さて。
文章のみですので、オヒマナラミテヨネ〜さんはどうぞ。
相変わらず、
○こちら===>>>
↑が超優秀なので(内容の真偽は、私には判断できませんが)。
27コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「伊賀八幡宮
伊賀八幡宮は伊賀町字 南郷中壹番、同廿七番、東郷中八十六番 地に鎮座、境内二千九百二十七坪四合一寸を有す、文明年中松平親忠の創立である。
社記に曰ふ、後土御門天皇の文明年中(或は云ふ文明二年)三河國井賀の郷 和名類聚鈔に位賀の郷あり之を以ても古き郷名なるを知らる に伊賀八幡宮は初めて鎮座があった。実に三河前四代松平右京亮親忠の勧請しまつりたるものでる。
親忠の父たる和泉守信光は、岩津城に住み、安祥城を攻めて之を陥れ、五男光重を岡崎城に在る西郷弾正左衛門尉頼嗣の女に養嗣たらしめ、勇を遠近に振うた。
親忠に及んで、安祥城に移り、岩津岡崎の中間に在る井賀の地を卜し、我が氏神として武運長久子孫繁栄を祈願せん爲め、八幡宮を斎き祀り、伊賀八幡宮と号した。之より所の名を伊賀と改めた。」
松平四代「松平親忠」は、15世紀半ば〜末の人です。
一方で、
「三河國井賀の郷 和名類聚鈔に位賀の郷あり之を以ても古き郷名なるを知らる」
『和名類聚抄』は平安時代に編纂されている、とするのが一般的です。
「之より所の名を伊賀と改めた。」
ということは、「伊賀八幡宮」が創立されたことと、この地が「いが」と呼ばれていたことの因果関係が崩れるのではないか、と思われます。
もうちょっと後にします。
「五代長親、六代信忠、又常に崇敬を怠らず、七代清康に至りて、岡崎城に移り、南征北伐、三河の一統に努めたれば、更に社殿を造営し、弓箭を献じ、出陣毎に必ず祈願を籠めた。
天文四年の十二月五日、清康の尾張守山の陣中に於て不測の難に遭ふや、織田弾正忠信秀、大軍を率ゐて三河に侵入し来り、此月の十二日、大樹寺表に陣を立て、岡崎城を一揉に揉落さんとす。
清康の子広忠、時に年漸く十歳、更に内訌のあるありて、岡崎家人の憂惧言ふばかりなし、さりとて代々の所領を敵の馬蹄に委し何の面目あるべきと、総勢僅に八百餘人、岡崎城を出で、常例のままに伊賀八幡宮の社前に丹誠を致して祈願し、やがて伊田の原に駆け出て、激戦数合、折しも不思議なる哉伊賀八幡宮の社頭俄に鳴動し、一の鳥居一間ばかり北に動き、白羽の箭敵中に降ること雨の如く、敵の軍勢を向くべくもあらで、散々に敗北し、尾張の国へ逃帰った。
此の戦の最中に、蘆毛の馬に跨りたる武者一騎、其の様凡人と思はれざるが、味方の真先駆けて敵中に攻め入るを見たと、之より伊賀の郷にては芦毛の馬に乗ることを忌んだ。
この不思議の事実は、大久保彦左衛門のしるせる参河物語にも家忠日記にも、其他参河松平氏の歴史記録にも悉く載せて居る。
此時の白羽の神矢は、永く子孫まで神威を崇仰せしめん爲とて、広忠により二箭を神社へ奉納した。清康の叔父なる松平内膳正信定の、広忠を逐ひて岡崎城に入るや、岡崎の家人等の、我に叛心を抱くを見て、伊賀八幡宮の社頭に於て、誓書血判を爲さしめたる事があつた、されど神は非礼を享け給はず、信定程なく没落し、広忠再び岡崎城に入つた。」
前回、神社の略記にもあった「白羽の矢が敵陣に降り注いだ話」ですね。
「折しも不思議なる哉伊賀八幡宮の社頭俄に鳴動し、一の鳥居一間ばかり北に動き」
鳥居が動いたそうです。
「此の戦の最中に、蘆毛の馬に跨りたる武者一騎、其の様凡人と思はれざるが、味方の真先駆けて敵中に攻め入るを見たと、之より伊賀の郷にては芦毛の馬に乗ることを忌んだ。」
さらに、謎の芦毛の馬にまたがる武者がいた、と。
「清康の叔父なる松平内膳正信定の、広忠を逐ひて岡崎城に入るや、岡崎の家人等の、我に叛心を抱くを見て、伊賀八幡宮の社頭に於て、誓書血判を爲さしめたる事があつた、されど神は非礼を享け給はず、信定程なく没落し、広忠再び岡崎城に入つた。」
また、↑の伝説からうかがうに、「伊賀八幡宮」は、松平宗家の守護神として活動しているように思われます。
「天文十一年十二月、家康岡崎城に生誕あり、氏神としての尊崇愈々厚く、初陣の際、当社に祈りて勝利を得られしより、吉例として大事の戦毎に必ず参り詣でられた。
永禄三年五月、今川義元桶狭間に討死したれば、家康大高城を撤退し、夜に紛れて参河へ引返す途すがら、野武士一揆等屢々道を遮るを打払ひ打払ひ、漸く矢作河畔に出でしが、いづこを渡すべしともわきかねて、暫し躊躇ふ折しも、一匹の神鹿忽然として対岸に現はれ、浅瀬を踏んで此方へ渡り来り、又忽ちに姿を隠した、一同これこそ伊賀八幡宮の示現なれと喜び勇み、難なく川を越えて大樹寺に入つた、此處を世に鹿の渡と云ひ伝へた。(大樹寺記録参照)この鹿の渡については、長瀬八幡宮、大門八剣神社にも伝へがある。」
「徳川家康」が、桶狭間の戦いから三河へとって返す際には、「伊賀八幡宮」の使い(鹿)がそれを導いた、という伝説もあるようです。
「永禄九年家康二十五歳の時、社頭を造営し社領を上り、神殿の戸帳に其の姓名を自筆して献納した、此年家康は、徳川氏を称する事の勅許を受け、併せて従五位下参河守に任ぜられたれば、その報賽の爲め造営献納に及んだものであらう。
慶長五年、関ヶ原合戦の時、社殿鳴動し、物の具の音夥しく聞え、一の鳥居西の方に歩み寄る、家康神威を畏み、慶長七年八月社領二百二十八石餘を加増し、後陽成天皇の御神号宸筆を奉納し、同十六年に至り、社殿の建造を命じた。元和元年大坂陣の時、一の鳥居また西の方へ動き、家康霊夢を蒙れるを以て祠官柴田刑部少輔正勝を召して、更に社領二百十一石餘を進献し、本殿屋根葺替の料として金百両を奉つた。」
「寛永十一年三代家光将軍上洛の際、老中松平伊豆守信綱を代拝として社参せしめ、寛永十三年社領百石を加増して都合五百四十石とし、岡崎城主本多伊勢守忠利を奉行として社殿造営を行はしめ、併せて相殿に東照宮を勧請せしめた。
寛永十四年の冬、一の鳥居西の方に動き寄る、人々不思議の思を爲したりしが、果して島原の変が起つた。是に於て愈々霊威の灼然なるに驚いたと云ふ。
寛永以後、江戸時代を通じて社殿神門の修理修復を行ひし事凡そ八度に及んだ。」
島原の乱のときにも、鳥居は動いています。
「慶応元年閏五月五日、徳川家茂上洛の際社参した。当時徳川氏の武威漸く地に墜ちたりしが、猶其の雄壮の隊列いかめしく厳かなりし礼拝の作法は、今なほ古老の伝ふる所である。明治の御代に及び、西南の役より日清日露の大役青島の役に屢々威霊の現はれたる事は人の知る所である。」
西南戦争、日清・日露戦争の際にも、何らかの示現があったようで、こうなってくると「伊賀八幡宮」は、松平・徳川の守護神というよりは、日本の守護神のようですね。
「彼の本多平八郎忠勝の鹿角の兜については、其の由緒にも記したるが如く、忠勝、或時夢に伊賀八幡宮の示現を蒙り、早朝八幡宮に参拝し、帰途祠官柴田の家を訪問す、折柄祠官の弟柴田因幡、神符を以て物を造り居しが、忠勝を見て曰ふ、君は神の示現を受けて来れるものなるべし、我も霊夢によりて君に授くべき兜を製するものなりと、忠勝いたく驚き、さては貴殿の霊夢と我が蒙りし示現と全く節を合すが如くであると、深く神霊の加護に感激した。この因幡の製したる兜こと、かの名高き鹿の角の兜にして、忠勝が家康に随従して、百戦百勝、身に一創を蒙らなかつたのは、全く此の神授の奇特に因るものであらう。」
↑「本多忠勝」の兜が、どうやら「伊賀八幡宮」由来であるようです……戦国武将のことはほとんど知りませんがな……。
「(略)
尚、境内に、牟久津社祭神大名持命、上総社祭神天日鷲命、安芸社祭神市杵島姫命、讃岐社祭神大物主命、教国稲荷社祭神倉稲魂神がある。
牟久津社は、国内神名帳に、少初位牟久津神とある社である、上総社は、慶長年中、当社の祠官柴田刑部少輔正勝が、上総国佐貫より当国へ移住の際、遷座勧請せし由を伝へ、安芸社は俗に弁財天社と称し、もと同町字愛宕下三十九番地にありしを、明治十五年七月廿七日当社境内に移転せし社であり、讃岐社は俗に金比羅社と称し、もとは安芸社の境内社であつたが、安芸社と同時に此地に移転し、教国稲荷社はもと同町伊賀山にありしを、大正十三年三月今の地に遷座せしものである。
もと、境内に本地仏薬師堂、並びに鐘楼があつたが、神仏分離の時破却した。」
よかった、境内末社に関する記述がありました。
御祭神も書かれていますので、ありがたいありがたい。
「(略)
縁起
三州伊賀八幡宮者、昔源頼義、安倍貞任宗任追罰之爲祈願、領国伊賀国甲賀郡へ、石清水八幡宮奉勧請、祈願天下泰平し給ふ、然る後御当家御先祖松平左京進親忠公、爲御子孫御長久、伊賀国より三州額田郡下井田村へ御勧請、其所を伊賀と御改、依之号伊賀八幡宮(以下略)」
↑この縁起、神社の案内にもありましたが、より詳しく書かれています。
「源頼義」が「安倍貞任」「安倍宗任」を討つべく、自分の領地である伊賀国甲賀郡(甲賀は近江国じゃないのか、というツッコミがあります)へ「石清水八幡宮」を勧請し、そののち「松平親忠」がその八幡さまを、額田郡下井田村へ勧請し、地名を「伊賀」とした、というあれです。
「源頼義」「安倍貞任」「安倍宗任」……ええと、前なんとかの役とか、後なんとかの役、ですかねぇ……うう、中世の知識もほとんどない……。
ま、ともかく、伊賀国にあった「八幡宮」を勧請し、「伊賀八幡宮」とした、ついでに地名も「伊賀」にした、と。
これが、↑の方で書いた、『和名類聚抄』の記述と矛盾しているのではないかな、と。
そもそも「いが」と呼ばれていた地名で、すでに「いが八幡」があったかもしれない。
それを改めて「伊賀八幡宮」としたのは、「徳川家康」の「伊賀越え」に関係あるのではないでしょうか。
「松平広忠」が遭遇した、「伊賀八幡宮から無数の白羽の矢が敵陣めがけて降り注ぐ」という伝説は、後世の創作、だとしましょう。
「伊賀越え」に協力したのが、「服部正成」などの伊賀・甲賀の地侍だとして、その功績で、松平・徳川の守護神たる「伊賀八幡宮」が整備され、そこから過去に渡って松平の守護神だったという伝説が作られた。
ところが、幕府が江戸に立ち、尾張が御三家に立ち、駿河には久能山東照宮、という具合に、父祖の地たる岡崎が今ひとつ優遇されている感じがしない。
そこで、「伊賀八幡宮」の周囲に住み着いていた伊賀者が、何かが起こるたびに鳥居を動かして、神威を演出していた。
一種の示威行動でしょうか。
うーん、時系列がちょっとめちゃくちゃな話になってしまいますね。
……実は、「伊賀者」の源流は岡崎の「いが」の方で、伊賀国には岡崎の「いが」から移住した人たちがいたのではないか。
「松平広忠」を救った「白羽の矢」も、この岡崎の「いが者」が影から助けたということではないか(鳥居を動かしたのは当然「いが者」で、これは反撃の準備ができた、という合図だったのではないか)。
そしてこの縁があったからこそ、「徳川家康」の「伊賀越え」も成功したのではないか。
その後も「いが者」たちは、ことあるごとに「徳川家康」に力を貸した。
そんな妄想もしてみたんですが。
最終的には、「人別帳」を争って、甲賀・卍谷と……あ、こりゃ『甲賀忍法帖』だ……。
結局、どうして伊賀国から「八幡宮」を勧請したのか、ということはよくわかりません。
伝説の通りでも別にいいんですが、だったら「石清水八幡宮」でも「鶴岡八幡宮」でも、大きな「八幡宮」はいくらでもあるので、そちらから勧請すればいいのに、なぜ伊賀国なのか。
やっぱり、もともと「いが」の地にあったから「いが八幡宮」で、「徳川家康」の「伊賀越え」と関連づけて「伊賀八幡宮」にした、というのがわかりやすい構図ですよね……。
うーん……とりあえず、妄想できたからいいかな。