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九州地区で大地震が発生。
次に来るなら地元だろう、と思っていたのに。
何ができるでもないですが、とにかく山の神様のところに伺おう、と思い、「冨士神社」へ。
○こちら===>>>
東区のこの辺りは、栄に接続している繁華街が近いのですが、一方でお寺も多いです。
すぐ裏手が駐車場だったので、本殿を後方から。
「冨士神社と築城石
冨士神社は、もと冨士浅間宮、冨士権現社又は冨士塚権現とも呼ばれ、木花咲耶姫命を祭神とする。昔は社地六十間四方(尾張志は二町又は四町四方とも伝える)と、ほかに控地を有し、うっそうとした森に囲まれていたといわれる。
名古屋城築城の際、浅野幸長が社域に普請小屋を設けたため、社は幅下(西区浅間町)に遷された。その後再びこの池に社殿を建てて冨士浅間宮を祀った。
境内には、今も□の紋様が刻まれた築城石の残石がある。」
「浅野幸長」……いや、本当に戦国時代のことを知らないので、「誰だっけこの人?」と思ってしまいまして検索。
○こちら===>>>
豊臣方の偉い人でしたか(そして、石田三成嫌いと)。
「冨士神社
祭神 木花咲耶姫命
由緒記
当社は人皇九十九代後小松天皇の御代応永五年(※1399年/ブログ筆者注)六月この地の郷士前山源太夫なる人駿河の国太宮(現静岡県富士宮市)の冨士本宮浅間神社へ参拝し、其の御分霊を勧請し、此の地に奉祀せられたるを創始となす その頃この池は山口の前山と称し地域は四町四方並に外山を加え宏大にして老松杉等繁茂幽寂なる神苑は参拝者の心身に自ら清浄感を抱かす近郷稀に見る霊地であった
偶正親町天皇の御宇天正十年七月一日には徳川家康公の参詣された事が旧記にある
御祭神は縁結び安産又鎮火の神として崇敬者多く大祭は毎年五月十一日に執行せられる」
うーん、清洲越し以前の名古屋近辺の姿、というのが今ひとつ思い浮かばないんですよね……そんな絵図はどこかにないものか(古地図も清洲越し以降のものが多いですし)。
すみませんいきなり拝殿です。
狭隘な敷地に祀られているのですが、氏子さんたちは今も多いようです。
ちょっと引きました。
左手奥に、
「稲荷神社」と、
「白龍社」。
大正時代の石灯籠。
正統派な狛犬さん。
「駿河町」の標識。
ちょっと小ぶりな狛犬さん。
それほど大きくないのに、狛犬さんが二組。
崇敬されていますね。
50年ぶりに復活した御神水、なのだそうですが「飲料水でわありません」。
久々に見た気がします、この「わ」の使い方。
百度石。
銅を貼ったらしい、二の鳥居。
こうしてみると、それほど境内は広くないのに、情報が凝縮されているように思います。
「名古屋城石垣残石の由来
此の地、往昔、山口の前山と呼ばれ、老杉古松四方に繁り、四季に春鶯秋虫の音が、玉とひびき神威を感じさせる霊域であった。慶長十五年名古屋城築城に当り、この地に普請小屋が設けられたため、この社は幅下に遷された。
この度この造苑を成すに際し巨大石多数出土し、中の一つに□あるものを発見し、ここに利用することになった。
名古屋城石垣の残石であり、当地が築城の普請小屋の一つであったことを証明することとなった。」
「山口の前山」……↑の由緒で出てきた「前山源太夫」さんと関係がある地名でしょうか。
この場合の「山」はどこを指しているのか……確かに栄や西区方面(北西)に向かっては、緩やかに登ってはいるのですが……名古屋城作るときに、山を削ったのかな……。
その隣には、澤田緑生氏の句碑と、どっかの政党がシンボルマークにしたおかげで残念な印象が強い「吾唯足知」の、これは用途としてはなんなのか……鉢?
一の鳥居まで戻ってきました。
入り口は南向きなのですが(そもそもそれも、ちょっとおかしいのですが)、そこから参道がぐいっと右に直角に曲がっています(社殿は東向き)。
怨霊どうこうよりも、町の作りのせいでしょうねきっと。
押し込まれた感じがします(あるいは、『テトリス』のようにはめ込んだ感じ)。
こちらは明治終わりのもののようです。
目の前を桜通という大通りが走っているので、うまいこと遠景が撮影できておりませんが、こんな感じです。
横から。
後ろから。
周囲はマンション、オフィスビルばかり。
そんな中でも、しっかりと主張のある神社だったと思います。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
↑より引用します(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
147コマです。
「富士権現社
富士塚町の西側にあり。もと山口の前山と呼び、社地広大にして、応永の頃は前山源左衛門神職たりしが、御城御造営の時、社を巾下蛯屋敷の南にうつし、其跡浅野紀伊守の普請場となる。其後武家屋敷となりても、塚山及び此社のみ残りて富士塚と呼び、町の名に及べり。
例祭 正五九月の十一日」
あっさり。
仕方ないのですけれど。
このコマより遡ってもらうと、とにかく図絵には寺、寺、寺ばかり。
ここまで集まらんでもいいんちゃうかな、と思います。
続いて、
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋
↑案内板でも引用されていた『尾張志』より。
17コマ。
「富士社
富士塚町にあり此地は慶長御遷府己前は前山と呼て巾下浅間町なる浅間社ここにありける時其摂社なりしがその旧址たるしるしに残れるなりこの本社浅間社巾下に遷坐の後此地ことごとく諸士の第宅となりて此社は津田氏の屋敷内なりしを寛政十二年二月あらたに表門を建てて境地と別にせり」
こちらによれば、「浅間社」があったころには摂社だったのが、後々改めてお祀りされることになった、と。
うーん、富士塚はどこにいっちゃったんでしょうね……。
江戸……じゃないわ東京には、いくつか富士塚が残っているんですが、名古屋ではそういえば見たことない、と思いまして。
東京と同じように、「富士見」などといった地名がもちろんあるのに、「富士講」は盛んではなかったんでしょうか。
うーん、尾張のメンタリティはどんな感じだったのか……。
ともかく、まずはお山の神様に祈念してまいりました。