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神社仏閣ラブ(弛め)

「三井寺」(4)〜近江めぐり

さて。

 

○前回まで===>>>

「三井寺(天台寺門宗総本山園城寺)(1)」〜近江めぐり

「三井寺」(2)〜近江めぐり

「三井寺」(3)〜近江めぐり

 

孔雀舎(?)を後にしまして、順路の通りに進みます。

 

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そりゃそうだ、な立て札。

 

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こちらは「一切経蔵」。

 

一切経蔵は、仏教のすべての経典、つまり一切経大蔵経ともいう。)を納める施設のことで、この経蔵には版木の一切経が収められています。

この経蔵は、桁行一間、梁間一間、一重、宝形造、檜皮葺の禅宗形式をもった建物ですが、裳階を付けているため柱間が三間三間、屋根が二重に見えます。内部には一切経を納めた八角形の輪蔵(回転書架)を据えています。全体におだやかな感じをもち、禅宗様経蔵の古い例として貴重なもので、室町時代中期を降らぬ建物とされます。

なお、この経蔵は、もと山口県の国清寺にあったものを毛利輝元によって慶長七年(一六〇二)に移されたものといわれています。

明治三九年(一九〇六)四月に国の重要文化財になりました。」

 

パンフレットによれば、「高麗版一切経を納める」とあります。

李朝は苛烈な廃仏を実施したことで知られていますが、高麗はそうではなかったようで(あまり詳しくありません)。

一切経といったら、江戸時代、黄檗宗の鉄眼和尚のことが思い出されます(この頃まで、国内での一切経翻刻することはなかったそうです)。

中に入ると、八角輪蔵を間近で見ることができます。

連続体(Q連続体じゃありませんよ?)がお好きなかたは是非とも。

かなりの大きさです。

 

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ぽつねん、という感じで佇む姿がいいですね。

 

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ところどころに、「三井寺」開山の「智証大師」の聖訓が建てられています。

 

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そのまま進むと「三重塔」が見えてきます。

 

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「この三重塔は、もと大和国奈良県)の比曽寺(現在の世尊寺)にあった東塔を慶長六年(一六〇一)に移したもので、大和地方における中世の塔の風格をもっており、鎌倉時代和様の様式を伝える南北朝時代頃の建築とされます。

塔は、三間三重の塔婆の形式で、本瓦葺の屋根をもち、各重の落ちも大きく、初重目に縁をつけています。また、二重目、三重目、に菱格子を用いているのは珍しいものです。(略)」

 

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正面から。

こうして写真に収めようと思うと、五重塔より三重塔のほうが、サイズ感としてはよろしいですね。

そんなこと考えて、当時の人が作っているわけはないのですが。

 

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「三重塔」の前を過ぎて、並んだ二つの建物の右側、大きいほうが「灌頂堂」、左側が「長日護摩堂」です。

 

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「灌頂堂」と「三重塔」の位置関係はこんな感じ。

「灌頂堂」の奥には「大師堂」があり、そこには「智証大師」像二躯、「黄不動尊」がまつられているそうです。

 

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「長日護摩堂」の案内。

「三重塔」「灌頂堂」「大師堂」「護摩堂」のある一角は「唐院」と呼ばれ、パンフレットによれば、

 

「当寺の開祖・智証大師円珍(八一四〜八九一)の廟所として最も神聖な場所。唐院の名は、智証大師が入唐求法の旅で持ち帰った経典類を納めたことに由来する。」

 

そうです。

「大師堂」にまつられる「金色不動明王像(黄不動尊)」について、図録『不死鳥の寺 三井寺』より、

 

「金色不動明王が大師の修行を擁護するために姿を現わしたのは、承和五年(八三八)の冬、比叡山における石龕の中で篭山修行中で、二十五歳のときである。その姿は「魁夷奇妙にして威光熾盛なり、手に刀剣を捉り、足は虚空を踏む」と三善清行の『円珍伝』に伝えている。金色不動明王は円珍の法器を愛するが故に汝の身を擁護する。すみやかに三密(身・口・意の三つの秘密)を究めて、衆生の舟航となるべきであると密教修行に精進することをうながした。大師はその姿をとどめ、のちに画工空光に描かせたのが、一山の秘仏として今日に伝えられる黄不動尊画像である。二年後の夏に、金色不動明王は再び大師の前に現われ、親しく立印儀軌を授け、次いで灌頂大法を授けている。その後、身の重大事の折には必ず姿を現わし、大師を擁護しつづけた。仁寿三年(八五三)、入唐途中で、台湾に漂着し、危機に見まわれたとき、舳に立って風を起して難を避け、在唐中、大中九年(八五五)、蘇州で病に倒れたとき、枕元に影現して看護した。また、貞観元年(八五九)、三井寺再興の歳に、湖南太神山山頂に天照大神の化身として現われ、田上不動寺の草創をおこなっている。こうして、金色不動明王は常に大師の密教修行を見守り、事あるごとに現われて、擁護する護法の童子となる。現在唐院の厨子内に秘蔵される黄不動尊彫像は、入唐中に大師乗船の舳に立って、舟を導いた金色人を自ら彫出した姿を伝えている。」(p106)

 

ということです。

秘仏ですが、『不死鳥の寺 三井寺』には写真が収められています。

その解説には、

 

「像容は岩上に両足を開いて、正面を向いて立ち、両眼は大きく見開き、両牙をむき出す姿は国宝金色不動明王像(根本画像)と同じである。」(p109)

 

とあります。

私には、「お不動さんは、左右の眼の大きさが違い、口から突き出した牙も、下の牙が上唇を、上の牙が下唇を噛むように突き出している」という先入観があったのですが、こちらは「両眼は大きく見開き、両牙をむき出す姿」というシンプルな様相です。

こちらが古い様式なのか、なんとも私にはわかりませんが……。

ところで、↑↑で「智証大師」を見守る「金色不動明王」の甲斐甲斐しさといったら、まるで親子のようですね。

それだけ「智証大師」の将来性にかけていたのか、それともよほど「智証大師」が頼りなかったのか……まあこれは表裏ですから、どちらでもおかしくはないと思います(その業績を考えれば、なんと失礼なことを、と思われるかもしれませんが、あまりに守られているもので……あ、当時の高僧というのは、そうでないといけなかったのかもしれないですね)。

ただ、

 

「現在唐院の厨子内に秘蔵される黄不動尊彫像は、入唐中に大師乗船の舳に立って、舟を導いた金色人を自ら彫出した姿」

 

……これって、「不動明王」じゃない可能性がありますよね。

「金色人」ってなんでしょうね。

 

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こちらが「唐院」の門です。

 

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「唐院」の解説板。

 

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「唐院」の門へと続く石段。

見えづらいですが、一番手前は「橋」です。

穢れを川で流してこい、という意味と、「あちらはこの世ではありませんよ」の意味と、どちらもあるのではないかと思います。

もちろん、ただの建築様式、ということもあり得ますが、何しろ御廟ですから。

 

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真ん中んあたりの赤いところにいます。

半分くらいでしょうか。

今回はここまで〜。