べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「元興寺(極楽坊)」〜奈良めぐり

10/31。

 「崇道天皇社」をあとにして、夕方も近くなってきており、ついでに雨模様。

拝観時間の終わりが早い神社仏閣を巡るには、本当は自転車が欲しいところです。

最終目的地は決まっているので、その間にあるところ、ということで元興寺へ。

 

○こちら===>>>

元興寺あんない・みどころ・歴史・行事・アクセス |元興寺公式サイト

 

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ユネスコ世界文化遺産古都奈良の文化財」の一つですので、来訪者も多かったです。

 

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こちらが本堂の「極楽堂」。

曼荼羅堂」とも言うそうです。

ちょうど開催されていた「平成26年度秋季特別展・元興寺再生」のパンフレットによれば、

 

奈良時代元興寺僧房に起居した智光法師」が夢で見た極楽を描いた「智光曼荼羅」は、その後、元興寺における信仰の中核を担ってゆくことになる。平安時代になると智光曼荼羅を拝むための専用の堂として僧房の東端が分離される。寛元二年(1244)には分離された東端を改造して現在の極楽堂が形作られる。」

 

とのことです。

本当は、もう少し離れた場所から撮影したかったのですが、とにかく大きいです。

そして、その大きさというのが、なんといいますか、「寂しい」です。

取り残された、とでもいえばいいのか。

現在の「極楽堂」は、もともとの大伽藍のごく一部に過ぎず、往時の伽藍図を見てみるとその隆盛ぶりがわかります。

「極楽堂」の内部は、もちろん撮影禁止なので、公式HPの「みどころ・解説」をご覧いただくか、

 

わかる! 元興寺 ―元興寺公式ガイドブック―

わかる! 元興寺 ―元興寺公式ガイドブック―

 

 

元興寺」がまとめたこちらのガイドブックがお得です。

こちらの内部構造を、↑のガイドブックから引用しますと(p16)、

 

「……中央一間を方形に囲って内陣とし、その中央やや西寄りに須弥壇と厨子を置く。さらにその周囲を広い外陣が取り巻き、念仏講など多くの人々が集うことを可能とした。(以下略)」

 

とのことです。

当日は天気が悪くなってきていたので、堂内は薄暗く、広大な建物内独特の静けさに満ちておりました(参拝客は多かったですが、それでも静か)。

外陣を周囲から見ることができました。

確か、外陣後方には「十王像」があり、「極楽堂なのに地獄の十王とはこれいかに」と思いました。

西の壁面にも仏像が並べられ(「観音」様だったと思います)、どれも手に取れる距離にありました。

ガラスケースの中に入っているから貴重、というわけではないですが、最近では文化財盗難という事件も多発していますので(仏像と経典を盗み出して、経典は海に捨てたなんてものもありましたね……)、ちょっと心配になってしまいます。

様々なものが堂内にあったのですが、写真を撮ることに慣れていて、あまり記憶していないのがまた残念で……。

 

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こちらは「極楽堂」の背後にある「禅室」。

 

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「国宝 極楽坊禅室(僧坊)

この堂は元興寺東室南階大坊の四房分が残った僧坊で、禅室とも呼ばれ、念仏道場として著名であった。鎌倉時代に改築され大仏様式の手法を軒廻りによく残している。主要な構造部材及び礎石は奈良時代の創建当初のものが残り今も用いられている。

奈良時代官大寺僧坊遺構を伝え、内部の間取りに奈良・鎌倉時代僧坊のおもかげをよく残す貴重なものである。本堂と同様に南流れの屋根の一部に行基葺古瓦が残る。古瓦には最古の丸瓦、平瓦を含め飛鳥時代から奈良時代のものも伝世している。」

 

残念ながら、中には入れませんでした。

「禅堂」、そして「極楽堂」も、使われている瓦には、古く奈良時代からのものもあるそうです。

セラミックは割れなければ長持ちするのですね(?)。

 

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石仏。

この手前には、石塔群があったはずなのですが、なぜかやっぱり写真がない、と。

うーん……他の参拝客がいたから、撮り忘れたのか。

 

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こちら「弁天社」。

ちょっとくたびれておられますが。

 

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隣の井戸(?)の前で、石を枕に鬼が寝ていました……。

 

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「弁天社」遠景。

 

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こちら、境内北西奥にある、石舞台前の「神変大菩薩(役行者)」。

役行者」の最初の修行地は「葛城山」で、それ以前にどうやら「「元興寺」で「孔雀明王法」を学んだ」、らしいです(Wikipediaさんより)。

そのわりには、ひっそりですね……前鬼と後鬼も連れてないし。

 

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「かえる石(大阪城の蛙石)

江戸時代の奇石を集めた「雲根志」に載せられている大阪城の蛙石である。河内の川べりにあった殺生石だった様だが、後に太閤秀吉が気に入って大阪城に運び込まれたという。淀君の霊がこもっているとも云い、近代には乾櫓から堀をはさんだ対岸隅にあった。大阪城にあった頃は堀に身を投げた人も必らずこの石の下に帰ると言われた。ご縁があって、この寺に移され、極楽堂に向かって安置された。

福かえる、無事かえるの名石として、毎年七月七日に供養される。」

 

「江戸時代の奇石を集めた「雲根志」」……って、そんな本誰が読むんだろう、と思ったりしますが、いつの時代も好事家(マニア)はいるんですね……石マニア、ですか。

「河内の川べりにあった殺生石と、さらっと恐ろしいことが書いてありますが。

有名なのは那須にある、「玉藻前」、つまり九尾の狐が化けたものですが、こちらの殺生石は何がどうしたんでしょう。

 

……あ、『雲根志』を読め、と?

 

国会図書館デジタルコレクション」に『雲根志』がありましたが(2種類)、古典籍で、活字化されていないもので……断念(だって半分くらい読めませんもの)。

↑『わかる!元興寺』では(p34)、

 

「……昭和15年(1940)には蛙石付近で堀に転落した人物が救助されて、その人物が「蛙石に腰かけてスケッチをしていたら、十二単の女性が現れ扇子をあげて導くので、ついていったところ堀に転落した」と語った、という噂がひろまった。これが新聞沙汰となり、蛙石と淀君怨霊伝説が都市伝説化、見物人が押し掛ける事態となったそうである。当時大阪城に司令部を置いていた陸軍はこれを良とせず、くだんの石を撤去してしまい、長らく蛙石は行方不明となっていた。(略)」

 

とあります。

うーん……「語った、という噂がひろまった。」とは、胸が熱くなるような伝聞に次ぐ伝聞です。

取り上げた新聞は、今でいう『東○スポーツ』みたいなものだったのでしょうか?

七月七日の法要は「施餓鬼」だそうですが……これまた何故に・

 

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門の左手にある石造群です。

「旧肘塚(かいのづか)不動堂石造物」、と書かれています。

『わかる!元興寺』によれば(p66)、「南に1キロほど離れた奈良肘塚町にあった工場敷地に不動堂が建てられ、近隣の石造物が運び込まれた。平成14年、不動堂が撤去されることになり、「元興寺」に移った」のだそうです。

なかなか味のある石仏さんも多く、どうして撤去しちゃったんでしょうねえx……。

 

 

とりあえず写真は以上、次回に続きます〜。