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見どころ満載「興福寺」に別れを告げ、お隣の「奈良博」(奈良国立博物館)に心ひかれながらも振り切り(「東大寺」は最初から無視する予定でしたのでまぁよしとして)。
向かったのは「氷室神社」です。
○こちら===>>>
御祭神は、神社でいただいた由緒書によれば、「大鷦鷯命(おおささぎのみこと/仁徳天皇)」、「闘鶏稲置大山主命(つげのいなぎおおやまぬしのみこと)」、「額田大仲津彦命」です。
我々世代にとって「氷室」といったら「氷室京介」氏ですね。
参道。
連続する石灯籠と、まだ色づいていない木々……今年の紅葉はあまりはっきりしなかったような気がします。
手水舎。
左の石には「鷹乃井」と彫られています(多分)。
右手奥にあるのは「鏡池」です。
四脚門。
狛犬さん。
しっかりした太い脚をされています。
土佐犬系でしょうか。
「表門・東西廊
応永九年(1402)禁裏造営の際、旧御所の日華門と御輿宿を当神社に寄付され、寛永十八年(1641)の禁裏造営の時にも日華門の扉を下賜されました。現在の四脚門の扉はこのときのものです。切妻造、本瓦葺の四脚門に翼廊が接続した禁裏御所の遺構です。」
そう言われると、なんとなくありがたいような……。
本殿。
本殿前には、拝殿(舞殿)があります。
ときどき、こうした様式の神社があります。
「諏訪大社」もそうでしたが、門(鳥居)から本殿(拝殿)への道を遮るように、拝殿(舞殿)が置かれている。
参拝者だけでなく、御祭神の導線も遮っているような造りが、「怨霊封じ」(怨霊は直進できない)なのか、「蕃塀」のような意味を持っているのか。
ただ、「御祭神が御神楽を見る」という意味では、こうした様式の方が自然と言えるのかもしれません。
本殿前にも鳥居がある、という造りが珍しいですね。
右手奥に見えるのは、末社の「舞光社」、だそうです。
駐車場わきにある「祓所」。
社殿と同じ配置になっています。
これは……なんだっけな……。
さて。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第3編
↑の64コマに「氷室社」の記事があります(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「氷室社
[寛文記]に曰く、北向荒神より西にあり。祭る所三社、中は仁徳天皇、左右は大山主命と陣那なり。[大和志]に曰く、南都四十四町の氏神とす。毎歳九月の例祀に、春日の伶人舞楽を奏す。氷室の旧趾上に見えたり。」
……うーん、短い。
ですが、ちゃんと図絵もありまして、現在の境内とほとんど変わらない姿を見ることができます。
「陣那 」ってなんでしょう、と思って検索してみると、
○こちら===>>>
↑によれば、
「(400?~480?) インドの有相唯識派の祖。漢訳名陳那(じんな)。世親の因明説を大成し,新因明を確立。著「因明正理門論」「集量論」など。」
とありました。
「興福寺」の宗派である「法相宗」に受け継がれた思想の方のようで、その関係で祀られていたのかもしれません。
神社でいただいた由緒書によれば、
「元明天皇の御世、和銅三年(170)七月二十二日、平城新都の左京、春日の御蓋の御料山(春日山)に鎮祀され、盛んに貯水を起し冷の応用を教えられた。これが平城七朝の氷室で、世に平城氷室とも御笠水室とも春日の氷室とも称された。春分の日には氷室開きと献氷の祭祀がいとなまれ、毎年四月一日より九月三十日迄平城京に氷を献上せられた。
奈良朝七代七十余年間は継続せられたが、平安遷都後はこの制度も廃止せられ、遂に百五十年を経て、清和天皇の御世、貞観二年二月一日現在の地に奉遷せられ、左右二神を増して三座とせられた。爾来、現在の春日大社の別宮に属し式年の営繕費、年中の祭礼等は、興福寺、春日社の朱印高二万石の内と社頭所禄三方楽所料二千石の一部によって行われた。明治維新後はこの制度も廃せられ、専ら氏子と冷凍氷業界の奉賛によって維持せられて今日に及んでいる。また、本殿東側には末社として、南都舞楽の楽祖なる狛光高(こまのみつたか)公を祀った舞光社(むこうしゃ)がある。」
↑とのことです。
「氷室」というのは、文字通り冬の間に氷を納めておいて、春以降に用いるための保存庫のことです。
○こちら===>>>
「矢奈比賣神社」 - べにーのGinger Booker Club
↑にも「氷室神社」があり、そこでも紹介しましたが、
『日本書紀』仁徳紀六十二年の条の要約
「額田大中津彦皇子が、闘鶏に狩りに出かけたとき、室を見つけた。闘鶏稲置大山主を呼んで訊ねると、「氷室」だと答えた。冬の間、そこに氷を置いておくと、夏になっても消えないのだ、と。皇子はその氷を献上すると、天皇は喜んだ」
という感じです。
御祭神が全て登場しています。
「氷室神社」では、「なら氷室」という冊子を発行しておられ、
○こちら===>>>
http://www.himurojinja.jp/osirase/osirase_narahimuro.html
↑を手に入れられて読まれると、より一層「氷室神社」のことがわかると思います。
参拝された際に手に入れられますので、ぜひとも。
とはいえ、なかなか参拝されるのも難しいかと思いますので、気になる内容をいくつか。
まず第2号から、「氷室社の創建伝承」について(要約)。
・「元要記」……平城遷都の和銅三年(710)御蓋山麓に社殿造立。
・「大和国造本記」……「山階坐氷室分魂神社」他「春日神社」「吉城宮野守宮神社」「元春日社」「吉城大社」「高橋神社」「春日下神社」などの呼称あり。祭神「左二宮大鷦鷯命」「中一宮相殿津気稲置大山主命・志那都彦大神」「右三宮額田大中彦命」。創建年代は大宝元年(701)で、藤原不比等が文武天皇の勅により福住から闘鶏稲置大山主命を遷座、元明天皇和銅三年に風神を遷座、聖武天皇神亀四年に内裏から大鷦鷯命と額田大中津彦命を合祀した。
ということで、主祭神は「闘鶏稲置大山主命」であり、他の神々は後から合祀されたようです。
また、建保五年(1217)に「氷室神社」の神主となった大神遠弘の「遠弘神主記」には、
「吾国貯水起源は人皇十六代難波高津宮天下治天皇御宇六十二年、闘鶏国造の苗裔稲置大山主命賜りて闘鶏野界に氷室を興し……(略)……然るに後代に至り氏人散じ、貯氷の実愈衰え、世人深くこれを嘆く事久し、今に伝えざれば遂に其業絶んことを憂ふ、是において、平城京天下治天皇御宇和銅二年勅して、闘鶏氷室を春日邑左京二坊三蓋御料山に遷し、祠を建て闘鶏大神を斎き奉り、更に諸国に此道を教え、千載の欽点を補しむものなり」
という文章があるらしく、「製氷技術を普及するために御蓋山麓に氷室を造り闘鶏大神を祀ったというもので、蔵氷技術の普及が目的であったという伝承」と、同じく「なら氷室」第2号に書かれています。
こんな便利な技術が廃れてしまうなんてことあるんでしょうか。
何か代わりになる技術が現れたりしない限りは、続いていくものだと思うのですが……何か理由があるのかも。
また、『大和名所図会』の、「毎歳九月の例祀に、春日の伶人舞楽を奏す」という記事について、由緒書には、
「例祭(十月一日)
第七四代鳥羽天皇の御代、永久五年(1117)九月一日悪疫鎮止のため始められたが、源平の乱後絶えた。順徳天皇の御代、建保五年(1217)には南都方楽所の氏神に仰ぎ、日の使も参向された。これが現在の例祭の起源である。
世に氷室の舞楽祭と称せられる通り、夜六時から十時迄と翌二日の後宴祭には、別願の舞楽と云はれる舞楽を曲数実に三十八曲を演じて終日舞楽を奉献した記録が残っている。」
↑とあります。
「なら氷室」第3号には、
「建保五年(1217)には、左方楽人の狛近真が当社の社務、右方楽人中遠弘が神主になります。そして、興福寺に属す狛姓の東・辻・上・奥・窪の五氏、藤原姓の芝氏、大神姓の中・西京・井上・喜多・新、それに、打物(太鼓・鉦鼓)専業の玉手姓の藤井氏・後藤氏(寺侍という)が氷室社の祭祀を管掌していました。『南都氷室神社縁起』にも「楽所を以て祀主となす、是故、楽所中より氷室を尊崇奉り、氏社となす」とあります。」
↑とあります。
「悪疫」を鎮めるために「舞楽」を行う、という思想は、
↑でも紹介されている『風姿花伝』の猿楽起源の伝承の影響があるのでしょうか。
「須達長者が祇園精舎を建てて、釈迦如来を供養した時、釈迦の法敵であった提婆達多が、一万人の外道(異教徒)を引き連れ、釈迦の説法を邪魔しようとして「木の枝・篠の葉に幣を附けて、踊り叫」ぶということがあったのだが、舎利弗が仏力を受け、「御後戸にて、鼓・笙鼓を調へ、阿難の才覚・舎利弗の智恵・富楼那の弁舌にて、六十六番の物まねをし給へば、外道、笛・鼓の音を聞きて、後戸に集まり、これを見て静まりぬ」ということがあった」(P8)
なんかこれ、「ハーメルンの笛吹き」にも、ちょっと似ていますよね。
音楽の持つ力、ということを言いたいのでしょうか。
他にも、「氷室神社」の旧社地とか、旧社殿とか、様々な謎に迫っている「なら氷室」……続号があれば是非とも手に入れたいものです。
妄想の入り込む余地があんまりないので、この辺りにしておきます。
こちらでいただく御朱印は、口火を切って祈祷していただいたものです。
妄想がしたいだけの輩にはもったいない話なのですが、有り難く頂戴してきました。
「興福寺」「東大寺」と近く、表の道は車通りも多い観光道路なのに、門の中に一歩入れば、喧騒から取り残されたようなしんとした空間がありました。
大きな寺社ももちろんいいのですが、こういったところもいいです……ただ、それを維持するためには、あまり人には来てほしくないのですが……紹介しておいて、行かないでねという矛盾……嗚呼。