べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「菟道稚郎皇子御墓」「彼方神社」〜奈良・京都めぐり〜

10/31。

萬福寺」を堪能し(短時間でしたが)、再び電車に乗る前にスマートフォンの地図を見ていると、はっとしたので三室戸駅で下車。

菟道稚郎子」の墓がある、ということなので立ち寄ってきました。

 

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……すみません、古墳には全く詳しくないので、どうやって何を撮影したものかもわからず。

 

○こちら===>>>

菟道稚郎子 - Wikipedia

 

wikipediaにいろいろとまとまっていました。

前方後円墳、のようです。

こういうとき、ドローンカメラがあったらなぁ……と一瞬だけ思います。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第2編都名所図会

 

↑『都名所図会拾遺』より引用します(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

304コマです。

 

「宇治 いにしへは菟道と書す。応神天皇の皇子菟道稚郎皇子、此地に幽居したまひ、終に薨じ給ふ。これを宇治陵と号す。[延喜式]に曰く、菟道稚郎皇子、山城国宇治郡にあり。兆域東西十二町、南北十二町、守戸三烟云々。今の離宮八幡宮は、此皇子の霊を祀るなり。
宇治は京師より四里にして、都の巽なり。名高き名跡かずかずあり。(略)[萬葉集]には『千早振。宇治乃和多利乃。多畿乃屋乃。阿古爾乃原』と詠めり。これらの名跡は今絶えてなし。
[古今著聞集]に曰く、
京極大殿の御時、宇治に白川院御幸有り。あまりに興つきざるによつて、今一日逗留有るべきのよしを申さる。然して明日還御あらば、花洛は大白の方にあたれり。宇治は京より南にあたるゆゑに、これを如何がせん。殿下遺恨をいだく。行家朝臣申して云く、宇治は花洛の南にはあたらず、喜撰が歌に、「我庵は都のたつみ』といへり。然らば何のはばかり候やと。殿下此由を奏聞す。仍て院の還御延引し給ふ。殿下甚感気あり。人又美談すと云々。」

 

宇治がいつから「宇治」だったのかはわかりませんが、かつては「菟道」と書いたようです。

応神天皇」の皇子である「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)」が、この地にちなんだ名前なのか、それとも皇子にちなんで「菟道」と呼んだのか、それももはやよくわかりません。

うーん……一番わかりやすいのは、「ウズ」から変化したのかな、という推測でしょうか。

「ウズ」は「貴」だったり「珍」だったり漢字を当てています。

「貴重、尊い、珍しい」ものを「ウズ」と呼んだのだとすると、「宇治」のあたりが何か「ウズ」だったのかもしれません。

まあ、地名はどう妄想してもでっち上げられますし、やめておきましょう。

 

「京極大殿の御時、宇治に白川院御幸有り。あまりに興つきざるによつて、今一日逗留有るべきのよしを申さる。然して明日還御あらば、花洛は大白の方にあたれり。宇治は京より南にあたるゆゑに、これを如何がせん。殿下遺恨をいだく。行家朝臣申して云く、宇治は花洛の南にはあたらず、喜撰が歌に、「我庵は都のたつみ』といへり。然らば何のはばかり候やと。」

 

↑これは「方違」の話ですね。

陰陽道による方位占いで、行ってはいけない方向があったのです。

白河上皇」が宇治に逗留して遊んでいたら、興が乗ってもう一日遊んで行こうとした。

しかし、明日、都の方角に移動するのはまずい。

これはどうしたものか……と思っていると、「藤原行家」が、「宇治は京都の南ではないですぜ。ほら、喜撰法師の歌にも、「我庵は、都の辰巳(東南)」とあるじゃないですか。全然問題ないっす」(大意)と言った、と。

 

古今和歌集 (岩波文庫)

古今和歌集 (岩波文庫)

 

 

↑見つかりました、『古今和歌集』(よかったよかった)。

喜撰法師」の歌として、

 

「我が庵は宮この辰巳 しかぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり」

(私の庵は都の東南にあって、このとおり住んでいる。人はここを世を憂しとして住む宇治山だと言っているそうな。)(p228)

 

が掲載されています。

「藤原行家」はこの歌を根拠にして、方違を無視してしまっても大丈夫、と言ったわけです。

これは、こうしたまじないが「いかに言葉に依拠していたのか」ということの立証と考えることができます。

言霊信仰ですね。

そしてまた、上皇クラスの方違に影響を及ぼすことができるほどの、喜撰法師」の歌の持つ言霊がすさまじかった、ということが言えます。

このあたりの話は、

 

QED 六歌仙の暗号 (講談社文庫)

QED 六歌仙の暗号 (講談社文庫)

 

 

↑こちらを読んでみましょう。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 洛南史蹟宇治黄檗の巻

 

↑の87コマに、「喜撰山」の記事があります。

 

「喜撰山(略)さて喜撰法師の事歴は、心なくして岫を出づるうき雲を掴むが如く、貫之も古今集の序に法師の歌詞を評して『僧喜撰は、其詞花麗にして而して首尾停滞せり秋の月を望み、暁の雲に遇へるが如し』と、この評言にも似て其出處の朧げなる事よ。元享釋書に『窺仙は宇治山に居り密呪を持し長生を求む、穀を辞して餌を服し、一旦雲に乗じて去る』と、かうした羽化の仙人として世に伝へられると。また或書に、喜撰は橘奈良丸の子なり』と。又云ふ、刑部卿名虎の子なり』と、或は山城国乙訓郡の人なり』。と称名院御記に云ふ『基泉と云者和歌の式を作る喜撰と同人歟。成云ふ、此山下志津川郷に喜春菴といへる禅室あり。之れ喜撰菴にして而して彼れの古跡となすべきか、此寺に信長公の境内禁制状があると云。長明の無名抄に云ふ『御室戸の奥二十餘町ばかり山中に入て、宇治川の喜撰の住ける跡あり、家なけれども、石塔さだかに在り、之を尋ねて見るべし』とある。

著者按ずるに喜撰が紀名虎の子と云ふ説の、やや当時の事情に徴して據あるやうにおもはる。彼の業平も惟喬親王儲位のために身を挺した人で、名虎は親王の外祖父でもあり、そのため朝廷で伴善雄と雌雄を争うてまで儲位を決せんとして遂に横死した。それで親王は小野の山荘に幽居したまひ、その他一派のものはいづれも掖庭を離れて、多く失脚の人となつた。喜撰もかうした父名虎の不遇に感じて遁世したものでなからうか、当時の情緒主義に浸馴した歌人らが、落ち行く先きの境涯が、其揆を一にして韜晦したり、遁世することの悲惨を逐う風潮であつたをおもふと、法師喜撰が何人の系統であるかの琴線に触るるであらうか。著者は他日の再考をまつこととする。
小町桜の色に出で、歌三味線に唱はれた法師喜撰は、かうした寂みをもつた悲劇の主人公か、飄逸自ら浮世を茶にしていつか蝉衣をこの山に脱ぎすてた仙か。

喜撰法師
我菴はみやこの巽しかそすむ 
世をうち山と人は云ふなり

慶融

宇治山の昔のいほの跡とへは
みやこのたつみ名そふりにけり」

 

喜撰法師」についての伝説もいくつか残っているようで、「元享釋書に『窺仙は宇治山に居り密呪を持し長生を求む、穀を辞して餌を服し、一旦雲に乗じて去る』と、かうした羽化の仙人として世に伝へられる」……これなんかわりと有名なようです。

誰それの子ども、という説もいくつかありますが、当時から謎の多い人物だったと思われます。

古今和歌集』の「仮名序」には、

 

宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。いはば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。(略)よめる歌多く聞えねば、かれこれを通はしてよく知らず」(岩波書店版/p19)

 

とあり、『古今和歌集』に採用されているのは↑で紹介した歌のみ、現存している歌もあと一つくらいしか(おそらく)本人作と思われるものはない、という謎のお人です。

橘奈良麻呂」、「紀名虎」の子どもではないか、という説も巷間囁かれたようですが、単なる妄想なのか、あるいはなんらかの真実を含んでいるのか。

この辺りの話は、↑高田崇史氏『QED 六歌仙の暗号』を……(しつこい)。

「喜撰」が、「黄泉(きせん/よみ)」に通じているとか、「黄泉」は「貴船(きぶね/きせん)」に通じているとか、「紀の仙人」で「紀仙」じゃないかとか……あ、いえ、面白いので是非読んでください、『QED 六歌仙の暗(斬)。

 

ええと、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 宇治郡名勝誌

 

↑の141コマです。

 

菟道稚郎子皇子墓
菟道稚郎皇子の御墓は大字菟道宇治橋に至る道路の右傍に在りて青松鬱々たり古昔の兆域十二町四面にて守戸二烟ありしと現今の周囲は三百三十二間五分近時大に修繕を加へられたり」

 

ちらっと紹介されています。

菟道稚郎子」については、「宇治神社」などでも関係してきますので、そのときに取り上げることにします〜。

で、「宇治神社」へ移動しようととぼとぼと歩いていると、スマートフォンの地図に神社を発見。

「彼方(おちかた)神社」です。

 

○こちら===>>>

京都寺社案内*彼方神社,Ochikata-jinja Shrine,Kyotofukoh

 

↑これまた非常によくまとまっていまして、私の出る幕のないサイトです。

 

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「橋姫神社」のときに書きましたが、「宇治十帖」にまつわるスタンプラリーの会場の一つになっていたため、写真としてはこれだけです(切ない)。

 

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源氏物語 宇治十帖(二)

椎本

春、花の頃、匂宮は、初瀬詣の帰路、宇治の夕霧の山荘に中宿りし、お迎えの薫君やお供の貴族たちと音楽に興じた。楽の音は対岸の八宮の邸にもよく通い、八宮は都にいられた昔を偲ばれた。

薫君から二人の姫君のことを聞き、ゆかしく思っていた匂宮は、宇治に消息を送ったが、返事はいつも妹の中君がなさるのだった。

薫君は八宮を仏道の師と仰いで、宇治を訪れ、姉の大君に強く心をひかれていく。

八宮は死期の近いことを感じ、姫君たちに身の処し方について遺言し、信頼している薫君に姫君を頼み、秋も深いころ、阿闍梨の山寺で、さみしく静かに波乱の生涯を閉じられた。

たちよらむ蔭と頼みし椎が本

むなしき床になりにけるかな」

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 宇治誌

 

↑の107コマに記事があります。

 

「彼方神社ーー宇治橋東詰を北へ約一町、宇治十帖の椎ノ本旧址と同じ所である。祭神は建御名方刀美命で諏訪神社と同じ祭神であり、建創年代は詳かでないが延喜式内である。社殿は桁行一尺五寸、梁行二尺六寸、境内二十坪に過ぎぬが、町名乙方の起源をなす草分けの神社である。」

 

町名「乙方」の起源となった、とのことですし、式内社でもあるので、往古はもっと大きな神社だったのでしょうか。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑の135コマです。

 

「宇治彼方神社 鍫靱
(略)彼方は袁知加多(をちかた)を訓べし、 彼方は大祓詞に見え、また萬葉集十三長歌に、己母理久乃、波都世乃加波乃、乎知可多爾云々ともあり ○祭神宗像神 風土記○今離宮末社大鳳寺村一座 作林中 是乎、 名勝志○惣国風土記残缺云、宇治遠方神社、圭田四十五束三毛田、所祭宗像神也、雄略天皇三年、始奉圭田加神体、
比保古云、日本武尊也、昔於駿河国夷賊野付火爲奉焼殺於尊、時遠方繁木本以焼鎌利鎌如打払唱給 中略 取其縁当社號彼方神社、 と云るは杜撰ならずや、日本武尊を祭るといふ事さへ、信用しがたきや、 さて大祓詞の彼方は、後釈に云る如く、地名には非ざれど、爰は既く地名なる事、風土記残缺に、遠方郷とあるにて明か也」

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑こちらも見ておきましょう。

54コマです。

 

「宇治彼方神社 ○称諏訪神社
祭神
今按神社覈録に祭神宗像神とあるは惣国風土記の説なれば信がたし一説に日本武尊と云るはとるにたらねどいかなる神を祭れるにや詳ならず
(略)
今按彼方は日本紀の歌に烏知箇多能阿邏邏麿菟麼邏(ヲチカタノアララマツバラ)とある同地なるべし故京都府式内考證に当社旧址は彼方町の邊なるべし同地に今小祠あり諏訪神社と称して昔は彼方町の産神なり土人云是彼方神社なりと名勝志に大鳳寺村の産神は宗像神にして彼方の祭神と符合すと雖も今徴すべきものなし況や彼方町の邊に非るをや又一説に久世郡第一区宇治郷縣神社是なりと云れどもとより別社にして彼方神社は彼方町の邊に在ること必せりと云るに従ふ」

 

『神社覈録』には「日本武尊」が御祭神だ、との説が載せられていますが、『神社覈録』でも『特選神名牒』でも否定されています。

では「宗像神」かといえば、『特選神名牒』では、それは「大鳳寺村」の産土神だろうから違う、とばっさり。

また「宇治郷縣神社」じゃないのか、とも言われるようですが、そもそも別の神社だから、とこれまたばっさり。

結局は「諏訪明神」、つまり「建御名方神」のようです。

建御名方神」と「宗像神」の音の近さでそう呼ばれたのでしょうか。

延喜式』の当時の御祭神がわからないのが残念ですね……「諏訪大社」はあったようですから、「建御名方神」が祀られていても不思議ではないのですが、うーん、何か途中で神名の異動があったような気がします。

いずれにせよ、水の神様だったのではないかと思います。

「橋姫」はいらっしゃいますし、「住吉神」もいらっしゃったようですし、これで「宗像神」がいらっしゃれば水神に関しては怖いものなし、という感じですから、ひょっとすると「宗像神」が正解なのかもしれません。

ん〜、とりあえずこのあたりで〜。

三室戸駅から「菟道稚郎王子御墓」、「彼方神社」と結構歩いていますが、まだまだ歩いて次は宇治川沿いに「宇治神社」を目指します〜。