……「御嶽神社」だと「御嶽(おんたけ)」信仰とごっちゃになりそうな気がしますけれども。
「平成14年(2002)梟親子像が設置された。池袋の袋と鳥の梟の発音が良く似ており、また梟は苦労を除き福を呼込む(不苦労・福籠)神様とも言われる事から、近年梟のお守りが授与されている。」
フクロウは御祭神でも神使でもない、と……そういえば、西洋では人気者のフクロウ(アイヌの信仰でもいましたかね、フクロウの神)、日本ではあまり……どうしてなんでしょうね。
ちょっとだけ、「両面宿儺」っぽいなぁと思っています(いや、首がぐるぐる回る、というだけなんですが)。
というわけで、
◯こちら===>>>
大日本地誌大系. 第5巻 風土記稿1 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『江戸名所図会』では見つからなかったので、『新編武蔵風土記稿』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
135コマです。
……うん、まあこれだけです……検討のしようもない。
東国では「日本武尊」(とされる人物)の人気が高く、後付けとはいえ様々な伝承が残っています。
神代に片足を突っ込んでいるような存在の「日本武尊」が、なぜ人気があるのか……判官贔屓か……。
おまけ。
「御嶽神社」から、「長崎神社」を目指して歩いていたのですが、途中で発見、「羽黒神社」。
「由来書
当羽黒神社の創建年代は不詳ですが
山形県出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)の出羽三山神社より分霊されております。
明治二年(西暦一八六九年)の社寺取調書によりますと武蔵国豊島郡長崎村の一社であり、御祭神は倉稲魂命
(うかのみたまのみこと)で、農業や商業に関係の深い神様であります。
(以下略)」
なるほど、東国だ……私の住んでいる東海地方では、出羽三山系の神社にはほぼ出会えません。
山岳信仰としては御嶽山、白山がありますし、高野山や比叡山などは、出羽三山に比べれば全然近いですから。
「御嶽神社」の由緒とはややずれておりますが、江戸の街の発展とともに、宗教インフラも整備されていった、ということなのでしょうか。
ここに書かれた「御嶽神社」が、今回の「御嶽神社」とは異なるとすると、やはり東国では「日本武尊」大人気、ということなのだと思います。
やっぱり歩いてみるものだ……けれども、まあ、そうですね、自転車ほしいです……。