さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第3編
↑『大和名所図会』から引用します((引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
87コマより。
「極楽院
……以上です。
ええと、続きに「元興寺」の記事がありました。
「元興寺
[日本紀]に曰く、推古天皇四年に聖徳太子守屋を討つて、飛鳥地に此寺を草創し給ふ。初は法興寺といふ。[玉林抄]に云ふ、四門の額は南に「元興寺」、北に「法満寺」、東に「飛鳥寺」、西に「法興寺」とかけられたり。いにしへは伽藍巍々たり。今はおとろへて、五重塔に大日如来を安置す。又一宇に観世音をすゑられたり。此観音の像は、長谷の本尊を作りし霊木のきれにて彫刻しぬれば、長谷にまうでぬる人は、先此観音に詣で、萬の事を願ひ、其後長谷へまゐれば、事の叶うよし[御順禮記]に見えたり。昔此塔に鬼の棲みける由いひ伝へたり。」
↑には、
「四年の冬十一月に、法興寺、造り竟りぬ。則ち大臣の男善徳臣を以て寺司に拝す。是の年に、慧慈・慧聡、二の僧、始めて法興寺に住り。」
とあります。
「慧慈」は高麗、「慧聡」は百済の僧侶で、この前年に日本に渡ってきています。
↑によれば、
「元興寺の名は「仏法元興之場 聖教最初之地」に由来し、法興寺(飛鳥寺)を前身とします。つまり、わが国の仏法興隆を願った歴史、基礎仏教の初伝を誇った寺名を有しているのです。
古京飛鳥の法興寺(本元興寺)が中金堂本尊釈迦如来坐像(飛鳥大仏)であるのに対して、平城京の新元興寺は弥勒仏を金堂本尊とし、伽藍形式も規模も一新したようです。そこには、基本を重んじながらも未来志向の伝統が感じられます。」
とのことです。
お寺でもらったパンフレットでは、
「元明天皇の和銅3年(710)、奈良に都が移されると、この寺も養老2年(718)には新京に移されて、寺名を法興寺から元興寺に改めました。その際、飛鳥の地名からとった飛鳥寺の名はそのまま継承され、かえって新しく移った元興寺の寺地が平城(なら)の飛鳥と呼ばれることとなりました。」
とあります。
○こちら===>>>
「瑜伽神社」〜奈良めぐり - べにーのGinger Booker Club
↑こちらでも触れました「平城(なら)の飛鳥」というのは、「元興寺」の寺地を指して呼ばれたもの、と考えられているようです。
日本仏教の始まり、と考えてもいい「元興寺」ですが、「南都焼き討ち」後も生き残り隆盛を誇った「興福寺」「東大寺」と異なり、広大な伽藍は次第に荒廃していきます。
有力豪族などとのつながりが薄かったからではないかと考えられています。
一方で「極楽坊」は、「智光法師曼荼羅」に対する信仰や、聖徳太子信仰、弘法大師信仰などが入り混じった「庶民の寺」として存続していきます。
何か不思議な魅力が、この寺にはあったのだろうと思います。
さてさて、『大和名所図会』の中の、「昔此塔に鬼の棲みける由いひ伝へたり。」ですが。
その筋(妖怪好き)の人にとっては、「元興寺」「元興神」といえば「がごぜ」「がごじ」という「鬼」として有名ですね。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 百鬼夜行 3巻拾遺3巻. [1]
↑江戸の妖怪絵師・鳥山石燕の『画図百鬼夜行』でも「元興寺(がごぜ)」が描かれています。
『わかる!元興寺』によれば(P74)、
「ガゴゼは平安時代初期の仏教説話集『日本霊異記』に見える道場法師の鬼退治説話中の、法師の形相が原型とされる。『日本霊異記』には道場法師の鬼退治として、次のような説話が記されている。
敏達天皇の時代、ある農夫の元に子どもの姿の雷神が落ちてきた。雷神は自分の願いを叶えてくれるならば子を授けようというので、農夫は雷神のいうとおりにし、雷神は再び天に帰っていった。数か月後に農夫は一人の子どもを授かる。この子どもは成長するに従い怪力を持つようになり、やがて元興寺の童子(後の道場法師)となった。
ある時、寺の鐘楼に人食い鬼が出るというので、童子はその鬼の退治を申し出た。真夜中、童子は現れた鬼と闘う。闘いは夜明けまで続き、鬼は頭髪を引き剥がされたものの逃げ去った。童子は鬼の後を追いかけるも、辻子で見失った。故にこの辻子を不審ケ辻子(俗に「ふりがんずし」)と呼ぶようになった。この後に鬼髪は元興寺の寺宝となったという。しかしながら、時の流れのなかでこの鬼髪は失われてしまったようで、現在は伝わっていない。」
「一方でこの説話以前より、ガゴゼ伝承はあったとの説もある。全国には古くから「ガゴゼに嚙ますぞ」という、悪さをする子どもを脅す言葉がある。これは、西日本の広い範囲では妖怪のことを「ガゴ」「ガゴゼ」などといい、口を大きく開けて「咬もうぞ」といいつつ出現したことに起因するという。鬼ごっこの古い型である「ベカコ」「ベッカンコ」は、メカゴー(目掻う)あるいは目赤子が語源である。これは「ベッガンゴ」から変化したものかもしれない。いずれにせよ、古くから目に見えない畏怖の対象をガゴゼとも呼んでいたことは確かである。」
「元興寺では道場法師が鬼を退治した時の形相を元興神(ガゴゼ)、八雷神(やおいかづちのかみ)と称している。この形相は次第に『日本霊異記』にある元興寺の宝物たる鬼髪の代わりに、寺のシンボルとなっていった。塔跡には八雷神面が伝えられている。」
などとあります(この道場法師、どうやら尾張の人のようです)。
○こちら===>>>
↑に収められている『南畝莠言(なんぼゆうげん)』に、「八雷神面」の図が収められています(315コマ)。
我らがWikipediaによれば、
○こちら===>>>
「江戸時代の古書によれば、お化けを意味する児童語のガゴゼやガゴジはこの元興寺が由来とされ、実際にガゴゼ、ガゴジ、ガンゴジなど、妖怪の総称を意味する児童語が日本各地に分布している。しかし民俗学者・柳田國男はこの説を否定し、化け物が「咬もうぞ」と言いながら現れることが起因するとの説を唱えている。」
↑この柳田國男の説は、
↑の中の「おばけの声」で触れられています(P60)。
「オバケの地方名は、大げさにいうならば三つの系統に分かれている。その一つは九州四国から近畿地方までに割拠するもので、主として、ガ行の物すごい音から成り立っている。鹿児島県でガゴ・ガモ又はガモジン、肥後の人吉辺でガゴーもしくはカゴ、日向の椎葉山でガンゴ、佐賀とその周囲でガンゴウ、周防の山口でゴンゴ、伊予の大洲附近でガガモ又はガンゴ同じく西条でガンゴーというなどがその例である。」
「……即ち最初はかれ自身「かもう」と名乗って、現われてくるのを普通としていたために、それが自然に名のようになたのかと思う。人が既にオバケを怖れぬようになって、「かもう」ぐらいではこわさがたらず、「取って食おう」とでもいわないと、相手がオバケだとも思わぬようになってしまった。」
……うーん、柳田先生ちょっと苦しいような気がします。
「ガゴゼ」が「元興寺」で、しかも「鬼」や「オバケ」を表すっていうのは、案外ありな解釈なのではないかと思います。
『日本書紀』で、「大臣の男善徳臣を以て寺司に拝す」とある「大臣」は「蘇我馬子」のことです。
関裕二氏がよく指摘していることですが、「藤原氏」に見事に封じ込まれた「蘇我氏」と「聖徳太子」ですが、どちらも「怨霊」になっていても不思議ではありません。
もともと、「元興寺」は「鬼=怨霊」を内包していたのではないかと思われます。
荒廃してもなお踏みとどまった「興福寺」や「東大寺」が「藤原氏の寺」だったのに対し、「元興寺」が荒廃して、庶民のものとされたのは、「蘇我氏の寺」だったからではないでしょうか。
「鬼」は、「人ではないもの」。
「殿上人」以外は「人」ではなかった時代があるのだとすれば、「鬼」と庶民は近しい存在だったのでしょう。
ま、そんな妄想で今回は終了〜。
「元興寺」の近くの案内板を見ていたら、見所だらけであることに気づきました。
そして、時間はないのです……。