10/30。
「橿原神宮」の参拝を終え、それだけでは寂しいので移動。
ここで「神宮天皇陵」になぜ行かなかったのかが疑問なのですが、近鉄南大阪線の線路を渡った先にある、「久米寺」を目指します。
○こちら===>>>
これ何だったか……まったく記憶にありません。
「壽万性紀碑」……いや何か違う気がします。
残念ながら読めません……もうちょっと刻文がはっきりしていればいいのですが。
スマートフォンの地図を確認していると、近くに神社があるようなのでちょっと寄り道。
「久米御縣神社」です。
○こちら===>>>
こじんまりとした、鎮守という様相。
「祭神
大来目命(おおくめのみこと)(大和朝廷の軍事を掌った久米氏の祖神)
天槵根命(あめのくしねのみこと)(久米氏の祖神と関係の深い神)
この神社は『延喜式神名帳』(927年)の「高市郡式内社小社」に載る「久米御縣神社 三座」にあたる。
創建はあきらかではないが、来目(久米)に関わる伝承は『古事記』『日本書紀』の神代までさかのぼり、神武東征の伝説に八咫烏(やたがらす)の導きで大和入りする時に活躍し、その功により「大来目シテ、畝傍山、以西ノ川辺(かわのへ)ノ地ニ居(はべ)ラシム。今、来目邑と号く。」との記載がある。『日本書紀』「(第十一代天皇)垂仁二十七年紀」に「屯倉(みやけ)を来目邑に興す」とみえ、久米村の地に王家の米倉がもうけられており、久米氏の祖神として奉斎されたこの神社は、かなり古い時期にまでたどることができる。久米氏の退潮により神社も衰えたが、のちに同地に建立された久米寺の寺域の一画に、鎮守として天神社または久米宮が創建された。以後、平安時代から江戸時代まで、西座・東座・九月座の宮座が中心となり奉斎されてきた。 明治元年(1868)、寺社の混同が厳禁となり、全面的に神社は久米村により奉斎され、創建当初の久米御縣神社と改めた。 例祭は十月十五日であったが現在は十月の第二日曜日となっている。尚本殿に向かって左の境内社は 誉田別命 天児屋根命 大日霊貴命を祀り、向かって右は熊野神社(伊弉冉命)を祀る。
また、境内地樹林のなかに臥龍石と称する巨石があり干ばつの時これを動揺すれば降雨あるとの伝説を伝える。(略)」
思いの外歴史があって困ります(?)。
近所の氏子さんと思われる方が掃除をしておられました(神社の向かいの公園を……かもしれませんが)。
到着、「霊禅山東塔院久米寺」です。
真言宗なんですね。
仁王門。
入ってすぐ見えるのが、「大塔礎石」。
多宝塔の由来
養老二年(718年)印度摩伽陀国の王善無畏三蔵という人が帝王の位を持って我が国に来朝、七二〇日(約二ケ年間)の間、久米寺に寄留して高さ八丈(10米909)四方の塔を建設し三粒の仏舎利、並びに大日経を塔中に納めた当時我が国最高最大の塔として広く内外に知られたのである実は弘法大師は延暦年間当久米寺に於て大日経を感得桓武天皇の勅を賜り渡唐受伝の上大同二年十一月八日(807年)多宝塔内に於て初めて真言宗密教を宣布した即ちこれが真言宗根本道場の基礎となったのである。
ただし
院号にもありますが、かつては大きな塔が有名だったそうです。
「善無畏」という人は、
によれば、
「真言宗伝持八祖の第五祖。マガタ国王の家系で、父は仏手王。生来神の姿で、10歳、軍を統監し、13歳王位を嗣ぎ臣民の支持を得たが、諸兄らが氾濫し、征伐の際、流矢で頭を傷つく。諸兄に国を別けて仏道に入り、各地を遊歴し名声は全印に響いた。那蘭陀寺で達磨掬多(略)に密教を学び、即時に灌頂を得て人天師と仰がれた。師の命で原点を持って中央アジアから716(開元4)長安に達した。玄宗は国師として迎え、興福寺南塔院に住む。翌年、西明院菩提院に移って、帝師一行が筆受して大日経7巻を訳し、また、一行に講義(大日経疏14巻)した。732(同20)西域帰還の希望も許されず、同23年入寂。(略)」
とあります。
歴史的には、長安で亡くなっているようですので、「久米寺」に来たというのは伝説でしょう。
「空海」が、自分の真言宗に箔をつけるために喧伝したのか、あるいは、仏舎利と大日経は本当にあったのかもしれませんが、「善無畏」が訳したという事実があったので、名前をお借りしたのかも。
石碑。
観音様と、庚申塔。
いやにインドちっく。
「金刀比羅宮」。
あれ、「久米御縣神社」の案内文じゃ、神仏分離が徹底したのでは……。
何かで塗られていたようです。
こちらが現在の多宝塔。
スリムな造形ですね。
ドーム部上の二階部分の、円形におさめられた垂木が美しいです。
鐘楼と、お地蔵様と。
「久米寺の由緒および沿革
当寺は推古天皇の勅願により用明天皇の王子聖徳太子の御弟君にまします来目皇子の御建立された寺院であります。皇子が七才の御時、眼病を患い給いしとき、御兄君聖徳太子のおすすめで、ここにおいて衆病悉除の薬師如来の願力を頼み、三十七日丹精無二の祈願を成し、二十一日満願の暁き、不思議なるかな二十五菩薩と御供に一寸八分閻浮陀金の薬師瑠璃光如来天より皇子の左の御手に御降臨あらせられ、皇子の両眼は如来の大慈光明に照らし給ひ、両眼忽ちに平癒あらせられ故に皇子自ら吾は来目皇子と称し、金堂講堂鐘楼経蔵大門五重塔等造営ありて伽藍となし、皇子の御名を取りて来目の精舎と来目皇子七堂伽藍創立以前に武人の始祖大久米部之命の末孫等久米部の氏寺として、小寺院建立ありたり。即ち久米寺と称し、その後養老二年印度摩伽陀国善無畏三蔵は十善帝王の位を捨て、遠く天竺より我朝に来り当寺に寄留して日本最初の多宝大塔を建立し、三粒の佛舎利と大日経とを塔柱に納め給う。
大同二年十一月八日弘法大師は諸大弟子と宝塔内において経王を講讃し、はじめて真言密教宣布し給う。
真言宗を日域に弘め給う密教弘演の根本秘宗傳燈の聖地である。後に久米寺と改称せられる。
弘法大師と益田岩船
弘法大師と因縁深き益田岩船は久米寺元南大門より南七丁の丘上にある巨岩で不思議なる石像物の一つである。益田池碑の岩座であるとの説もあり、又、益田池の■■は当山金堂の裏にあり。」
もともとは、「大久米命」の末裔が小さな寺(「久米寺)」を営んでいたが、そこに「聖徳太子」の弟「来目皇子」がやってきて「薬師如来」を感得、「来目の精舎」と呼ばれ、それから「善無畏」が多宝塔を立てて仏舎利と大日経を納め、最後に「空海」がやってきた、と。
うーん、古代〜中世で、歴史がみっちり詰まっていて、以後はお腹いっぱいな感じですね。
それにしても、「益田岩船」ってなんだろう……
○こちら===>>>
……なんとドルメン……かつては『ムー』っ子であり、「酒船石」「亀石」などであればすぐに体が反応するオーパーツ好きなのに、こんなものがあるなんて知りませんでした……無知。
ああ、案内板は、きちんと現地で読みましょうね、みなさん……(とはいえ寄っている暇はなかったのですが)。
どうやら、噂に名高き「久米仙人」の像、のようです(後述)。
天水桶、でしょうか。
「薬師講」とあります。
支えているのが、邪鬼なのか、面白かったので。
本堂。
なかなか立派な彫刻の数々。
梁の上で、やはり邪鬼と思われるユーモラスな像が屋根を支えています。
これは大師堂……だったと思います(うろ覚え)。
虫塚。
○こちら===>>>
どうやら、害虫駆除の薬剤を作っている方たちが建てたもののようで。
あ、こっちが大師堂だ。
じゃあさっきのは……真言宗ですし、護摩を焚かれると思うので、不動堂かもしれません(適当)。
観音堂。
全景。
あれ、「久米仙人」の案内板がないぞ……。
さて。
『日本書紀』神代第九段では、
「一書に曰はく、高皇産霊尊、真床覆衾を以て、天津彦国光彦火瓊瓊杵尊に裹せまつりて、則ち天磐戸を引き開け、天八重雲を排分けて、降し奉る。時に、大伴連の遠祖天忍日命、来目部の遠祖天槵津大来目(あめくしつのおほくめ)を帥ゐて、背には天磐靫を負ひ、臂に御稜威の高靹を著き、手には天梔弓・天羽羽矢を捉り、八目鳴鏑を副持へ、又頭槌剣を帯きて、天孫の前に立ちて、遊行き降来りて、日向の襲の高千穂の槵日の二上峯の天浮橋に到りて、(略)」
という感じで、来目部が登場しています。
また、
「(略)竺紫の日向の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき。故ここに天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挟み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、その天忍日命、こは大伴連等の祖。 天津久米命 こは久米直等の祖なり。」
という感じです。
『日本書紀』の神武東征場面では、「大来目」は大伴連の祖神とともに活躍の場面を設けられており、物部氏が軍事を司る前の軍事氏族だったことが伺えます。
何しろ「来目歌」という、久米部を読み込んだ歌が残っているくらいですから(戦前は有名だったと思いますが、「撃ちてし止まむ」で終わる、あれです)。
「二年の春二月の甲辰の朔乙巳に、天皇功を定め賞を行ひたまふ。(略)亦大来目をして畝傍山の西の川辺の地に居らしめたまふ。今、来目邑と号くるは、此、其の縁なり。」
とあります。
少なくとも、『日本書紀』が書かれた当時から、ここは久米だったのです。
なんかすごい。
『古事記』ではその後、皇后となる「伊須氣余理比賣」を見つけるのにも、「大来目命」は大活躍しています。
のちに没落して、大伴氏に出し抜かれ(『日本書紀』天孫降臨での、「大伴氏が祖神が久米氏の祖神を率いた」という表現がそれを表しているといいます)、「垂仁天皇」の頃には屯倉が置かれる(直轄地となるということか、軍事の中でも蔵の防衛をしていたのか)ということになり、歴史の中ではなかなか浮上しなくなっちゃったようです。
しかし、どうやらこのあたりが朝廷にとって重要な場所だったのは間違いなかったようです。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第3編
↑の284コマより引用(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「霊禅山東塔院久米寺
久米村にあり。聖徳太子の御弟久米王子の御願にして、本尊は薬師如来の座像、長八尺、又皇子の感得の尊像は、薬師佛の長一寸一分、黄金の壺に納めて本尊の佛胸に安置し給ふ。多宝塔は養老年中に善無畏三蔵来朝し、当寺に二年住みて、南天の鉄塔の半分のうつしなり。其心柱の下には仏舎利三粒・大日経七軸を籠められたり。 [仏法伝通記] 其後延暦十四年、弘法大師夢の告を蒙りて、久米の道場東塔の下にして、かの七軸の経を得られたまふ。 [釈書] 旧名来目寺を、弘法大師久米寺に改字せられしとなり。影堂には善無畏三蔵・弘法大師の両像を安置す。其外地蔵堂、護法神祠は天満天神を祭る。緇素十二家あり。これを寺僧と称す。妻帯にして久米村に住す。
今の多宝塔は、近頃京師寺務仁和寺の塔をここに移すといふ。いにしへの礎石猶遺れり。又世に久米寺宝塔真柱の銘といふものあり。信ずるに足らずといへども、ここに載せて考証に備ふ。」
○こちら===>>>
↑の15コマ。
「○久米寺(略)
当寺は霊禅山東塔院久米寺と称し、古義真言宗に属し高野山金剛峯寺末である。寺の創立は寺伝に聖徳太子の御弟久米皇子が、眼病平癒を御祈願の爲め、推古天皇二年に伽藍を経営し金剛医王の霊像を安置した其の後養老年中善無畏三蔵来朝してここに住し、南天竺鉄塔の半形を模し、高さ八丈の多宝塔一基を建立し、心柱の下に仏舎利一粒大日経七軸を納めた、是が我が国多宝塔の初めである。其の後延暦年中僧空海も亦ここに住し、其の心柱の下から大日経を感得し爲に大に発奮し海を渡つて唐土に入り、遂に真言宗の奥義を彼の地で究める事を得たと伝へている。又此の多宝塔は天慶五年七月三日雷火の爲に炎上し、現今のものは萬治二年八月京都仁和寺から移したとある。但し旧大塔の礎石は元の配置の儘残つてゐる。建造物の主なるものは本堂、庫裏、仙人堂、地蔵堂、多宝塔である。事に寺域内で注意すべきものは、石造層塔、益田池模碑等である。明治十八年二月永続保存金百円下賜になつた。扶桑略記、元享釈書、多武峯略記、今昔物語等に載せられた久米仙人の事績はここである。
○久米御縣神社 久米寺の南に隣接してあつて、本殿は西面である。境内は千四百八坪、里人天神と言つている。姓氏録に「久米直は高御霊産方命八世の孫、味耳命の後なり」とある。蓋し久米氏の祖神であらう。」
○こちら===>>>
↑の71コマより(カタカナをひらがなになおしています)。
「久米寺
(略)
久米寺は高市郡白橿村大字久米に在り霊禅山と号す奈良橋本元標■距ること六里八町現境内三千五百四十五坪本堂、観音堂、地蔵堂、影堂、多宝塔、弁天堂、金毘羅堂、鐘楼、檀信集会所、供所、荒神堂、僧坊、門等あり
本寺開基創建詳ならす寺記に云ふ推古天皇二年来目皇子の開く所にして舊と来目寺と書し後ち釈空海今の字に改むと元享釈書に云ふ
久米仙高市郡に於て精舎を営み丈六薬師の金像并に二菩薩を鋳る所謂久米寺なりと未た孰れか是なるを知らす
天慶五年雷火に罹りて宝塔焼失し又慶安三年兵■に罹りて伽藍悉く烏有と爲る萬治年間再ひ之を造るといふ
其本堂は域内の北方に在り方六間中に本尊薬師及日光、月光、十二神将、毘沙門天、聖徳太子、来目皇子の木造を安す其本尊座像長八尺伝へて聖徳太子の造る所と爲す
其仏胸に来目皇子の感得せし一寸八分の金像を納むと云ふ
其元享釈書の丈六薬師の金像を鋳るとは木像の誤りなりへし
観音堂又仙人堂と称す本堂の巽位に在り中に十一面観音の木像を置く長四尺許
寺記に云ふ天平年間久米仙人の作る所と傍に仙人の木像あり長二尺二三寸長髯細目奇偉活るか如し伝へて空海の作とす
寺記に云ふ天平中大和の国吉野郡龍門窟に三人の神仙あり大伴仙人安曇仙人、久米仙人と云ふ此久米仙常に龍門嶽より葛城峰に飛ひ通ふ其途中久米川に洗布の女あり仙人其脛色を観て忽ち愛心を生し通力を失して地に落つ則ち其嫗を以て妻と爲し寺の外院に居ると未た信否を知らす
地蔵堂は俗に鬼堂と呼ふ観音堂の南に在り堂桁行三間梁行二間半中に其主像を安す
堂前に古土塔あり練塔と称す高さ一丈五尺伝へて無畏の造る所と爲す
影堂は一に祖師堂と称す又地蔵堂の南に在り堂方三間中に無畏及空海の木像を置く倶に長二尺四五寸皆作者詳ならす
寺記に云ふ■■無畏茅を此に結ひ後ち空海経を此に講す故に其二像を此に安置すと
多宝塔は影堂の西に方り舊塔址中に在り方二間綜高さ四丈許中に大日如来の木像を安す長さ四尺八寸塔の扉に六天王の像を書き其大日像の後には釈迦、文殊、普賢の像を写す
寺記に云ふ塔もと養老中禅無畏三蔵の創る所其高さ八丈其心柱の下に仏舎利三粒と大日経七軸とを納むと元享釈書載する所無畏■盧舎那経を齋し我国に入る時に資■に乏し和の久米寺に納めて去ると蓋し此を謂ふものなるへし
其経今亡し唯た舎利あるのみ
又影堂の南に僧舎一区あり東塔院と号す即ち塔寺の本坊にして住持の居る所なり花園山、仙人堂、芋洗芝等の名跡は皆今境外に属す
寺中所蔵の古物天得薬師金像、天神木像、空海畫像、無畏畫像、心経板木、三社神勅、六字名号、久米寺流記、仏舎利等あり
其三社神勅は後陽成天皇の宸翰にして其舎利三粒は禅無畏の齋帯せし者と云ふ畝傍山を距る七八町、八木に至る廿五町、吉祥草寺に至る四十町」
『日本霊異記』はどこかにあると思うのですが、そういえば『今昔物語集』は持ってなかったなぁ……それはともかく、「久米仙人」のお話は、
「寺記に云ふ天平中大和の国吉野郡龍門窟に三人の神仙あり大伴仙人安曇仙人、久米仙人と云ふ此久米仙常に龍門嶽より葛城峰に飛ひ通ふ其途中久米川に洗布の女あり仙人其脛色を観て忽ち愛心を生し通力を失して地に落つ則ち其嫗を以て妻と爲し寺の外院に居ると未た信否を知らす」
ということのようです。
「吉野の仙人である久米仙人は、空を飛ぶ力を持っていたんだけど、久米川の近くで女性が生足あらわに洗濯しているのを見て、地面に落ちちゃった。その女性を妻として久米のあたりに住んだ」というような内容ですね。
霞を食って生きる仙人といえども、悟りを開いたわけでなし、女性には抗えず、ということでしょうか。
お話には続きがあって、「時の帝が新しい都を作ることとなり、仙人も人足として材木を運んでいた。ある日、『仙人なら、神通力で材木を運んでみろ』といわれて一念発起、神通力を取り戻して材木を都まで飛ばした。帝は喜んで、久米寺あたりの土地を与え、仙人はここに寺を開いた」という感じです。
仙人が仏道に入ってどうするんだ、という感じがしますが……。
それより、「天平中大和の国吉野郡龍門窟に三人の神仙あり大伴仙人安曇仙人、久米仙人と云ふ」……この伝説のほうが気になりますね。
久米氏と同じく、朝廷の軍事を担っていた大伴氏(結構後世まで活躍しますが、平安時代以降は……)、また海部をまとめていた安曇氏(こちらも重要な氏族ではありましたが、中央でというよりは地方で、という感じで……)、いずれも中央での影響力を暫時失っていった氏族です。
藤原氏全盛の頃なんか、さぞほぞを噛んだことでしょう。
こういったことが、「久米仙人」の伝説の背後には残っているのではないでしょうか。
そう考えると、「久米仙人」も、一種の「零落した神」なのかもしれないです。
『古事記』の、「神武天皇」の皇后選定の部分で出てくる歌があります。
「胡燕(※)子鶺鴒(あめつつ) 千鳥ま鵐(しとど) など黥(さ)ける利目(とめ)」(「伊須氣余理比賣」)
「媛女(をとめ)に 直(ただ)に遇はむと 我が黥ける利目」(「大久米命」)
※「燕」は、正しくは下部が「灬」ではなく「鳥」
意味ははっきりわからない、という人もいるようですが。
「伊須氣余理比賣」は「大神神社」の「大物主神」の娘でもあるのですが、高市郡あたりで遊んでいた七人の乙女の一人で、一番年上でした。
「大久米命」がその美しさを見初めて「神武天皇」に紹介し、「オッケー」ということで迎えにいくと、上の歌を詠みました。
「他にも若い女の子はたくさんいるのに、この刺青(黥)を入れた目はなぜ(一番年上の)私を選んだのか(見る目がない、ということか)」
「美しいと聞いたので直接見にきたのだ」
という意味ではないか、と思われます。
「黥文」を入れている人たちのことは、いわゆる『魏志倭人伝』にも書かれていますし、海洋民の印ではないか、など様々な説があります。
もともと国津神系だったことの証なのかもしれませんが、それにしては他の氏族にそういった描写が見られません。
とすると、「大久米命」の一族が特別だったのか。
または、なんらかの呪術的な意味を持っているのか。
うーむ……勉強不足ですが、気になります。
御朱印をいただこうと思ったのですが、どこでいただけるものやらわからなかったので断念。
「右は岡寺、左は神武橿原」。
名残惜しくも橿原を離れて、次の目的地に向かいます。