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神社仏閣ラブ(弛め)

「県神社」〜奈良・京都めぐり〜

10/31。

宇治上神社」の参拝を終え、スマートフォンのバッテリー残量と、ぼちぼち暮れてくる日を気にしながら、最後に立ち寄ったのは「県神社」です。

 

○こちら===>>>

京都・宇治 縣神社公式ホームページ

 

↑いまどき珍しい、手作り感満載のHPです……なぜか昭和を思い出します(?)。

朝方見た、

 

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↑の鳥居をくぐってまっすぐ突き当たりまで行きますと、左手にありました。

 

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「県神社

県とは、大和政権が西日本の要地に設けた地域組織で、特に畿内にあった県は、政治と祭祀に重要な位置を占めていたといわれており、当時の宇治が属したといわれる栗隈県に社名の起源をもとめることができます。祭神木花開耶姫といわれ、永承7年(1052)に藤原頼通平等院を建立した時に、その鎮守としたとも伝えられています。毎年6月5日から6日の未明にかえて行われる県まつりは、暗夜の奇祭といわれ、多くの人出でにぎわっています。」

 

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写真は少ないです……はい。

 

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「(略)

明治維新までは三井寺円満院(大津市)の管理下にあったが、これは平等院が三井門主の開眼にかかり、天台宗に属していたためである 維新後は神仏分離令によつてその管理からはなれた。(略)」

 

略した部分は、↑↑の方の案内板と大体同じ内容です。

 

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拝殿。

地元の崇敬が篤い、というのが見て取れますね。

 

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「稲荷神社」。

 

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「天満社」。

 

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西側の鳥居。

その手前にあるのが、「あがた祭り」で用いられる、梵天です。

公式HPでは、

 

「六月五日から六日未明にかけて行なわれる「暗闇の奇祭」として有名です。当日はあがた通り、本町通り、新町通りを結ぶ三角形の通りに露店が700店余り出店し、十数万人の見物客で終日賑わいます。あがた神社では五日の朝御饌の儀から神事が始まり、夕方の夕御饌の儀をへて祭のクライマックス、梵天渡御へと盛り上がっていきます。十時ごろ露店は終わり十一時ごろから梵天が法被装束に身を包んだ、地元の梵天講の若者達に担がれて動き出します。本殿で灯りを消した真っ暗な中で神移しが行なわれ出発します。境内を練り歩き鳥居をくぐって表に出た梵天は、旧大幣殿前でブン回しや差し上げなど勇壮に走り回ります。再び境内に帰って還幸祭を終えるのは夜中の1時ごろ。まさに暗闇の奇祭の名に相応しいものです。」

 

と書かれています。

梵天、というのは、昔ながらの耳かきの一方の端についている、白いふわふわのことも言いますね。

梵天」はバラモン教では「ブラフマン」と呼ばれた神で、仏教に取り入れられた際に音訳で「梵覧摩」、そして「梵天」となったそうです(『密教辞典』(法蔵館)より)。

この「梵天」が、どうして白いふわふわを指すようになったのか、というのは検索していただければ、なんとなくわかると思います(をい)。

修験道が関係しているようです。

ともかく、御幣の一種、ということで覚えておきましょう。

祭りでは、これを勇壮果敢に振り回すようです。

御幣ですからね、振らなきゃいけないんです。

 

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ちょっと遠景。

境内はそれほど広くないので、全景を収めるのが逆に難しいです。

拝殿が非常に立派なのです。

 

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……あれ、こちらは何だったっけ……。

 

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神社の裏側が駐車場になっており、そこから本殿を。

様式がよくわかりません。

 

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第1編都名所図会

 

↑『都名所図会』から引用します(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

311コマです。

 

「縣社 は平等院の後、西門の跡の傍にあり。祭る所は弓削道鏡の霊なりとぞ。一説には、宇治の悪左府を祭るともいふ。 [保元物語]に曰く、宇治左大臣頼長卿は、知足院禅閤殿下の三男にておはします(原なり)。信西を師として常に学窓にこもり、仁義礼智信を正しくし、賞罰勲功をわかち政務をきりとをしにして、上下の善悪をただされければ、時の人悪左府とぞ申しける。 例祭は五月五日夜、神輿一基あり。」

 

悪左府というのは、

 

○こちら===>>>

藤原頼長 - Wikipedia

 

↑「藤原頼長」さんのようです。

これまた面白そうな方なんですが、いかんせん中世史の知識が……いずれ勉強します。

弓削道鏡の霊が祀られているかどうかはともかく、「悪霊民部卿」といわれた「藤原忠文」、「悪左府」の「藤原頼長」、とかなり呪われていますね「宇治」(あ、「悪左府」の「悪」は決して「悪い」というだけの意味ではないですので)。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 宇治誌

 

↑の77コマから、「縣神社の信仰、習俗」という論考が掲載されています。

 

「縣神社の信仰、習俗
縣神社の祭神木花開耶姫命で、天孫邇々芸能命が笠沙の御前で婚し給ひし妃神である。(略)斯くて姫命は我国貞操の女神として富嶽に奉祀し其崇高美を尚び奉り、御名に依りて清く、美しく、産む所の子亦健やかに幸多くあらんことを祈請し、併せて造酒、安産、結婚の守護神として尊崇奉祀せられ給ふ所以である。
縣神社は関白藤原頼通平等院建立の際、同院総鎮守として奉祀せるに始まり、姫命の又の御名、吾田鹿葦津姫ーー略して吾田津姫は「あがたつ」なれば、縣(あがた)と国音相通ずるものあり、頼通は総縣主として当時御所内にありし縣宮を此處に合祀し、縣の宮と改称したものと伝へられて居る。明治維新までは近江三井寺圓満院の管理に属したが、それは頼通の子が三井門主であり、平等院をも附与した関係からで、往昔は改築修繕は勿論、例年の大祭には院主自ら宇治へ出張し、神社に大護摩供を親修し、皇祚の無窮、国家の安穏、庶民の豊楽を祈祷したのである。
明治維新に際し太政官符で神仏分離、社僧復飾が令せられ、共管理を離れてからは、大祭当日も新暦の六月五日に改め、以て今日に至つたのであるが、縣神社の大祭は世に「あがた祭」と云はれて燈火を消して暗黒の内に行はれ、信仰の熾烈な賽者に雑閙を極むる有名なものである。
梵天の渡御は大幣神事に倣ふ点もあるが、此行事の源は徳川末期にあり、縣、宇治両神社を結びつけた行事として異色あるものた。即ち梵天渡御の当夜は全町総て参詣者の爲に開放され、自由宿泊の便に供されるが、暗夜の祭事であり、結婚守護の神であり、病障排除の祈願にも霊験顕著な處から、現実の悩みと将来の幸福を祈請する賽者は薄暮の頃から押し寄せて雑閙する。
惟ふに梵天の名は仏語であらうが、其形状は一種の幣(ヌサ)であり「サイハラヒ」でもある。三河の花祭等では祭具の幣を截るに当り、その材料の由来から長々と述べて礼讃する作法もあるが、縣祭りの場合は神官が既に截り整へた梵天に対して儀式が行はれる。「サイハラヒ」を神事に使ふ例は全国に夥しく、名前は「ボンテン」、「ヂャンバライ」「セイノカミ」等、種々であるが要するに「塞払ひ」であり「邪払い」である。塞(サイ)は「サヤル」ことで、「フサグ」意味であり、塞ぐものを除く神の力に信仰が生れる。「邪」は悪魔、罪障の類ひで、同じくこれを除くのが神の力であると信ぜられて居る。類例を求むるなれば梵天は「ハタキ」であり、目に見えぬ害敵、悪魔を塵埃に擬し、これを駆逐せんとするもので、清祓の厳粛な神事も斯かる思想から出発すると思ふ。
されば梵天は神の依代(ヨリシロ)であり、従つて紙片には神の息吹(イブキ)の縣るものなれば、貰ひ受けて魔除け、虫おさへ、其他願望達成の護符とするは当然考へられる事である。総て神事は「力の働きかける」ことが第一要件であり、賽者の祈請は神の意志を刺戟し、神の注意を深め、軈て或る種の力を作用せしむると信ずる時に梵天渡御の神事が一層意義づけられてくる。」

 

「縣神社は関白藤原頼通平等院建立の際、同院総鎮守として奉祀せるに始まり、姫命の又の御名、吾田鹿葦津姫ーー略して吾田津姫は「あがたつ」なれば、縣(あがた)と国音相通ずるものあり、頼通は総縣主として当時御所内にありし縣宮を此處に合祀し、縣の宮と改称したものと伝へられて居る。明治維新までは近江三井寺圓満院の管理に属したが、それは頼通の子が三井門主であり、平等院をも附与した関係からで、往昔は改築修繕は勿論、例年の大祭には院主自ら宇治へ出張し、神社に大護摩供を親修し、皇祚の無窮、国家の安穏、庶民の豊楽を祈祷したのである。」

 

↑これが社伝に近いものだと思われます(本書は1937年発行です)。

江戸末期には、御祭神は「弓削道鏡」か「悪左府」か、と言われていたのに、昭和初期には「木花開耶姫命」になっています。

 

 

明らかに、何かありましたね。

 

 

いえ、別に江戸時代の御祭神が確かなものだというつもりはありません(『都名所図会』は、かなり詳しい観光案内の域を出ませんから)。

ただ、ここに「木花開耶姫命」というのは、なにやら取ってつけたような話だなぁと思ってしまいますので。

「あがた祭」も、「此行事の源は徳川末期にあり」、ということはそれほど古くないわけです。

後半の、梵天に関する話は面白いと思います。

 

『都名所図会』以前の何かはないものか……と公式HPを見ていたら、

 

梁塵秘抄 (岩波文庫 黄 22-1)

梁塵秘抄 (岩波文庫 黄 22-1)

 

 

↑の一節がちらっと見えました。

 

「内には神おはす、中をば菩薩御前たちはなこしまのあたぬし、七寶蓮華はをしつるぎ。」(p53)

 

この脚注に、

 

「「内」は「宇治」か、「たちはな」以下「橘小嶋の縣主」か」

 

とあります。

これを元に書き直すと、

 

「宇治には神おはす、中をば菩薩御前橘小嶋の縣主、七寶蓮華はをしつるぎ。」

 

ということになります。

うーん、仮にそうだとしてもなんのことだかさっぱりわかりませんが、この「橘小嶋の縣主」が、「県神社」を指しているのではないか、ということでしょうね。

どうも検索してみると、『平家物語』の中に出てくる「橘の小嶋」というのが、平等院の北東にあった、宇治川の中の島」だとされているようです。

手元に『平家物語』が途中までしかないもので……『梁塵秘抄』をまとめたとされている「後白河法皇」といえば、平安時代末期から鎌倉時代初期の動乱の時代を生きられた方です(よね、確か)。

先ほどの「悪左府」こと「藤原頼長」とも時代が重なっています。

もちろん『平家物語』の時代でもあります。

どうもこの辺りに、「県神社」の実態をさぐる鍵があるのではないかと思います……が、『平家物語』どころか、「後白河天皇」どころか、実は「平清盛」のこともろくに知らないものでして(大河ドラマも見なかったし)、ちょっと勉強してみないと何ともかんとも……でも、何か面白そうな匂いがするのは確か、ですね。

 

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というわけで、盆休みを消化するための一泊奈良・京都めぐりは、充実した旅になりました〜。

この後は、いつも宇治から東名阪へ抜けるのをやめて、名神高速道路に抜けて多少なりとも混雑を避けて帰宅しましたよ〜。

こうして、有名どころを渡り歩くのもいいのですが、一つところに腰を落ち着けて、二泊くらいしながら探索してみたいものです(隠居のじいさんですね……しかも金のある隠居のじいさん)。

今年は(※現実時間)申年ですので、遠出をするなら「比叡山延暦寺」かな、と思っています。

あとは、北陸かなぁ……。

みなさま、宇治はいいところですよ〜(観光客は多いですが、「平等院」以外はそうでもないですから!!)。

萬福寺」でぜひとも、のんびりしていただきたいと思います。

では〜。