べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「石上神宮」(補々々々々々々々々々)

さて、しめたいと思います。

 

石上神宮」のことを調べるには「物部氏」のことも知らねばなるまい、ということで、

 

古代史研究の最前線 古代豪族

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大国主対物部氏---はるかなる古代、出雲は近江だった

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百済観音の正体 (角川ソフィア文庫)

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物部氏の伝承 (講談社学術文庫 1865)

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先代旧事本紀 現代語訳

先代旧事本紀 現代語訳

 

 

この辺りの本をざーっと読んでみて、結局のところは「よくわからん」でした。

↑『物部氏の伝承』などでも、「物部氏」と「物部連」が別系統の伝承を持った氏族で、どこかで合流して「物部」という一つの氏族集団になり、最終的に大王に帰順したのだろう、ということが書いてあります(そのことを検証しているのですが、細かすぎて書ききれません)。

物部守屋」が敗北したことで、朝廷での力を失ったような印象を受ける「物部氏」ですが、どっこいしぶとく生き残り、「天武天皇」の時代には、「大友皇子」(「天智天皇」の皇子で、「壬申の乱」での「天武天皇」の敵方)に最後まで従っていた「物部連麻呂」という人が出てきます(『日本書紀』天武紀元年)。

この人、「天武」朝で結構出世をしているのですが、天武紀朱鳥元年の「天武天皇薨去の記事で、「石上朝臣麻呂」と「石上」姓になっているんですね。

「物部」の姓から「石上」の姓に変わったのであれば「天武」朝でのことでしょう。

別人説、がないわけはないですが、「物部連麻呂」の業績を考えると、突然「石上朝臣麻呂」が出現するのは不自然で。

元正天皇養老元年には、「石上朝臣麻呂」の死亡記事があります(『続日本紀』)。

他にも、「天武天皇」が「大海人皇子」時代に舎人をつとめ、「壬申の乱」でも功績のあった「朴井連雄君(えのゐのむらじをきみ)」は「物部連雄君」とも言ったようですし、「大友皇子」についた「物部首日向」という人物もいます(この人も、乱の後で許されているようです)。

「物部首」の始祖は、『日本書紀』垂仁紀三十九年条に出てきた、「石上神宮」の祭祀を司ったとされる「市河」で、「物部首」は「天武天皇」十二年に「連」を、また「天武天皇」十三年には「布留首」に「宿禰」を与えるとあり、「物部首→物部連(または布留首→布留連)→布留宿禰」と変遷していったものと思われます。

天武天皇」は体制整備に力を入れ、それまでの豪族を再編成して姓を与えていったので、この時代には、旧来の力を持つ豪族が没落したり、また新興の氏族が重用されたり、氏族間の伝承が混交したり(主に、新興氏族が旧来の氏族の系譜に入り込んだのかもしれないですが)、そんな混乱があったのではないかと思われます。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大和志料. 中巻

 

↑の「石上布留神宮」の記事では(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)、

 

「神主 仁徳天皇の世に市川臣天羽々斬剣を高庭の地に奉斎し、因て神主に補せられしより爾来布留氏其の職を襲ふ。姓氏録 但し当社旧記所引に寄る に

 

布留宿禰。柿本朝臣同祖。天足彦國押人命七世孫米餅搗大使主命之後也。男木事命男市川臣、大鷦鷯天皇御世、幸倭賀布都努斯神社於石上郷布留村高庭之地。以て市川臣爲神主。四世孫額田臣。武蔵臣。斉明天皇御世、宗我蝦夷大臣号武蔵臣。曰物部首並神主首。因竝失臣姓爲物部首。武蔵臣男正五位上日向。依社地名改布瑠連姓。日向三世孫邑智等天武天皇御世改賜布留宿禰姓也。

 

と是なり。これを石上振神宮抄に載する神主布留宿禰系譜には、

 

布留宿禰は春日臣と同祖にて人皇五代孝昭天皇の子天足彦國押人命より出たり。天足彦國押人命七世孫米餅搗大使主命 大矢田宿禰の子也 の長子花小使主命は春日臣小野臣の始祖也次二子木事命とは大宅臣柿本臣の始祖也三子市川臣は十三代成務天皇の御世に石上振神の乞言に依て物部連に代て神宮の神宝を治めしめ神府の典鑰に補す仍て物部首の氏姓を賜ふ十七代仁徳天皇御宇市川臣に勅して吉備神宮に祭る天羽々斬剣を石上振神宮に遷し蔵め加へ祭る云云于時市川臣を振神宮の神主に補す神主職の起也三十六代皇極天皇御世に大臣蘇我蝦夷宿禰 俗云武蔵大臣 母太媛と申す物部弓削大連の妹也弓削大連滅亡之後に太媛祭首に補す蝦夷大臣の次男敏傍(としかた)宿禰を物部大臣と号し祖母の時依て威を世に取りしより物部族神主家等も蘇我か家の僕となる■市川臣の四世孫神主物部首額田臣の武蔵臣姓名を失ふ故に天皇額田臣男物部首日向か爲に社地の名に依て布留連の氏姓を賜ふ四十代天武天皇の御世に日向か三世孫邑智に姓を賜ふて布留宿禰と云以来代々神主職に補すこと延暦年中に及歟

 

とありて、姓氏録に載する所より稍、精確なるを覚ゆ。以て史の缺文を補ふに足れり。蓋し是、布留氏相承の伝説なるべし。
降て寛治年中白川天皇当社に行幸し、神主布留宿禰 名缺に外従五位下を授け給ふこと石上振神宮略抄に見ゆ戦国の頃に至り兵馬を蓄へ干戈に従事し大和武士と称す。」

 

↑と「布留宿禰」について書かれています。

この感じからすると、「物部」氏が「韴霊」「十種神宝」を奉斎していた「石上」に、「市川臣」が「十握剣」を持ってきて、そこで「市川臣」は「物部」氏傘下に入りつつも独自性を維持し、やがて「物部」氏の中心は朝廷の(主に)軍事に関わるようになり、一方で祭祀は「市川臣」系が担っていた、ということなのかもしれません。

あるいはその逆で、「市川臣」が「石上」にいたのに、「物部」氏がやってきて氏族ごと吸収した、とか(元々「十握剣」が吉備にあったことから、関裕二氏は、「物部」の祖地はそのあたりではないか、と考えられているようです)。

うーん……難しいところですが、「石上朝臣」もいつか歴史から消え、「布留宿禰」も、

 

「 寛治年中白川天皇当社に行幸し、神主布留宿禰 名缺に外従五位下を授け給ふこと石上振神宮略抄に見ゆ」

 

ということになり(「白河天皇」は72代)、これ以降史書に名前が見えないようですが、

 

「戦国の頃に至り兵馬を蓄へ干戈に従事し大和武士と称す」

 

という、いかにも器仗(兵器)を膨大に蓄えた「石上神宮」の担い手の後裔という伝承は残っていったようです(「物部」氏の後裔氏族はいろいろと残っています)。

 

ところで↑『大和志料』の、

 

「三十六代皇極天皇御世に大臣蘇我蝦夷宿禰 俗云武蔵大臣 母太媛と申す物部弓削大連の妹也弓削大連滅亡之後に太媛祭首に補す蝦夷大臣の次男敏傍(としかた)宿禰を物部大臣と号し祖母の時依て威を世に取りしより物部族神主家等も蘇我か家の僕となる 」

 

という伝承なのですが、『日本書紀』崇峻即位前紀に、

 

「時の人、相語りて曰はく、「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり。大臣、妄に妻の計を用ゐて、大連を殺せり」といふ。 」

 

という記事があります。

これは、「物部守屋」が「蘇我馬子」「厩戸皇子」等の軍に敗れたあとの話です。

そして、皇極紀二年十月には、

 

「壬子に、蘇我大臣蝦夷、病に縁りて朝らず。私に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位に擬ふ。復其の弟を呼びて、物部大臣と曰ふ。大臣の祖母は、物部弓削大連の妹なり。故母が財に因りて、威を世に取れり。」

 

とあります。

この、「物部守屋」の妹で、「蘇我馬子」の妻となった人を、↑『大和志料』「石上振神宮抄」では、太媛」としています。

先代旧事本紀』(批評社)では、

 

「妹の物部の連公、布都姫夫人(ふつひめのおおとじ)、あざ名は御井夫人(みいのおおとじ)、または石上夫人(いそのかみのおおとじ)と申し上げる。倉梯の宮で天下をお治めになられた天皇(第三十二代崇峻天皇)の夫人となられた。また朝廷の政治に参内して、神宮を謹んでお祭りした。」

 

としていますが……あれ、「崇峻天皇」の妃の一人になっていますな。

しかもこの後、異母兄である「物部石上贄古(にえこ)の連公」に嫁いでいます。

じゃあ「蘇我馬子」に嫁いだ人はいないのかというと、この「物部石上贄古の連公」の娘に、「物部鎌姫大刀自の連公」という人がいて、「蘇我馬子」の妻になったと書いています。

日本書紀』に名前が残っていないので、いろいろと操作したのか。

そもそも「物部」氏族内部で、「反蘇我派」と「親蘇我派」がいて、「反蘇我派」の急先鋒だった「物部守屋」の妹では都合が悪いから別の伝承にしたのか。

日本書紀』の成立自体が、「蘇我」氏没落の後で、「物部」氏族は「天武」朝では力を持っていたため、『日本書紀』から都合の悪い話は消したのか。

その辺りはともかく、最初に紹介した、『物部氏の伝承』では、「フツ」「フル」という名詞(?)について関心を寄せて書かれています。

 

○こちら===>>>

「穴師坐兵主神社」「相撲神社」(考々々々々々々) - べにーのGinger Booker Club

 

↑でも、「フト」「フツ」「フル」は古代には共通するあるイメージを持った言葉として、大陸から半島を経て伝わってきたのではないか、という説をちらっと紹介しています。

物部氏の伝承』も、「朝鮮語」から上代日本語に入ってきた言葉がたくさんあって、その音韻変化から興味深い説を唱えておられるのですが、何しろその「朝鮮語」が現代朝鮮語なもので……面白いんですが、やや残念なお話になっています。

物部氏の伝承』は昭和52年に書かれたものなんですが、実は日本語と朝鮮語が近しいのではないかという話はそれこそ江戸時代とかからありまして、例えば、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神道論攷. 第1巻

 

↑収録の「上代史に於ける石上神宮」でも、「フツ」が「フル」に変化しているのを、朝鮮語と日本語を比較して書いています(本の発行は昭和17年です)。

別に新しい話題でもなんでもないんですね。

「フツ」「フル」「フト」が何なのか、古代朝鮮語と共通しているのか、あるいはユーラシアからやってきた言葉なのか、そういったのはともかく置いておいて、「フツ」「フト」という言葉がつくと、「物部」氏の匂いがするわけですね。

で、「蘇我」氏が「物部」氏の僕となった……という↑の伝承に関しては、その後で明らかに「物部」氏の方が勢力を盛り返しているのでまぁどうでもいいっちゃどうでもいいんですけれど。

日本書紀』によれば、「孝元天皇」の妃に「伊香色謎(いかがしこめ)命」という人がいて、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)」という人を生んでいます。

この「伊香色謎命」という人は、のちに「開化天皇」の皇后となり、「崇神天皇」を生んだ人で、「物部氏の遠祖大綜麻杵(おほへそき)」の娘だというのは、だいぶ前に紹介しました。

一方、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)」はですね、「武内宿禰」の「祖父」(『古事記』では「父」)で、「武内宿禰」といったら、いくつかの古代豪族の祖とされていて、その中には「蘇我氏」も含まれているんですね。

記紀神話の系譜的に見れば、「蘇我対物部」の争いというのは、結局は「物部氏系譜」の中での争いでしかないわけです。

もちろん、「武内宿禰」という伝説的な人物を祖先に仮託した氏族は、本来の「物部」氏とは全くの別系統なのでしょうけれども。

ま、とにかく、古代史最大のライバル関係ともいえる「蘇我馬子」と「物部守屋」に関しては、結婚で義兄弟になっていたということも含めて、いろいろと妄想の余地がある、ということですね。

腐女子ならBL的な……げほげほげほ……なんでもありません。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 群書類従 : 新校. 第四巻

 

↑の中に『年中行事秘抄』という書物が収められています。

名前の通り、宮中行事のことが書かれているのですが(作者・成立年代未詳)、その中の「鎮魂歌」という、古代史好きの中には有名なものがあります(288コマ)。

 

「アチメ オ々々々 オ々々々 オ々々々
アメツチニ キユラカスハ
サユラカス カミワカモ
カミコソハ キネキコウ
キユラナラハ アチメ
オ々々々 オ々々々 オ々々々
イソノカミ フルヤシロノ タチモガト
ネガフソノコニ ソノタテマツル
アチメ オ々々々 オ々々々 オ々々々
サツヲラガ モタキノマユミ
オクヤマニ ミカリスラシモ
ユミノハズミユ アチメ
オ々々々 オ々々々 オ々々々
ノボリマス トヨヒルメガ
ミタマホス モトハカナボコ
スエハキボコ アチメ
オ々々々 オ々々々 オ々々々
ミワヤマニ アリメテルチカサヲ
イマサカエデハ イツカサカエム
アチメ オ々々々 オ々々々 オ々々々
ワギモコガ アナシノヤマノヤマノヤマモト
ヒトモミルカニ ミヤマカヅラセヨ
アチメ オ々々々 オ々々々 オ々々々
タマバコニ ユウトリシデテ
タマチトラセヨ ミタマガリ
タマガリマシシカミハイマゾキマセル
アチメ オ々々々 オ々々々 オ々々々
ミタマミニ イマシシカミハ
イマゾキマセル タマバコモチテ
サリクルシミタマ タマカヘシスナヤ
次一二三四五六七八九十(ヒトフタミヨイツムニナナヤココノタリヤ)

十度読之。毎度中臣王結也。」

 

「御鎮魂祭」で読まれたのではないか、とされる歌というか祝詞だと考えられます。

内容の解釈にはいろいろとあるようですが、

 

「イソノカミ フルヤシロノ タチモガト ネガフソノコニ ソノタテマツル」

「次一二三四五六七八九十(ヒトフタミヨイツムニナナヤココノタリヤ)」

 

↑というあたりに、「石上神宮」、「物部」系の祭事が取り込まれています。

石上神宮」や「物部」氏が、ある時期までは強い力を持っていたと思われるのは確かなようです。

 

それから、拙社の「出雲建雄神社」ですが、

 

 

↑によれば、

 

延喜式内社で、草薙剣の荒魂である出雲建雄神を祀る。創建は天武天皇の御代で、布留川の上に湧いた八重雲の中に神剣が光り輝く夢を見た神主が、翌日そこに行くと「尾張氏の女が祀る神」と名乗る神が顕れたため、その託宣に従って社殿を建てたと伝わる。現在ある拝殿は、もとは永久年間(1113〜18)に創建された内山永久寺の鎮守であった住吉社の拝殿を大正3年(1914)に移築した貴重なもので、国宝に指定されている。」

 

↑とあります。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大和志料. 中巻

 

↑の127コマには、

 

摂社
出雲建雄神社 本社の南方丘上に在り。若宮と称す。延喜 神名 式 に「山邊郡出雲建雄神社」とある即ち当社なり。天叢雲剣の分魂を祭る。神宮旧記に「若宮神殿一座出雲建雄神、神名帳曰大和國山邊郡出雲建雄神社飛鳥浄御原御宇天皇神主布留邑智夢布留川上立騰八重雲其雲中有神剣放光華照六合之内剣頭八龍并座明日到彼地見之有雲石八個于時神託人曰吾尾張氏女所祭之神而今天降於是保皇孫守諸民於是神宮前岡上立社祭之曰出雲武尾神亦曰天村雲神…………其後有勅列官社」とあり。斯の縁由を以て創祀せられたるものなり。」

 

と、ディアゴスティーニ『日本の神社』の記述のもとと思われる記事になっています。

 

「布留川上立騰八重雲其雲中有神剣放光華照六合之内剣頭八龍并座明日到彼地見之有雲石八個」

 

↑このあたりの描写があからさまに「八岐大蛇」を想起させますね。

「天村雲神」は、『先代旧事本紀』に、尾張氏の祖先として、『新撰姓氏録』にも「額田部宿禰」の遠祖として「天村雲命」が出てくるのですが、ここは素直に「天叢雲剣」からとっている名前、とするのがよいでしょうか(ここで検討し始めるとまた長いので)。

ところで、『日本書紀天智天皇七年条には、

 

「是年、沙門道行、草薙剣を盗みて、新羅に逃げ向く。而して中路に風雨にあひて、荒迷ひて帰る」

 

という記事があります。

また、天武天皇朱鳥元年には、

 

「戊寅に、天皇の病を卜ふに、草薙剣祟れり。即日に、尾張国の熱田社に送り置く。」

 

という記事があります。

天智天皇」の頃に、「道行」という人が、「熱田神宮」から「草薙剣」を盗み出したのですが、途中で迷ってしまい、それ以降は宮中に安置してあったのだけれど、「天武天皇」に祟ったので、「熱田神宮」に戻した、というのが通常の解釈のようです。

うーん……『大和志料』の記事を信じるとすれば、その時祟ったとすれば「荒魂」でしょうから、「出雲建雄神社」はこの頃に創建されたか、『日本書紀』の記事から誰かがそう思いついたか、でしょう(私が思いつくくらいですから)。

式内社になっていますから、古くからあったものと思いますが……やっぱり「祟る」んですね、天皇に。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑の87コマには、

 

「出雲建雄神社
祭神 出雲建雄神
今按此出雲建雄神は書紀崇神巻に 六十年 詔群臣曰武日照命云々従夫将来神宝蔵于出雲大神宮是欲見焉則遣矢田部造遠祖武諸隅云々使献当是時出雲臣之遠祖出雲振根主于神宝是往筑紫国而不遇矣其弟飯入根則被皇命以神宝附弟甘美韓日狭與子鸕濡渟而貢上とみえこの建諸隅は石山神宝を掌れる故に其出雲の神宝を同社に蔵め置けむが飯入根は時人の歌にも伊頭毛多鶏流 出雲梟師の儀なり と云るに合せて彼神宝を献れる忠誠を慰み当社に由縁あるを以て出雲建雄神と称へて此地に祭られたるなるべし
(略)
布留村 石上神社境内(略)」

 

とあって、

 

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「石上神宮」(補々々々々) - べにーのGinger Booker Club

 

↑でも紹介した、「崇神天皇」が出雲の「神宝」を見たいといった事件を創建の由来と見ています。

「出雲振根」が、勝手に「神宝」を天皇に献上した「飯振根(いひふるね)」をだまし討ちで殺したのですが、そのときに読まれた歌が、

 

「や雲立つ 出雲梟師(たける)が 佩ける太刀 黒葛多巻き さ身無しに あはれ」

 

というものでした(『日本書紀崇神天皇六十年条)。

古事記』では、「日本武尊」が「出雲建」を討つときの話になっていて(刀を木刀とすり替えるのも同じ)、「出雲建」を殺した後に、

 

「やつめさす 出雲建が 佩ける刀(たち) 黒葛多纒き さ身無しにあはれ」

 

と読まれています(読んだのは「日本武尊」なのか?)。

世代が少々ずれていますが、同じ説話だと考えられます(『日本書紀』では、「垂仁天皇」を出雲の「神宝」を検校させています)。

で、「飯振根」の忠誠心を讃えて、「出雲梟師」と読まれた古い歌を踏まえて、「出雲建雄」として祀った、というのが『特選神名牒』の考察なのですが……うーん。

このとき「飯振根」が献上した出雲の「神宝」が、そのまま大和にあったのか、それとも出雲に返されたのかはよくわからないのですよね。

「出雲梟師」と「出雲建雄」は同じに考えていいのかもわかりませんし。

「出雲振根」と「飯振根」、で「フル」が入ってますけど、この人たちは「石上神宮」と関係ないんでしょうかね……「天穂日命」の末裔だから天神系でしょけど……。

 

 

 

と、いかんいかん、終わりにするつもりなのに。

いずれにしても、大和と出雲の関係がなにやら複雑怪奇なことは見て取れます。

あ、そうだ、「出雲建雄神社」の拝殿、国宝に指定されているやつですが、あれが移築されたのが大正時代とすると、

 

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本殿と拝殿が離れていたり、拝殿に直接上がれなかったりすることには、あまり意味はないのかもしれないですね。

ただ、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 石上神宮宝物誌

 

↑やディアゴスティーニ『日本の神社』に掲載されている江戸〜明治時代の古図を見ても、本殿と拝殿の関係は、今と同じなんですよね……。

うーむ……。

 

 

いろいろと思いついたりつかなかったり、ですが、ひとまずここまで〜。