さてさて。(※2016/4/17追記あり)
実はもくそもないのですが、今の京都は、古代にはもちろん都ではありませんでした。
奈良、大阪、そして滋賀(近江)に置かれたことのほうが多かったのです。
古都、と呼ばれる資格は、何も今の京都だけにあるわけではありません。
そんなことは置いておいて(え?)。
↑『日本書紀』での「宇治」の扱いを見てみますと、仲哀紀元年の閏十一月条に、
「越国、白鳥四隻を貢る。是に、鳥を送る使人、菟道河の辺に宿る。」(p122)
という記事があります。
先々代「景行天皇」、先代「成務天皇」の頃の都は「志賀高穴穂宮」という、琵琶湖岸南部にあったとされるところで、「仲哀天皇」は即位して間もないのでおそらく都は遷していないでしょう。
「宇治川」の水源は琵琶湖ですので、このことが関係した記事ではないかと思います。
次は、神功紀の、前回紹介した「忍熊王」「麛坂王」の反乱場面です。
「忍熊王、復軍を引きて退きて、菟道に到りて軍す。」(p160)
「忍熊王」は、最初は播磨で「神功皇后」を待ち伏せていたのですが、兄弟の「麛坂王」が赤いイノシシに食い殺されてしまったので、軍を住吉まで引かせます。
さらに、「神功皇后」軍が迫ってきたので、「菟道(宇治)」に引きます。
この先には琵琶湖がありますので、根拠地は「志賀高穴穂宮」ではないかと考えられます。
「忍熊王」は「仲哀天皇」の皇子で、「仲哀天皇」は西方や三韓征伐に出ていて各地に行宮と思われるものは作っていましたが、畿内には新しい宮を定めていないので、先代「成務天皇」から引き継いだ「志賀高穴穂宮」がそのまま残っていたと思われます。
それを「忍熊王」がさらに引き継いでいた、と。
ついで神功紀摂政元年の三月条に、
「武内宿禰・和珥臣の祖武振熊に命して、数万の衆を率ゐて、忍熊王を撃たしむ。爰に武内宿禰等、精兵を選んで山背より出づ。菟道に至りて河の北に屯む。忍熊王、営を出でて戦はむとす。時に熊之凝(くまのこり)をいふ者有り。忍熊王の軍の先鋒と為る。 熊之凝は、葛野城首の祖なり。一に云はく、多呉吉師の遠祖なりといふ。 則ち己が衆を勧めむと欲ひて、因りて、高唱く歌して曰はく、
彼方(をちかた)を あらら松原 松原に 渡り行きて 槻弓に まり矢を副へ 貴人は 貴人どちや 親友はも 親友どち いざ闘はな 我は たまきはる 内の朝臣が 腹内は 小石あれや いざ闘はな 我は
時に武内宿禰、三軍に令して悉に椎結(かみあ)げしむ。因りて号令して曰はく、「各儲弦を以て髪中に蔵め、且木刀を佩け」といふ。既にして乃ち皇后の命を挙げて、忍熊王を誘りて曰はく、「吾は天下を貪らず。唯幼き王を懐きて、君王に従ふらくのみ。豈距き戦ふこと有らむや。願はくは共に弦を絶ちて兵を捨てて、与に連和しからむ。然して則ち、君王は天業を登して、席に安く枕を高くして、専万機を制まさむ」といふ。則ち顕に軍の中に令して、悉に弦を断り刀を解きて、河水に投る。忍熊王、其の誘の言を信けたまはりて、悉に軍衆に令して、兵を解して河水に投れて、弦を断らしむ。爰に武内宿禰、三軍に令して、儲弦を出して、更に張りて、真刀を佩く。河を度りて進む。忍熊王、欺かれたることを知りて、倉見別・五十狭茅宿禰に謂りて曰はく、「吾既に欺かれぬ。今儲の兵無し。豈戦ふこと得べけむや」といひて、兵を曳きて稍退く。武内宿禰、精兵を出して追ふ。適逢坂に遇ひて破りつ。故、其の処を号けて逢坂と曰ふ。軍衆走ぐ。狭狭浪の栗林に及きて多に斬りつ。是に、血流れて栗林に溢く。故、是の事を悪みて、今に至るまでに、其の栗林の菓を御所に進らず。忍熊王、逃げて入るる所無し。則ち五十狭茅宿禰を喚びて、歌して曰はく、
いざ吾君 五十狭茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜せな
則ち共に瀬田の済に沈りて死りぬ。時に、武内宿禰、歌して曰はく、
淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 目にし見えねば 憤しも
是に、其の屍を探けども得ず。然して後に、日数て菟道河に出づ。武内宿禰、亦歌して曰はく、
淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 田上過ぎて 菟道に捕へつ」
とあります。
「和珥臣の祖武振熊」「忍熊王」「熊之凝」……何だか登場人物が熊ばっかですね。
「神功皇后」の軍を率いていた「武内宿禰」と「武振熊」が、山背方面から「菟道河」に達すると、「忍熊王」の軍の先鋒である「熊之凝」が軍を鼓舞する歌を歌いました。
「彼方(をちかた)を あらら松原 松原に 渡り行きて 槻弓に まり矢を副へ 貴人は 貴人どちや 親友はも 親友どち いざ闘はな 我は たまきはる 内の朝臣が 腹内は 小石あれや いざ闘はな 我は」
(「遠方の疎林の松林に進んで行って、槻弓に鏑矢をつがえ、貴人は貴人どうし、親友は親友どうし、さあ闘おう、われわれは。武内朝臣の腹の中には、小石が詰まっているはずはない。さあ闘おう、われわれは」(岩波版『日本書紀』注による/p165)
↑この「彼方(をちかた)」が、「彼方神社」近辺の地名の元、と考えるとあまりに御都合主義でしょうか?
ま、それはともかく。
この後は、例のだまし討ちです。
「武内宿禰」が、自軍に命令して、予備の弓弦を髪の中に隠させてから弓弦を切り、また金属の刀を木刀と交換させて、降伏したふりをします。
「忍熊王」はそれを信じて、自分の軍にも同じように武装解除させます。
引っかかったとばかりに、「武内宿禰」は予備の弓弦を弓にかけ、隠しておいた(どこに?)金属の刀を装備させて戦いを挑みます。
こうして『日本書紀』を眺めていると、この手のだまし討ちがよほど好きだったんでしょうか……あるいはだまし討ちでないと破れないほどの軍勢だったのでしょうか。
最終的には、「忍熊王」の亡骸は、「菟道河」で発見されます。
↑『古事記』ではもうちょっと簡単な描写で、同内容を語っています(「武内宿禰」の役目を、「建振熊命」が担っているのがちょっと違いますか)。
続いて応神紀六年条に、
千葉の 葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ」(p196)
とあって、「菟道」辺りから「葛野」(今の京都市右京区辺り)を見て詠んだ、「国見の歌」「国誉めの歌」というやつですね。
「応神天皇」は奈良の「軽島豊明宮」か難波の「大隈宮」か(あるいは両方か)を都としていたようです(吉野にも行宮があったらしいですが)。
近江を避けたのは、「忍熊王」の勢力が残っていたからなのか、西に対して睨みを効かせるために難波に移ったのか、その辺りはなんともわかりません。
で、「応神天皇」、皇子である「大山守命」と「大鷦鷯尊(仁徳天皇)」を呼び出して、
「おまえたち、子どもは愛しいかね?」(大意)
と尋ねます。
二人とも「愛しいです」と答えます。
続いて「応神天皇」、
「大きくなった子と、まだ若い子ではどちらが愛しいかね?」(大意)
と尋ねます。
「大山守命」は、
「そりゃ大きい子でしょう」(大意)
と答えますが、「応神天皇」渋い顔。
これを見ていた「大鷦鷯尊」は如才なく、
「大きくなった子は、年を経て一人前になっているので、少しも心配はないでしょう。若い子は、一人前になれるのかどうかがわかりません。それは悲しいことです」(大意)
と答えました(『日本書紀』『古事記』ともほぼ同じ説話が掲載されています)。
「応神天皇」大喜び、というのも元々「応神天皇」は、まだ若いながらも優秀と言われている「菟道稚郎子」を皇太子にしたいと思っていたのですが、さて年長の皇子はどう思っているのかを知るために、こんな質問をしたようです。
「大山守命」は年長の子のほうが可愛いと言ったので失格(山川林野を司るように言われたのですが、左遷みたいなものでしょう)、「大鷦鷯尊」のほうは「応神天皇」の御心にかなった答えをしたということで皇太子の「菟道稚郎子」の補佐を命じた(実際には、皇太子が一人前になるまでの国政を任せた=摂政のようなものでしょうか)のでした。
こののち、「応神天皇」が崩御されるのですが、「菟道稚郎子」は、「大鷦鷯尊」に遠慮をしたのか、皇位につこうとせずそれを「大鷦鷯尊」に譲ります。
「大鷦鷯尊」も、こちらはこちらで、先帝の決めたことに従わないわけにはいかない、と皇位につきません。
そんなこんなしているうちに、「大山守命」が「じゃあ俺が」といわんばかりに「菟道稚郎子」を殺そうと企みます。
「大鷦鷯尊」はそのことを察知して、「菟道稚郎子」にそれを伝えます。
「大山守皇子、其の兵備へたることを知らずして、独数百の兵士を領ゐて、夜半に、発ちて行く。会明に、菟道に詣りて、将に河を度らむとす。時に太子、布袍服たまひて檝櫓(かぢ)を取りて、密に度子に接りて、大山守皇子を載せて済したまふ。河中に至りて、度子に誂へて、船を蹈みて傾す。是に、大山守皇子、堕河而没りぬ。更に浮き流れつつ歌して曰はく、
ちはや人 菟道の渡に 棹取りに 速けむ人し 我が対手に来む
然るに伏兵多に起りて、岸に著くこと得ず。遂に沈みて死せぬ。其の屍を求めしむるに、考羅済(かわらのわたり)に泛でたり。時に太子、其の屍を視して、歌して曰はく、
ちはや人 菟道の渡に 渡手に 立てる 梓弓檀 い伐らむと 心は思へど い取らむと 心は思へど 本辺は 君を思ひ出 末辺は 妹と思ひ出 悲けく そこに思ひ 愛しけく ここに思ひ い伐らずそ来る 梓弓檀
乃ち那羅山に葬る。既にして宮室を菟道に興てて居します。」(p228)
「時に太子、布袍服たまひて檝櫓(かぢ)を取りて、密に度子に接りて、大山守皇子を載せて済したまふ。河中に至りて、度子に誂へて、船を蹈みて傾す。」
……大意は、「「菟道稚郎子」は粗末な布の服を着て舵をとって、船頭に混じって「大山守皇子」を乗せて川を渡った。川の真ん中にきたところで、船頭を言い含めて船をひっくり返させた」といったところでしょうか。
そう、恒例のだまし討ちです。
「大山守皇子」を討伐した「菟道稚郎子」は、すでに「宇治」に「宮室」を構えていました。
一方の「大鷦鷯尊」は、どうやら先帝の都である難波にとどまっていたようです。
どちらも皇位につかず三年が過ぎると、「菟道稚郎子」が自害します。
これに驚いた「大鷦鷯尊」が、難波から「宇治」にかけつける場面が、『日本書紀』にはあります(『古事記』では、「菟道稚郎子」は早逝した、という書き方がされているだけです)。
先帝の都を守っていたらしいのは、「大鷦鷯尊」が先帝「応神天皇」に、「菟道稚郎子」を助けて国政を司るように言われていたから、と考えることができます。
さて、ここまでの伝承なんですが、
・その皇子二人の反乱を鎮圧して即位した「応神天皇」は、自分の後継者の間でも争いが起きるだろう、と考える。
・弟だった「応神天皇」は、同じように年若い弟皇子である「菟道稚郎子」を後継者にしたかった。
・そのためには、他の皇子の中でも有力と考えられる「大山守皇子」と「大鷦鷯尊」の動きを牽制しておく必要があった。
・「大山守皇子」は皇位に対する野心を見抜かれたが、「大鷦鷯尊」は「応神天皇」の意を汲んで、(表面上は)「菟道稚郎子」の立太子に賛成したので、「応神天皇」は「大鷦鷯尊」を「菟道稚郎子」の摂政的な役割においた。
・「大山守皇子」は(案の定というか)反乱を起こして鎮圧される。
・「菟道稚郎子」は自害して、結局皇位は「大鷦鷯尊」=「仁徳天皇」のところに。
という流れで起こっています。
この時代、つまり「仲哀天皇」から「神功皇后」、「応神天皇」、「仁徳天皇」の時代というのは、三韓征伐の話があり、「神功皇后」という特殊な人物の存在あり、といろいろとごちゃごちゃしているのですが。
「応神天皇」の即位の話と、「仁徳天皇」の即位の話が、なんとなく似ているような気がしませんか?
結果は正反対(兄が皇位につくか、弟が皇位につくか)なのですが、単に兄弟間で後継者争いの戦が起こった、と考えれば、それほど珍しいものでもありません。
ただ、どちらも「宇治」が舞台になっているところに、作為が感じられます。
なぜ、「菟道稚郎子」は「宇治神社」「宇治上神社」に祀られているのか。
妄想してみますと。
この伝承の流れが正しいとすると、「菟道稚郎子」が皇位につかなかったのは、「大鷦鷯尊」に皇太子としての正統性がある、と考えたからなのでしょうか。
あるいは、「大鷦鷯尊」を恐れていたからなのでしょうか。
実際に国政の実権は「大鷦鷯尊」が握っており、難波の都にも「大鷦鷯尊」一派が居座っている。
そこで「菟道稚郎子」は都を出て、ひょっとすると近江(先々代「仲哀天皇」の都があったところ)に退こうとしたのかもしれません。
その途中で、「大山守皇子」の反乱に出会ってしまった。
「大鷦鷯尊」一派が皇位を狙っていたのだとすると、「大山守皇子」一派に何かを吹き込んだのかもしれません。
やむなく「菟道稚郎子」は、奇策を用いて「大山守皇子」を倒します。
ところがそのあと、どうして自殺したのかがよくわかりません。
自殺するつもりなら、別に「大山守皇子」と戦う必要もないと思うのです。
何か、猛烈に「大山守皇子」に皇位を渡したくない事情があるのであれば別ですが……普通はそれを、「大鷦鷯尊」に皇位を継いでほしかったから、と考えるのでしょうか。
うーん……。
兄が後継者になるのか、弟が後継者になるのか、そういった争いや葛藤は当然あったでしょうし、その中で兄思いの弟が自殺した、ということもあったかもしれません。
『日本書紀』では自殺したことになっている「菟道稚郎子」が、『古事記』では早逝したとしか書かれていないのはどうしてなんでしょうね(皇位の譲り合い自体は『古事記』にも書かれています)。
『日本書紀』でもそういうことにしておけば、何てことはないよくある話だったのに、なぜか潤色してこんな話を挟み込んだために、素人が妄想に陥ることになっています(?)。
おそらくは、「大鷦鷯尊」=「仁徳天皇」を「聖帝」だと認識していた当時の人たちが、いい感じに挟み込んだエピソードなのだと思います(儒教っぽい話なので、「菟道稚郎子」が兄を立てたということにしておきたい)。
でも、「大鷦鷯尊」を「菟道稚郎子」を殺したのではないか、ってこう思いますよね?
思いませんか?
そうですか。
うーん……考察がなかなか進みませんが。
たまにはもやもやしたまま終わるのもいいのかもしれません……がもうちょっと書いてみますと。
当時皇太子(皇太弟)だった「大海人皇子」=「天武天皇」が、「天智天皇」の死の床で「皇位を継いでほしい」と言われたのに、本当は「天智天皇」は自分の息子である「大友皇子」に継がせたいことをしっていたので、「私は出家して吉野に参ります」とばかりに都から逃げ出した、という有名な話があります。
この後に起こったのが、古代最大の皇位争いの戦争、「壬申の乱」ですね。
「大鷦鷯尊」と「菟道稚郎子」の伝承は、この話を思い出させるものがあります。
「天武天皇」の行動が、「大鷦鷯尊」と「菟道稚郎子」に、それぞれ分解されているとでもいいましょうか。
先帝の真意を汲み取って、自分の願望(皇位に就く)とは異なる返事をしたこと(「大鷦鷯尊」)。
命を狙われかねないと悟って、皇太子だったのに皇位を放棄して、都から逃げ出したこと(「菟道稚郎子」)。
「天武天皇」の場合は彼が勝者でしたが、「菟道稚郎子」の場合は敗者となりました。
この辺りの共通性と相違性に、何か隠されていないかなぁ……と思ったりするのですが、いかがでしょう。
あと、古代においては、よく「例のだまし討ち」が出てきます。
例えば、「日本武尊」もそうですし、「応神天皇」配下の「武内宿禰」「武振熊」もそうでした。
もちろん、「菟道稚郎子」も。
で、この「だまし討ち」をする側って、記紀神話的には「正当」なほうなんですね。
だから、「だまし討ち」された側は、恨みは残しても祟ることはないと思います(祟りは、基本的には受ける側の問題ですから)。
ということは、「武内宿禰」に「だまし討ち」にされた「忍熊王」も、「菟道稚郎子」に「だまし討ち」にされた「大山守皇子」も、祟ることはなかったわけで、その後祀られる必要もまたなかったものと思います。
つまり、「宇治神社」の御祭神が「忍熊王」だったり「大山守皇子」だったりしないのは、そういう理由ではないかと。
兄に皇位を譲るために自害する、というのは、儒教的解釈では美談ですし、悲劇の皇子ということで耳障りのいいものでもあります。
でも何か胡散臭いなぁ……と思うのは、私が高田崇史的怨霊論に毒されすぎているだけなのかもしれません(苦)。
素直に、「仁徳天皇が弟皇子の霊を慰めるために祀った」でいいじゃないかと……そうすると、『延喜式』に書かれている「宇治神社二座」というのが気になってきますよね(昔の人も気になっていたようです)。
まあそれも、当初「宇治神社」は一座だったけど、後世の人が兄の「仁徳天皇」も一緒にお祀りしたのだ、という解釈が妥当な気もします。
妥当なだけにつまらんですが。
最後に、「宇治」が昔から「宇治」と呼ばれていたのかどうか、についてですが。
『日本書紀』には、「菟道稚郎子」が登場する以前の記事にも、「菟道」という地名が登場しますが、だからといってどちらが古いのか、についてはわかりません。
もし、もともと「菟道稚郎子」が、「宇治」の地と何らかの関係があるとすれば、それは「菟道稚郎子」が「宇治」に「桐原日桁宮」を作る前のことのはずです。
ところが、それに関する伝承は記紀神話にはありません。
ですから、『風土記』にあったように、「宇治」の地名が「菟道稚郎子」に由来する、という説を否定するのは難しいのではないか、と個人的には思います(否定されていたらごめんなさい)。
何しろ、皇子がどこに住んでいたのか、なんてことはほぼ書かれていませんから。
普通は、都にいるものなんでしょうけれども。
例えば母方の実家が「宇治」にあって、そこで育てられたから「菟道稚郎子」なのだ、という話でも残っていたらわかりやすいんですけれどね。
(※2016/4/17追記)
『日本書紀』ばっかり読んでいたのが失敗でしたが、『古事記』の方では、「菟道稚郎子」の母「宮主矢河枝比賣」と「応神天皇」の出会いについて、詳しい描写がありました。
「応神天皇」が「宮主矢河枝比賣」と出会ったのは、「近つ淡海国」(近江)に行く途中で、「木幡村(こはたのむら)」となっており、そこが今の「宇治」辺りだと考えられています。
となるとですね、「菟道稚郎子」は母からの縁で「宇治」と繋がりがあった……ということになりますので、↓の戯言は適当に読み流してください。
いや、記事を短めにしようと思って、きちんと『古事記』も検証しなかったのが素人技、ということですね(涙)。
(※2016/4/17追記)
でも、多分そうじゃないと思うんですよね……なぜかって、
「兎楽の樹
河内の国から来られる菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を、兎が先導し、振り返りながらお連れした場所がこの宇治神社です。
その兎達が、今も楽しく集い戯れる宇治神社を象徴する樹が、この楠の樹です。
ほら、楠の足下に楽しそうな兎達が見えるでしょう。」
↑この、「宇治神社」の前の樹のところにあった立て札の内容です。
仮に、「菟道稚郎子」がもともと「宇治」と関係していたり、そこで育ったのであれば、道案内なんていらないでしょう?
これって、「大鷦鷯尊」と難波の都にいた「菟道稚郎子」が、自分の身に迫る危険を悟って都から抜け出し、本拠地を探していた、ということなんじゃないでしょうか。
そこで、地元の人々が、今の「宇治神社」の土地を提供した。
そう考えると、「宇治」に皇太子を招き入れることができた地元の人々の喜びと誇り、そして敗北した「菟道稚郎子」への尊崇と畏敬の念が、今でもここには息づいているのかもしれないですね。
(※2016/4/17追記)
よく考えると、↑の話は、「菟道稚郎子」が「宇治」と深く関係していても成り立つ話ですね。
遠路難波からやってきた(戻ってきた)皇太子を、「宇治」の地元の人たちが優しく迎え入れる。
しかし、「菟道稚郎子」は結局は皇位争いで敗れて自害してしまう(それとも、「宇治」の人々が裏切ったのか……あいえ、これは妄想ですので)。
「菟道稚郎子」が実在したとして(あるいは、そのモデルとなった人がいたとして)、このかた、その名の通りにお若くして亡くなったようで、御子がいらっしゃいません。
あの「大山守皇子」ですら、末裔がいるとされているのに。
悲劇の皇子としては先輩の「日本武尊」も案外子沢山だったりするのに。
ここにも一つの悲劇性が感じられるのではないでしょうか。
そして、御子のいらっしゃらない「菟道稚郎子」のために、地名を「宇治」とした……などというのもまた美談にすぎますね。
(※2016/4/17追記)
もちろん祟らないように、お祀りしているんですよ……(やっぱりそこに戻るのか……)。
というわけで、もやもやした中から、何かいい話的なオチに持っていって、終了です〜。
ちょっと脱線しますが、「末子相続」が古代にはよくあった、ということが言われています(もちろん、そうでない場合もありますが)。
「天照大神」「月読神」「素戔嗚尊」の場合、末子は「素戔嗚尊」なんですけれど、どうして「末子相続」にならなかったんでしょうね。
神代のことを言っても仕方ないのですが、気になったもので。