8/22。
「鷲宮神社」を堪能して、あとはもう都内に戻るだけ。
とはいえ、約束の時間まではもう少しあるので、あと一箇所くらい……と思い赴いたのは、「西新井大師(五智山遍照院総持寺)」。
○こちら===>>>
東武線で西新井駅まで、そこから東武大師線に乗り換えて大師前駅へ……って、東武大師線って大師前駅しかないんですね。
そのためだけに線路を引いたのか、他の路線が廃止になったのか……。
大師前駅はかなり立派でしたが、なぜか無人駅……なかなか不思議な駅でした(写真はないですが)。
駅を降りて、スマートフォンの地図を頼りにぐるぐるしてみたんですが、なかなか入り口にたどり着けず。
たどり着いたと思ったら、お祭りなのか盆踊りなのか、結構な人出で驚きました。
大本堂。
御本尊は十一面観音菩薩です。
大本堂向かって左手にある、「弘法大師像」(奥)と、「四国八十八箇所お砂踏み霊場」、です。
そうそう、こちらは真言宗豊山派に属しているとのことです(ま、弘法大師ですから)。
弁天様ですから、池で島です。
「弁天堂」の北、敷地の突き当たりに「権現堂」。
「権現堂の由来は、遠く当山建立の砌り、山内の地鎮のために権現像をまつることに始まる。その後数度の修復を経て今日に至る。権現とは、衆生済度の為に仏が神に化身して、我が国に現れた御影を申し上げる。」
……「○○権現」なのかまではわからず。
「蔵王権現」かなぁ……。
……なんだっけ、これ。
「権現堂」の東隣に「如意輪堂(女人堂)」。
「本尊如意輪観音は法輪を転じて苦しみを受ける一切有情に宝財を施し、あるいは如意珠より福智二徳を出生し衆生の苦を除き楽を与える観音菩薩である。
当山では何時の頃からか特に女人の請願成就に霊験ありとされ、その功徳多き故に女人堂と伝えられ衆生の帰依と共に今日に至る。
ご真言
おんはんどま しんたまに じんばらうん」
さらにその東隣、「権現堂」「如意輪堂」は南面していましたが、こちらは東面しています「奥の院」。
「今にまします弘法大師様高野山奥の院を関東に奉迎して当地にまつりました。かつてこの御堂の前に御霊屋影見の井戸あり、かかるところから当山は関東の高野と称され高野山の代拝所として江戸の昔より今日まで善男、善女の参ずる所が多い。
《御遺告》
虚空尽き涅槃尽きなば吾が願いも尽きなん
ご宝号
南無大師遍照金剛」
確か、「高野山奥の院」には、「姿見の井戸」というものがあって、姿が見えなければ死んでしまうとか、どんな眼病にも効くとか、そういった言い伝えがありました……と思います。
……あれ、これもなんだったかな……。
こちら「出世稲荷」。
「稲荷明神とは、本来五穀の神であります倉稲魂神をお祭りしたものである。
弘法大師様が嵯峨天皇より東寺を賜りました時、明神が翁の姿となって現れ救いを垂れられたので、東寺の鎮守として祭られ盛んになったといわれます。
この社殿は弘法大師降誕一二〇〇年の記念として再建いたしました当山の鎮守であります。」
階段というか、スロープをあがったところに鎮座する、珍しい形です。
その意図はよくわかりませんが、位置関係としては明らかに「鬼門封じ」だと思います。
大本堂の手前に、加持水の井戸。
……これもなんだろう……扁額には「加持水」とありますが……。
はい、おめあてはこちら「三匝堂(栄螺堂)」!
境内を結構探したのですが、「曹源寺」サイズを想像していたので見つかりませんでした。
思っていたよりこじんまり。
「この堂は一見三重の塔に見えるが、江戸時代に流行した三匝堂で、俗に栄螺堂と言われる仏堂の一形式である。江戸中期本所の羅漢寺に建てられたものをはじめとして、関東以北の寺院に相当建てられたらしいが、今に残る遺構は非常に少ない。都内では明治十七年改築とはいえこの堂のみで、貴重な建築物である。
堂の内部には、初層に本尊の阿弥陀如来と八十八祖像、二層に十三仏、三層に五智如来と二十五菩薩を祀ってある。現在は本尊が新本堂に移されている。
昔は、ここに参れば一時に諸国の霊場、諸仏を巡拝したのと同じご利益があるとされ、さざえの殻の中のような堂内を初層から三層まで巡拝した。」
……うーん、是非とも入りたいのですが……いたしかたない。
梵字。
読めませんて(オームとイーくらいは区別できますが)。
「栄螺堂建築之記」……微妙に読めるのが悔しい(これを案内板にそのまま載せてほしいものです)。
大本堂から「栄螺堂」を。
あ、結構高い。
山門。
あ、夏まつり直撃でしたか……夜は阿波踊りかぁ……。
さて。
ちょっとだけ引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
○こちら===>>>
193コマです。
「西新井大師
総持寺 五智山遍照院 新義真言宗 大和豊山派長谷寺 西新井町(西新井町二番地)
東武線大師前下車・駅より山楽迄の両側は茶店、土産物店多く目無達磨、軽焼等を売つてゐる。
この寺は川崎の大師と共に、総持寺といへば知らぬ人もあらうが西新井厄除大師といへば知らぬ人のない程有名である。
大師境内は五千餘坪あり、本坊、仁王門をはじめ、栄螺堂、お伽持水の井、不動堂、高野山の模造、弘法大師伊呂波歌の碑、総持寺碑、般若波羅蜜多教碑、宗祖遠忌報徳碑等がある。
従来山城国、醍醐報恩寺末寺であつたが明治十六七年頃より大和豊山派長谷寺に属してゐる。
火災にあつた爲、記録等消失して古い事は不明であるが、ただ中興宗覚僧正を第一世とし現在濱野堅海師迄四十世に及んでゐ、現在檀家約二百戸信者十数万を有してゐる。又慶安元年寺領廿石の朱印を賜はり天文二年吉宗将軍が当山にお成りになつてからは、放鷹の時の御膳所となり上野寛永寺の宮の御台覧を忝うした事もあるといふ。
江戸名所記に「そのかみ、弘法大師、この所にしておこない賜ふ、と閼伽の水これなり。大師すなはち水にむかつて加持し給へば、たちまちに水わき出たり、新井と名付ける事は此故なり、真言宗の檀林として所化おほくあつまるといふ」とある。
毎月廿一日の賽日には信者の参詣多くこの日には境内に苗木市あり、大した賑やかさである。
大師より西南二粁(自動車あり)荒川土手に至る、この堤の傍に第二番六地蔵の安置せらるる沼田惠明寺がある。ここより下流には所謂、荒川五色桜があり、古来桜の名所として知られてゐる。」
ということで、記録が消失してしまって、来歴がよくわからなくなっています。
○こちら===>>>
↑で、江戸時代のこの辺りを見てみますと、確かに「西荒井大師」という文字が見えます。
『江戸名所図会』にはないんですよね……多分、その頃は江戸内ではなかったんだと思います。
『新編武蔵風土記稿』とか検索しないといけないんでしょうけれど、多分調べてもこれ以上のものは出てこない気がします(出てきたら、wikipediaがもっと充実しているはずです)。
う〜ん、なんとなく消化不良ではありますが、まぁ一日に二つも「さざえ堂」が見られたので、それでよしとします。