10/31。
「赤穂神社」をあとに、次の目的地へ向かいつつ、途上の神社仏閣を巡ろう、と西へ向かいます。
スマートフォンの地図で目に付いたのが、「瑜伽神社」。
○こちら===>>>
なかなかない字面だったので。
山を背負った神社、のようです(事前に知識を入れてないもので)。
読みとしては「ゆがじんじゃ」か「ゆうがじんじゃ」か。
公式には「ゆうがじんじゃ」のようですが、つい「ゆがじんじゃ」と読んでしまいます。
背後の山は「瑜伽山」なんですね。
細い山道の先に、わりと急な階段……登るのか(苦)。
一段一段は低いですが、急なことにはかわりなく……。
最初の踊り場(?)に歌碑がありました。
「瑜伽山櫻楓歌碑の説明
歌 春は又花にとひこん瑜伽の山
けふのもみぢのかへさ惜しみて
註(かへさ=帰さ)カエサ(名)「かへるさ」に同じ
けふ=[今日]キョオ(名)古典事典
作者は梶野土佐守藤原良材で、この人は天保二年四月八日所司代より奈良奉行を仰せられ、同七年十二月八日京都奉行に転出するまでの六年間を奈良に勤務した人であります。その著書に「山城大和見聞随筆」三巻がある。良材は旗本の士で、なかなか気骨があって、殖産治水に力を尽し言画骨董に興味をもち見識高く学問思想上にも一見識を備えた幕末の一人材であった。
桜楓の名所 瑜伽山は、古来桜と紅葉の名所で奈良十六景に「瑜伽山の桜」と「瑜伽山の紅葉」と同所に二景を選ばれています。又世には「小嵐山」と誉め称えて春は桜かざし花の宴に秋は紅葉の下に賀莛を聞き大宮人も武士、百姓町人も無礼講とばかり、この山に遊んで春秋を楽しんだことであろう。この歌は紅葉狩に来た作者が夕日に映える紅葉の美観に感嘆し尚も去り難い思いで春には又ここへ来て花見をしたいものだとの意を詠んだ歌である。
碑の石は宮津石(台も共)
碑の文字は作者自筆の短冊から写真拡大したものです。」
桜の季節を逃し、紅葉の季節にもややおよばず(この年は、紅葉が遅かったし、短かったし)。
↑の石柱には「奈良時代古社 飛鳥神並社」とあります。
お社の木札をなんとか読んでみますと、
「飛鳥神並社
瑜伽大神の和御魂を斎き奉る 和御魂とは寿命を護り……当社は息災延命の守護神であります」
真ん中が読めませんでした。
「瑜伽大神」という方がいらっしゃるようです。
さらにのぼって、拝殿到着。
ここでようやく「お稲荷さん」であることに気づきました。
「平城の飛鳥の万葉歌碑説明
原文 古郷之飛鳥者雖有青丹吉(ふるさとのあすかはあれどあおによし)
平城之明日香乎見楽思好裳(ならのあすかをみらくしよしも)
歌は万葉集巻六(九九二)に載っていて文字は類聚古集に依る。
作者は大伴坂上郎女で天平五年の作である。万葉集第三期から第四期におよんで量質おもに第一の女流歌人である。兄旅人の没後は佐保の大伴宗家にあって一族の後見としてその世話を女手の双肩になっていた才色兼備の社会的地位の高い貴人であった。
奈良の飛鳥 この碑前に立って遥かに南を望むとき吉野郡山を背に大和三山が鼎立し飛鳥古京が翳濃く位置するものが見える。
大伴坂上郎女の魂はこの碑に凭って「ふる里の飛鳥はあれど」とこの奈良の飛鳥の見晴らしのよさに安らいでおられることであろう。
東に巻向山、三輪山、音羽山(万葉の倉梯山)多武峰そしてその奥に宇陀の山々が畳みかけるように重なり西に金剛山、葛城山、二上山、生駒山など万葉故地の山々が高く連りそのとりめぐる青垣に擁されつつひろがる大和のまほらを一望に収め得るのである。」
……案内板の文章がかなり時代がかっているのがなんだか鼻につきますが。
「大伴坂上郎女」というのは、
○こちら===>>>
↑参照のこと。
通常「飛鳥」といえば、我々が想像する「飛鳥時代」のイメージ、大和の「飛鳥」のことを指します。
「大伴坂上郎女」は、その故地を懐かしみ、「平城京」から「飛鳥」を望むことができる「瑜伽山」の高台を、「平城之飛鳥(ならのあすか)」と詠んだ、ということのようです。
和歌と地理はさっぱりなもので……。
拝殿を近くから。
灯篭には「瑜伽大権現」とあります……まぁ、なんでも「大権現」だった時代がありますから。
「瑜伽神社略記
御事歴 別名を豊受大神とも申し伊勢の外宮に鎮り坐す大神と御同神であらせられます。即ち一粒の種から万倍の豊穣をもたらすように小を大に導き無から有を生んで下さる広大無辺の御神徳をおもちの大神で、それ故縁結び、子孫繁栄商売繁昌等福徳を招来して人間生活の一切を倖せにして下さっています。
沿革 上古飛鳥神奈備に飛鳥京の鎮守として斎き奉っていたのを、平城奠都と共に此地に遷し祀って現在に及んでをります。それでこの辺りを奈良の飛鳥といいます。もと元興寺の鬼門除の鎮守として崇められ後興福寺の大乗院がこの山麓に建つに及んで更にその守護神として藤原氏等の厚い崇敬がありました。
万葉故地 今謂う瑜伽山が古の飛鳥山と大和高原の一部が平地に突出した山觜の先端であるため奈良の都を見霄かすにも恰好の台地であったことでしょうし、又南方遥かにふる里の飛鳥古京を今も尚望めるのであります。大伴坂上郎女が万葉集巻六に歌一首をとどめています 天平五年(七三三)
ふる里の飛鳥はあれど青丹より平城の明日香を見らくしよしも」
「上古飛鳥神奈備に飛鳥京の鎮守として斎き奉っていたのを、平城奠都と共に此地に遷し祀って現在に及んでをります。それでこの辺りを奈良の飛鳥といいます。」……とのことです。
これは、↑の方で紹介した「飛鳥神並社」のこと、なのではないかと思います。
で、あちらが「和御魂」ということは、こちらは「荒御魂」……?
でも、御祭神は「宇迦之御魂大神」ですから……うーん、いつの頃にか、そういうことになってしまっていますが、元々はやはり「飛鳥神並社」だったのではないでしょうか。
境内には他に、
「一言稲荷社」と「飛鳥乃御井」……「お稲荷さん」多いです。
「猿田彦社」。
珍しい、「久延彦社」があります。
こちらから東には「奈良町天神社」、西には名勝である「大乗院」の庭園があります。
○こちら===>>>
「瑜伽山」も含めた景色が美しい、そうです。
さて。
「瑜伽神社」について、文献をネットで探ってみましたが、なかなかヒットせず。
○こちら===>>>
↑のHPや、
○こちら===>>>
↑のHPを作られた先達の情報しか得られませんでした。
公式HPや文献以外からの孫引きはできれば避けたいので、これらのHPをご覧になって、ご自身で確認してください。
ネットだけで文献を漁るのには限界がありますね……かといって図書館通いは苦手(面倒)ですし……。
ところで、冒頭の歌碑の案内板の中に、「瑜伽山は、古来桜と紅葉の名所で奈良十六景に「瑜伽山の桜」と「瑜伽山の紅葉」」とあったので、「奈良十六景」もかなり検索したのですが、ネットでは一向に引っかからず。
出てくるのは「瑜伽神社」の歌碑案内板を引用したブログやHPばかり(ここもそうです)。
……他の「十四景」を知りたいんですけど。
同じように思っている方はいないものか……と、他力本願かつ「検索エンジン万能説」に陥っている私です。
危ない危ない。
○こちら===>>>
↑の24コマには、
「瑜伽山 ホテルの東方の小山で、瑜伽神社があり、松の翠色荒池の面に映じ爽々しく夏の夕涼みには誂らへ向きである」
とあります。
大正8年の発行物で、現代的なポケット観光案内の記事です。
○こちら===>>>
↑は明治24年発行の、やはりポケット観光案内のようですが、20コマに、
「○飛鳥神並神社 西新屋町南端東側にあり。むかし元興寺鎮守の神なり」
とあります。
現在の西新屋町をネットの地図で見ますと、「瑜伽神社」の場所からは南西に位置しています。
かつてこの辺りにあった「飛鳥神並神社」が、「瑜伽神社」に遷座した、ということなのでしょうか。
「瑜伽」は「ヨーガ yoga」のことです。
元々は、飛鳥の鎮守だったものが、平城京にやってきて、そこで「元興寺」から「興福寺」へと関わるお寺が代わり、非常に仏教めいた「瑜伽(ゆうが)」という名前がついて、最終的に御祭神が「宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)」って……まさか、
「ゆうが」→「ゆ・うが」→「うが」→「うか」
じゃないですよね……。
えっと、まあ、わかりやすい文献が見つけられず(頼りの『大和名所図会』は、なんと「大乗院」のページが「欠」けていたのです……)、消化不良な感じは否めませんが、参拝させていただくには素敵な場所でした。
「瑜伽神社 桜」や「瑜伽神社 紅葉」で検索していただくと、驚くほど鮮やかな写真が出てきます(私の曇天下の残念な写真とは大違いです)ので、そんな季節にぜひ再訪してみたいものです。
私が参拝したときは、地元のろう学校の先生と生徒さんが、社会の授業なのか、手話で話されながら出てくるところに行きあいました。
郷土のことを知るのは、重要だ、というより、とても面白いことだと思います。
「瑜伽神社」から少し歩いたところにあった標識です。
これでもか、というくらいの文化財だらけ。
うらやましい、ですが、自分の地元にもまだまだ面白いものがあるはずなので。
旅人の羨望は置いておいて、次の目的地へ〜。
※ここのところ、奈良に限らず、文化財(神社仏閣)に「油」をかける、という事件が多発しているようです。
日本の歴史的文化財の多くは木造建築であり、様々な理由で倒壊・焼失してきました。
そのまま歴史から消えていったものもあれば、再建されたものもあります。
忘れがちですが、これらは宗教施設でもありますので、宗教的不寛容さから標的になることもあり得るでしょう(他のアジア地域や中東で、偶像破壊が行われるように)。
であれば、動機は理解できます(ただし、この「理解」には、「共感」は含まれませんので、もちろん許せません)。
木造建築に「油」をかける行為が何を意味するのか、について考え、最悪の結果を妄想して慄然とします。
誰がやっているのかわかりませんし、何か遠大な陰謀がからんでいるのかもしれませんし、単なるいたずらの可能性もありますが。
お願いだからやめてください。※