べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「平等院鳳凰堂」(補)

さて。

 

京都の有名な寺ともなれば、文献も溢れるようにあるわけですが、とりあえずいつも通りに、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第1編都名所図会

 

↑こちらから引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

309コマです。

 

平等院 は宇治橋の南にあり。初は河原左大臣融公の別荘なりしが、其後陽成院此地に行宮を建てられ、宇治院と号し、又承平御門も、 朱雀院 此所に遊猟し給ふ事、[李部王記]に見えたり。それより六條左大臣雅信公の所領となりしが、長徳四年十月、御堂関白此院を得て山荘とし、遊覧の地とし給ひ、其後子息宇治関白頼通公、永承七年に寺となして平等院と号し、法華三昧を修せしむ。 [河海抄]の大意。 仏殿は鳳凰を象り、左右の高楼廻廊を両翼とし、後背の廊を尾とす。棟の上に雌雄の鳳凰あり、 金銅を以て造る。 風に随うて舞ふ。故に鳳凰堂といふ。
本尊阿弥陀仏は長六尺の坐像にして、定朝の作なり。堂内の長押に、二十五菩薩の像あり。同四壁并に三方の唐戸に、浄土九品の相を画く。絵師の長者爲成の筆。上には色紙形ありて、観経の文を書す、中納言俊房の筆跡なり。天蓋瓔珞等は七宝を鏤め、古代の作物にして、美麗荘厳他にならびなし。 鳳凰堂は永承年中頼通公建立より、曾て回禄の災なし。南方の奇観とす。
釣殿観音堂は最勝院と号す。本尊十一面観音は立像にして、春日の作なり。地蔵尊不動明王を左右にして、脇壇に安置す。 此所宇治院の釣■を建て給ひて、釣を垂れたのしみ給ふ所なり。
扇芝は源三位頼政、治承四年五月二十六日此所において自殺す。 委しくは[平家物語]にあり。
駒繋松 頼政馬をつなぎし所なり。
鎧懸松 頼政鎧をぬぎすてし所なり。
阿字池 鳳凰堂のめぐりにある池なり。恵心僧都の作り給ふ。
鐘楼 此鐘は龍宮より上りしといふ園城寺の模形にして、本朝三鐘の其一つなり。
阿弥陀水 鐘楼の下壇の池なり。傍に六字の名号の石塔を建つる。
法華水 浄家方丈の西、竹林の内にあり。
楼門の跡 今のかり橋の北にあり。消失の後形を遺す。
抑当院は天台、浄土の二流ありて、台家は三井寺に属し、寺務は円満院御門主なり。浄家は宇治関白の御菩提所にして、心譽上人より、世々浄土宗を以て当院を守る。 方丈に頼政の鎧兜及び画像あり。

 

さあて、中世です、日本の中世の知識がさっぱりない私ですので、復習をしてみましょう。

河原左大臣融公」は「源融」のことです。

 

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源融 - Wikipedia

 

嵯峨天皇」の十二男で、いわゆる「臣籍降下」で「源」姓を賜った人物らしいです。

生没年は「弘仁13(822)年〜 寛平7(895)年」

嵯峨天皇」からでているので、通称「嵯峨源氏」というそうです(この後、全部読み聞きかじりですので、全部伝聞っぽく書きます)。

 

陽成院は「陽成天皇」ですねもちろん(字の並びから一瞬「後陽成天皇」かと思いましたが、時代が違います)。

 

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陽成天皇 - Wikipedia

 

清和天皇」の子供で、生後3ヶ月で立太子、9歳で天皇位につき、15歳で退位し(させられ?)、そしてそのあと65年も生きた、というなかなかなお方です。

暗君、暴君などと言われていたようです(思春期の子供ですからねぇ……)。

のち「清和天皇」の子供や孫が、「源」姓となったことから、「清和源氏」となっていくようです。

 

「六條左大臣雅信公」は、「源雅信(みなもとのまさざね)」のことでしょうか。

 

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源雅信 - Wikipedia

 

宇多天皇」の孫で、「宇多源氏」の祖、らしいです。

生没年は、「延喜20(920)年〜正暦4(993)年」。

この方の娘が、「藤原道長」の正室となった「源倫子」だそうです。

 

「御堂関白」くらいはわかります、「藤原道長」ですね。

 

「宇治関白頼通公」は、「藤原道長」の子である「藤原頼通」のことです。

 

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藤原頼通 - Wikipedia

 

というわけで、「平等院」の地は、最初は「源融」の別荘で、次に「陽成天皇」(正確には上皇)の行宮となり、「源雅信」の所領になって、「藤原道長」が引き継いで別荘を建て、その子「藤原頼通」が寺を建てた、という流れになっているそうです。

 

「棟の上に雌雄の鳳凰あり、 金銅を以て造る。 風に随うて舞ふ。」……この描写が面白いですよね。

当時は「風見鶏」だったのでしょうか?

 

「鳳凰堂は永承年中頼通公建立より、曾て回禄の災なし。南方の奇観とす。」……周囲は火災にあったことはあるのですが、「鳳凰堂」だけは燃えたことがないのだそうです。

 

「鐘楼 此鐘は龍宮より上りしといふ園城寺の模形にして、本朝三鐘の其一つなり。」……江戸末期にはすでに、「日本三名鐘」と考えられていたんですね。

 

310コマには図絵もありますので、現代の様相と比較してください。

前回の記事で見ているとあまりわかりませんが、「平等院」、かなり宇治川に近いんです。

 

続いて、

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第2編都名所図会

 

↑『都名所図会』の続刊の『拾遺都名所図会』です(305コマ)。

 

平等院 宇治橋の南にあり。楼門は北面にして、額は中納言俊房卿の筆なり。此門并に後門、元禄十一年三月三日、宇治民戸出火の為に焼亡す。今其趾跡遺る。凡寺院の惣門北に向ふは稀なり。旧記に曰く、宇治関白頼通公此寺を草創し給ふとき、惣門の地を検べ見たまふに、此院の地境東は河、南は山にして西を後とす。しかあれば門を立つるに北に向ふ。その例ありしやと問尋あるに、当時の秀才答ふるに覚悟なし。然るに大江匡房卿いまだ弱冠にして、同車に参られ給ふ。傍に居たまふ公任卿此人に向うて尋ねらる。匡房答へて、漢土には西明寺、天竺には那蘭陀寺、是みな北面なりと申し給ひける。左右これを聞きて無双の高名なりと感じけり。此ゆゑに平等院の門を北面に建つるとぞ。
扇芝 源三位頼政自害の所なり。(略)
埋れ木の花や扇の芝の露
当寺の建立は、永承六年三月、宇治関白頼通公なり。諸堂炎上する事は、[太平記]に、建武の頃、楠・新田の両将にて尊氏と合戦の時、義貞は山崎、正成は此宇治に向ふ。正成敵に心易く陣を取らすべき謀に、橘小島ヶ崎・平等院のほとり、一宇も残らず焼き払ふに、風大厦にかかつて、平等院の仏閣宝蔵忽に炎上すと云々。此ときの炎上は奥院及び宝蔵等なり。北門より本堂に至つては、楠兵卒に守護させて、焼亡を鎮めしと見えたり。是故に本堂は、初の建立より今に於て回録の災なし。惣じて此地の堂塔仏閣、むかしは巍々として、荘厳美麗都鄙に冠たり。平康四年には、三重塔を建てられ、治暦二年には左大臣藤師実公、五大堂ならびに鐘楼を建てらるるよし、旧記に見えたり。又[源氏物語]の鈔には、かの巻六十帖の中、苔・菖蒲・法の師・櫻人・指櫛などをはじめ、六巻の物語は宇治の宝蔵に納むとなん。今世に伝ふるは五十四帖なりと云々。旧記に曰く、宇治大納言隆国卿の旧棲は平等院経蔵の南の麓、南泉坊是なりとぞ。隆国は醍醐天皇の御孫従四位下少将惟賢の男にして、正二位宇治大納言と号す。[王代一覧]に曰く、永保元年正月、大納言源隆国七十一歳にして致仕し給ふ。此人宇治に閑居して、常に来り訪ふものに昔物語をさせて、それを集めて双紙となし、是を[宇治大納言物語]といふなりと云々。

 

またよく知らない人が……大江匡房……。

 

○こちら===>>>

大江匡房 - Wikipedia

 

……うーん、とにかく頭脳明晰な人だったようです(<をい)。

 

建武の頃、楠・新田の両将にて尊氏と合戦の時、義貞は山崎、正成は此宇治に向ふ。正成敵に心易く陣を取らすべき謀に、橘小島ヶ崎・平等院のほとり、一宇も残らず焼き払ふに、風大厦にかかつて、平等院の仏閣宝蔵忽に炎上すと云々。此ときの炎上は奥院及び宝蔵等なり。北門より本堂に至つては、楠兵卒に守護させて、焼亡を鎮めしと見えたり。是故に本堂は、初の建立より今に於て回録の災なし。」

 

南北朝時代には、「楠木正成」「新田義貞」が「足利尊氏」と戦っていた(らしい)のですが、そのときに「楠木正成」は宇治のあたりを焼き払ったと。

しかし、総門から本堂は、自分の兵に守らせて、焼け落ちるのを防いだらしいです。

さすが「楠木正成」と言うべきでしょうか(いや、この人のこともよく知りませんけども)。

 

「旧記に曰く、宇治大納言隆国卿の旧棲は平等院経蔵の南の麓、南泉坊是なりとぞ。隆国は醍醐天皇の御孫従四位下少将惟賢の男にして、正二位宇治大納言と号す。[王代一覧]に曰く、永保元年正月、大納言源隆国七十一歳にして致仕し給ふ。此人宇治に閑居して、常に来り訪ふものに昔物語をさせて、それを集めて双紙となし、是を[宇治大納言物語]といふなりと云々。」

 

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源隆国 - Wikipedia

 

↑の「源隆国」が、「平等院」の近くに住んでおり、そこで物語を集めたものを本にしたのが「宇治大納言物語」だそうです。

これは散逸して残っていませんが、ここに掲載されなかったものを集めたとされているのが、

 

宇治拾遺物語 (角川ソフィア文庫)

宇治拾遺物語 (角川ソフィア文庫)

 

 

↑『宇治拾遺物語』ですね。

文学史を習ったころ、『宇治拾遺物語』の「拾遺」の意味がずっとわからなかったのですが、もともと『宇治大納言物語』があり、そこから漏れたものを拾い集めたから、『宇治拾遺物語』だったんですね。

実は『宇治拾遺物語』の序に、きちんとそうやって書いてあるんですけれどね……読んでないのがバレました……(苦)。

 

平等院」に付設されている博物館「鳳翔館」では図録も販売しておりまして、

 

 ○こちら===>>>

世界遺産平等院 京都宇治

 

↑なんと通販されています。

買ったのは、『平等院鳳翔館』と『平安色彩美への旅〜よみがえる鳳凰堂の美〜』の2冊です。

前者は、貴重な仏像などの図録ですが、中でも江戸時代の「平等院」の古図が掲載されているのがいいですね。

もっと古い時代の古図があればいいのですけれども。

後者の『平安色彩美への旅』は、創建当時の「鳳凰堂」の色使いを、CGで再現したものとなっています。

すごい時代といえばいいのか、なんなのかよくわかりませんが、非現実的な原色とそれを強調するグラデーションが目に痛いほどで、まさに極彩色。

この「非現実性」というのが、実は「浄土」信仰と強く結びついたのだと思います。

この世にないほど鮮やかな世界、が極楽のはずですから。

一方で、原色の洪水は、古来から存在する「魔除け」の意味合いもあったのではないかと思います。

派手なものに出会うと、驚くじゃないですか。

人間だけじゃなくて、魔物も驚くんですね(昔は魔物ではなくて、「異邦人」「マレビト」だったのではないかと思います)。

で、逃げていく、と。

いや、そんな簡単な話ではないのかもしれませんが、何かそんな発想を下敷きにしていても面白いじゃないか、と思います。

色の奔流に疲れた我々現代人は、寂びた神社仏閣になんとはなしの安堵感を覚えます。

しかし、素木とはいえ遷宮を終えたばかりの「神宮」の正宮は輝いていますし、丹塗りの「稲荷」の鳥居の鮮やかな、葺かれたばかりの「銅の屋根」の眩しさ、建立当時の「東大寺」の大仏なんて、あんなでかいものがぴっかぴかにメッキされていたのです。

あれは、壮大な「魔除け」なのではないでしょうか。

そう、

 

「派手=神聖」

 

だった時代があったのです。

今でもありますけれども……。

ともかく、歴史に目を向けがちですが、「新しい」「派手」「ぴかぴか」なものを作った人々の心持ちも汲み取らないといけないのではないかと思います。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 日本史蹟. 天之巻

 

↑「平等院」の本なんていくらでもありますから、各自調べていただくとして、これで最後です(52コマ)。

 

平等院 源三位頼政戦死の處
平等院山城国久世郡宇治町の東北に在り、宇治川其東を流れ、宇治橋其南に架かる
元と左大臣源融の別館にして宇治院と云ふ、陽成天皇曾て行幸あらせ給ふ、後ち関白道長之れを贖ひて山荘とし、其子頼道に伝ふ、源義家の奥羽戦役を談じたるは即ち此の處なり、頼道後ち修理して寺となし、平等院と号す
治承四年五月、源頼政以仁王を奉じて兵を挙ぐるや、平等院に據りて平軍と戦ひ、軍破れて自殺す、観音堂の傍に扇の芝と称する所あり、此處を頼政自刃の場所と言ひ伝ふ(以下略)」

 

源頼政」が自害したのが、「平等院」なのだと言われています。

 

平家物語〈2〉 (岩波文庫)

平家物語〈2〉 (岩波文庫)

 

 

↑『平家物語』の「巻第四 宮御最期」の段で、

 

「……三位入道は、渡辺長七唱を召して、「わが頸討て」とのたまひければ、主のいけ頸討たん事かなしさに、涙をはらはらと流いて、「仕ともおぼえ候はず。御自害候て、其後こそ給はり候はめ」と申ければ、「まことにも」とて西に向ひ、高声に十念唱へ、最期の詞ぞあはれなる。

 

埋木のはなさく事もなかりしに身のなるはてぞかなしかりける

 

これを最後の詞にて、太刀のさきを腹につき立て、うつぶッさまにつらぬかッてぞ失せられける。其時に歌よむべうはなかりしかども、わかうよりあながちにすいたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。その頸をば唱取って、なくなく石にくくりあはせ、かたきの中をまぎれいでて、宇治河のふかきところに沈めてンげり。」

 

↑とあります。

前回の記事でも紹介しましたが、

 

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「高賀神社」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

岐阜県関市近辺をはじめ、「源頼政」の首塚、というものが日本のあちこちにあるようです。

これは、『平家物語』に言う、「源頼政」の忠臣「渡辺長七唱(となう)」がその首級を持ち去った、という話から来ているのでしょう。

平家物語』のように宇治川に沈められたのか、あるいは本当に「渡辺長七唱」が全国を持って歩いたのかはわかりませんが、「平将門」の首塚が日本のあちこちにあるのと似ていますね。

これはあるいは、「源頼政」の敗北の後、関東の源氏が立ち上がったことと関係しているのかもしれません。

していないかもしれません。

 

記事も溜まっていますので、今回はこのあたりで終了〜。