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「伊賀八幡宮」の参拝を終え、いくつかまわりたいポイントがあったものの、やはり外せないということで「大樹寺」へ。
○こちら===>>>
徳川家の菩提寺というのはいくつかあるわけですが、三河ではこちら「大樹寺」になるようです(松平家の場合は「高月院」になるのかな……名古屋は「建中寺」ですね)。
山門前。
「眺望ライン(ビスタライン)
ビスタラインの「ビスタ」は「眺望・展望」を意味し、大樹寺と岡崎城を結ぶ、標高差を利用した約3Kmの直線を「眺望ライン(ビスタライン)」と呼んでいます。
これは徳川三代将軍家光公が、家康公の十七回忌を機に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、徳川家の祖先、松平家の菩提寺である大樹寺の本堂から山門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城を望むように伽藍を整備したことに由来しています。
時は移り、岡崎城も再建されましたが、大樹寺と岡崎城を結ぶ歴史的眺望は往時のままで、門越しに望む岡崎城は、まるで額のなかの絵のようです。」
山門を正面(外)から。
しびれる組物です。
パンフレットによれば、「寛永18年(1641)三代将軍徳川家光公建立。楼上に後奈良天皇御宸筆「大樹寺」の勅額(重要文化財)が掲げてある。また釈迦三尊十六羅漢を安置している。境内から山門、総門をとおしてその真中に岡崎城が見える。」とのこと。
振り返ってみました。
小学校の門がお寺の総門なんてところはなかなかないと思います。
それだけでもうらやましい……(が、私が小学生だったら、間違いなくいたずらしていただろうな……)。
総門の向こう側に「岡崎城」が……ちょっと見えませんけれども……。
○こちら===>>>
↑で見ることができます。
本堂への参道。
パノラマで撮ればよかった……緑が美しいです。
石燈籠には当然葵の紋。
手水鉢にも葵の紋。
手水舎の屋根瓦にも葵の紋。
本堂。
いやもう、瓦が眩しいです。
どんな神社仏閣も、完成当時は光輝いていたのだろう、と思わせる眩しさです。
「大樹寺」の沿革。
長い……。
「應仁元年(一四六七)八月二十三日井田野の合戦で多くの戦死者が出て悪疫が流行したので松平親忠公は勢誉愚底上人に帰依して七日七夜の別時念佛会を修し、敵味方の別なく千人塚をつくつて葬った。その後、文明七年(一四七五)親忠公は熱心な念佛者となり、愚底上人を開山として大樹寺を建立した。それ以来、大樹寺は松平家徳川家の菩提寺として一千石近い禄を受け、大樹公寺と称し二十有餘の末寺を持つ東海の名刹となった。現在でも岡崎城の天守閣と大樹寺の総門三門本堂は南北一直線上にある。本尊の阿弥陀如来は鎌倉初期の作と言われ、一光千体の阿弥陀如来として信仰されている。親忠公は愚底上人より在家としてははじめて五重相伝を受けられたので、大樹寺は浄土宗五重相伝の根源道場として知られている。松平第九代の家康公は十九才の時、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした。大樹寺住職登誉天室上人はこれをとどめ、「厭離穢土欣求浄土」の教えを説き、家康公に浄土念佛の教えの尊さを教えた。それ以来、家康公は熱心な念佛者となり、生涯この「八文字」を座右の銘とした。この時、家康公を追う野武士の一隊が大樹寺を囲んだが、「厭離穢土欣求浄土」の旗を立て、大力無双の祖洞和尚が門の貫木を引き抜いて奮戦し、敵を退散せしめた。これを大樹寺の陣という。家康公はこの貫木を「開運の貫木」として尊信したが今もこの貫木は大樹寺に安置されている。家康が陣中において人知れず書いた「陣中名號」はたくさんあるが、この寺にも珍蔵されている。松平御八代の墓は西方墓地の北側にあり、近年、家康公の墓も岡崎市民により建てられた。三門と鐘楼は三代将軍家光公の建立で、三門楼上の「大樹寺」の扁額は後奈良天皇の宸筆である。西方に見ゆる多宝塔は天文四年(一五三五)松平清康公の建立で、重要文化財に指定されている。本堂と大方丈は安政二年(一八五五)に焼失したが、安政四年、十三代将軍家定公の時に再建された。大方丈の障壁画は、土佐派の画家、冷泉為恭(れいぜいためちか)の描いたもので、一四六面あり、重要文化財に指定され、その一部は収蔵庫に陳列されている。その他、多くの文化財を持ったこの寺は、毎年八月六、七、八日の三日間、宝物の曝涼をかね一般に公開している。なお毎月十七日には別時念佛会を修し、住職の法話がなされている。」
「應仁元年(一四六七)八月二十三日井田野の合戦」……これは、前回の「伊賀八幡宮」の伝説のところで出てきた戦い……だと思います。
天水桶……かな……にも葵の紋。
「岡崎観光文化百選」にも選ばれているそうです。
文化財の数々。
さて、もちろん中に入って、参拝。
また、大方丈、文化財収蔵庫、位牌堂を巡ることができます(有料)。
途中、「徳川家康」公を救った「貫木神(かんぬきしん)」が祀られていたり、「大樹寺の陣」についての解説があったり、「冷泉為恭」の障壁画が見られたりします。
また位牌堂には、松平八代・徳川十四代(「徳川慶喜」公の位牌はない)の等身大の位牌が安置されています。
そこで、松平家・徳川家の年譜が頒布されています(有料)ので、お求めになるとよいかと思います。
何しろ文化財ですし、写真はまったくありませんが、是非とも足を運んでいただきたい、と思います。
境内には、
「豊国稲荷」があります。
が、あまり関係ないでしょう。
輝く屋根を見よ、という感じ。
こちら、本堂向かって左手の開山堂。
写っていませんが、左手に歴代住職のお墓があるそうです。
本堂、銅が貼られているようです。
これで壁が全面銅で覆われていたら、またいい感じの味わいになっていたんでしょうけれども……意味があるのかないのか。
「家康公霊夢像」。
「徳川家光」公の夢に出てきた「徳川家康」公を描いた図画を参考に作られたそうです。
そういえば昨年が没後400年で、いろいろ祭りやらイベントが行われていましたね……みごとに乗り遅れる私。
逆光全開、の鐘楼。
装飾が過多でないのもいいですよね。
山門を入ってすぐに左手に折れますと、多宝塔へ向かうことができます。
右手は霊園で、その一番奥には松平家の廟所があります。
天文四年の建立ですよ、と。
葵葵葵。
多宝塔としては、二層目の円形部分がちょっと小さい、細いでしょうか。
しゅっとしていて、これはこれで美しいですが。
境内最古の建物のようですが、かなり整備されていますね。
もちろん、いつかの時点で修復されているのだと思いますが。
案内板がありました。
そういえば、多宝塔の中ってなかなか入れないですよね。
蟇股の彫刻がもうちょっと見たいなぁ、と思ってズームしてもこれ。
まあ、がんばったとはいえiPhoneですから……。
で、多宝塔までの道すがら、植え込みのあちこちにですね、
謎の僧形の像がたくさんありまして……特に由来とか書いてなかったんですが……ちょいちょい、マヤかアステカっぽい像もあったりして、「?」な空間でした。
他、境内には、
……地蔵堂かな?
切腹しようとしている「徳川家康」と、それをとどめる「登誉上人」でしょうか。
忠魂碑。
「熊野権現」らしいです。
池、などがあります。
御朱印。
「厭離穢土欣求浄土」。
『往生要集』から引いた言葉、だそうです。
「えんりえどごんぐじょうど」と読んだり、「おんりえどごんぐじょうど」と読んだりします。
「苦しみの多い汚れたこの世を厭うて離れたい、喜んで極楽浄土を請い願う」という意味だそうです。
いい言葉です。
響きといい、押韻といい。
巨大な願いをぎゅっと圧縮した、力ある言葉ですね。
でも、現代人で、仏教徒でもない私は、ひねくれているものですから、
「欣求穢土厭離浄土」
という言葉に変換したくなります。
そうですね、泥と小便まみれだとしても、この現世で、
「頼まれなくたって、生きてやる」
という感じでしょうか(by『ブレンパワード』)。
とはいえ、この言葉の書かれた御朱印ほしさにやってきたというところもあります。
他にもまだいくつか巡りたいところがあったのですが、思いの外「大樹寺」を堪能してしまったので。
ひとまず「岡崎めぐり」はこれまで〜。