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このまま帰るのもなんだし、「津島神社」にでも久々に行こうかと思っていましたが、スマートフォンで検索してみたら、こんなところを見つけました。
「穂歳神社」と「憶感神社」。
○こちら===>>>
佐屋街道にある神社です。
こちら「穂歳神社(ほうとしじんじゃ)」。
格としては村社だったようです。
なかなか立派な神社なのですが、案内板の一つも立たず。
地元の鎮守さんなのでしょうね(「津島神社」の勢力範囲内だったようなので、そちらで調べれば何か出てくるかもしれません)。
そこから東に10分ほど歩くとあります「憶感神社(おっかんじんじゃ)」。
指が。
『延喜式神名帳』にも名が見える古社で、社格は郷社。
街道の突き当たりのような場所にあります。
突き当たり→蕃塀のコンボが美しいです。
どうしちゃったんだろう、という色の拝殿。
境内社ですが、不詳(Wikipediaにも項目がないもので。ネット上の情報によれば「神白社」ではないか、と)。
チラ見本殿。
これまた、どうしてこの色に……という感じ。
こちらの神社は、「憶感山吉祥寺」というお寺の境内にあります。
本堂。
「善光寺」ご開帳の回向柱、とは関係ないです。
観音堂。
「縁起
この三十三観音は、神守宿場時代、天明八年(1788)に当寺に祀られ、三十三観音第二十八番霊場として信仰を集め、文政三年(1820)には檀徒及び村民の厚い信仰により御堂が建立され、そこに祀られた。人々は、村内鎮守・家門繁栄を願ったと伝えられる。更に、明治二十七年(1894)に改築、平成五年十二月に新築され、現在も多くの人々の心のささえとして親しまれている。」
秋葉権現堂。
境内の手前にある六角堂。
「縁起
(略)
さて、この延命地蔵は、神守宿場時代、宝暦八年(1758)に当寺に祀られ、文政三年(1820)には檀徒及び村人の厚い信仰により六角堂が建立され、ここに祀られた。
人々は、村内安全・子孫繁栄を願い、旅人は道中の安全を祈ったと伝えられる。その後、明治六年(1873)に改築。平成六年十二月に大改修され、現在も多くの人々から厚い信仰を受けている。
地蔵さまのご真言
オンカカカビサンマエイソワカ」
なんでだろう……あとは光明真言くらいしか浮かんでこない。
ひっそり「神変大菩薩」。
さて。
○こちら===>>>
↑久々の『神社覈録』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
383。
「憶感神社
憶感は於加牟と読り○祭神詳ならず○海東郡中切庄神守村に在す、集説
考證、集説共に、姓氏録云、島田臣、神八井耳命之後也、五世孫武恵賀前命孫仲臣子上、稚足彦天皇 諡成務 御代、尾張国島田上下二県有悪神、遣子上平服之、復命之日賜號島田臣也、和名鈔尾張国海部郡島田、とあるを引て、按憶感與子上音訓近通、と云て子上をヲカミをよみ、仲臣子上を祭るよしにいへるはいかがらん、信じがたきここちす、猶考ふべし、
(略)」
『神社覈録』自体が文献としてどうなのか、という部分はありますが。
「神八井耳命」は「神武天皇」の御子で、弟が「綏靖天皇」です。
↑によれば、
とあります。
その末裔の「仲臣子上」が「尾張国島田上下二県有悪神、遣子上平服之、復命之日賜號島田臣也、和名鈔尾張国海部郡島田、」なので、「子上をヲカミをよみ、仲臣子上を祭るよしにいへるはいかがらん、信じがたきここちす」……結局否定しています。
「仲臣子上」という人を祀っているというのは、『尾張神名帳集説』や『神名帳考証』(これが伴信友のものなのか、度会延経のものなのかは、『神社覈録』の参考文献を見ないとわかりません)に書かれていることで、それに疑問を呈しているわけです。
「憶感は於加牟と読り」
……字で書けば「おかむ」、読みとしては「おかん」でしょうか。
「おっかん」と音便した読み方もあるようですし、さてどれが一番古いのやら。
続いて、
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第9編尾張名所図会
↑より(127コマ)。
「憶感(おかん・おくか)神社
同所にあり。[延喜神名帳]に、海部郡憶感神社、[本国帳]に正一位憶感名神とある是なり。[文徳実録]に、仁寿三年六月丁卯。以尾張国大国霊神。大御霊神。憶感神等。列於官社。と。又[三代実録]に、貞観七年十一月十七日甲午。授尾張国従五位下憶感神従五位上。と見えたり。
別当 憶感山吉祥寺。」
淡白な。
ここでは「おくか」という読みが提示されていますが、これは明らかに「憶感」という当て字からきているので、読み方としては新しそうです。
「吉祥寺」は別当だったようです。
最後は、津田正生の著した『尾張神名帳集説本之訂考』の改題『尾張国神社考』(発行:ブックショップマイタウン)から引用です。
「[正成考]憶感はおかみとよむべし。皇洛を漢字もて填たるなり [松平君山曰]いま吉祥寺 眞言宗 の境内にあり [里老曰]舊地は北神守より二町餘北の一樹ある邊也と云り [石原正明曰]いま吉祥寺の境内にある祠を憶感(オクカム)名神と申せども、實は諸桑宇多志なとのやうに治定なるにはあらじと [地名考云]神守椿市越津、下切宇治、千引、古瀬河田等の村々は、もと水陸一圓の地にて、みな水に縁ある村名なり。右の中に越津、下切、河田は正字也。餘はみな假借字也。正字は河守、津場集地、海路、瀬水引越瀬の義なり。爰に南河田村の巽に八龍と呼深田の中に、八龍お亀宮といふ松杜の宮地ありおかめは則おかみの誤にて、祭神を重ねてよべり。今俗亀の宮と八龍とを二座とするは笑ふべし。此宮百三十年も前に、村民相議りて宮地を潰して田となしたるに、頭取の農民七八人、奇病と煩ひて忽死たり。爰をもて又舊の如く宮地を築たて、松を植て神地に返し奉る。此八龍と神守村の舊地とは其間指かたし拾町ほどを隔つ。若くは雨龍(おかみ)の本社ならむか。又は別社かなほ考ふべし。」
雨龍(おかみ)というのは「闇淤加美神」「闇龗神」のことを指していると思われます。
ご存知、「火之迦具土神」が「伊弉諾命」に斬られた際に生まれたとされている神ですね。
火の神を切って水の神が生まれる、というのがよくわからないんですが、この神話自体は鍛冶の場面ではないかと言われており、鍛えた金属を水で冷やすという行為と関係があるのではないかとか、五行相生の考え方から、火の神を「金属の剣」で切ったことで、「金生水」で水の神が生まれたのではないかとか、諸説あります(五行でいくと、「火剋金」なので、金属の剣では火の神は切れないことになってしまいますが)。
何しろ『延喜式神名帳』に掲載されているくらいの歴史ある神社ですが、文献などは残っていないとのことです。
残念。
しかし、津島市のある愛知県西部から三重県にかけての地帯は、庄内川と木曽三川が流入する河口に位置し、海抜も低いことで知られています。
大河の氾濫は多かったことでしょう。
このことから、龍神であり水の神でもある「龗」が祀られたとしても不思議ではありません。
○こちら===>>>
↑「尾張津島秋祭り」には、「穂歳神社」「憶感神社」からも山車が出ているそうです。
祭礼にはほとんど興味がないのですが、一度は見てみたいと思いました。
最後に、面白いPDFを見つけたので。
○こちら===>>>
http://w3.aichi-tsushima-ed.ed.jp/minami-e/nc/?action=common_download_main&upload_id=735
↑尾張西部の豆知識〜。
あ、御朱印はありません。