続きです。
今は「国宝館」というところに、「西金堂」にあった仏像が展示されています。
「興福寺」といえば「阿修羅立像」と言われるほどに有名なあの仏像を中心とした「八部衆」の像もこちらに納められています。
もっと知りたい興福寺の仏たち (アート・ビギナーズ・コレクション)
- 作者: 金子啓明
- 出版社/メーカー: 東京美術
- 発売日: 2009/03/20
- メディア: 単行本
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↑の表紙にもなっています。
「三十三間堂」等に、「二十八部衆」の一部として鎮座する「八部衆」は、それぞれの元々の神性を表現したような、いかついものが多いです。
「竜王」、「夜叉王」、「迦楼羅王」などは、インド神話の神性を色濃く受け継ぎ、仏教的には「本来は仏敵、帰依して仏法の守護神」となっています。
これらは、仏教的ヒエラルキー(なんてものは、本来の仏教にはないはずなのですが、まぁそう考えるしかないので)の中では、「如来」「菩薩」「明王」にはもちろん及ばず、「諸天」と呼ばれる六道輪廻の内側に存在する「天」よりもさらに劣り、「神」扱いです。
いつかの成仏を夢見て、仏法を守護しているのでしょうか。
そんなことを思いながら、修学旅行の中高生に混じって拝観していて、もちろん「阿修羅」は大人気だったのですが、個人的には頭部と胸部以外破損してしまった「五部浄」像が印象的でした。
「興福寺」の公式HPで見ることができますので、検索してみてください。
○こちら===>>>
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第3編
↑の66コマから「興福寺」の記事があります(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き換える)。
「興福寺
南都にあり。一名山階寺といふ。いにしへ大織冠鎌子大臣、山城国宇治郡小野郷山階里陶原の家に居住し給ひし時、此辺に造営ありしより、山階寺となづけられしなり。([帝王編年集成]に出づ。旧跡は[都名所図会]に見えたり。)其時は斉明三年なり。([釈書])一説には、天智天皇即位八年、嫡室鏡女王、大織冠の御ために建てられしともあり。([御順礼記])厥後天武天皇白鳳元年、大和国高市郡厩坂にうつされて厩坂寺といひ、([盛衰記])それより元明天皇和銅三年、春日の地にうちしかへられ、淡海公御造営ありて、旧の名を改め興福寺と号し給ひぬ。春日の神宮寺として春日寺ともいふ。五重唯識の法水は、佐保川のながれたえずつたはり、四所明神の擁護は、三笠山の風萬代をよび、貝葉三千の古仏、不二門に入るの金界なり。
南大門 金剛力士の二王の像をすゑられたり。土人曰く。沢瀉門といふ。敷石に沢瀉を彫り付けたり。伽藍再建の諸堂を、一堂づつ諸国の侯に命じて造らしむ。然るに此門は、定紋沢瀉なる侯造立すといふ。
薪の能 此所にて四座の大夫毎年二月七日よりつとめて、十四日に終る。それ例式は、弘仁十二年、当寺の東金堂二十八相の花、西金堂三十二相の花、六十種の香花をかざり擁護の祖神檀実の諸神を勧請して供養せらる。此法会には、昼夜をわかたずおほくの薪をたきけるとかや。此時ものこし人来りて、西金堂の場にして舞ひかなでけるとぞ。其後清和天皇貞観六年の頃より絶えたりしが、貞観十年魔風吹き起りて、雷多く落ち、空かき曇りければ、大衆驚き、僉議まちまちにして、只是擁護の神の法会を怠りけるとがめにぞ侍りなんと、満座一同して絶えたるをおこし、西金堂の法会を南大門にうつして行はる。もろこし人舞ひかなでける旧例なればとて、能をぞつとめられき。是薪の能の濫觴なり。抑四座の役者のむかしを原ぬるに、其説まちまちなる中に、聖徳太子の臣下秦川勝に命じて六十六番の面を作らせ、紫宸殿の前にして、舞をぞつかうまつらしめ給ふ。其舞神楽のかたはらなればとて、神の字をわかちて申楽とぞ名け給ひけるとかや。堀川院の御時、内侍所の御神楽の夜、職事家綱が弟行綱、囃子物して舞ひかなでける事、[宇治拾遺]に見えたり。それより今の能になりける時代はさだかならず。
般若芝 南大門の石段の下にあり。むかし大般若経六百巻をうづまれしなりとぞ。
大峯門 南大門の西の方にひらかざる門あり。これは興福寺の衆僧大峯山へ入る時、此門より出づるなり。故に名とす。
額塚 南大門の西の脇にあり。一名茶臼山といふ。天平宝字八年五月、南大門の芝に大なる穴出来て洪水路頭に溢れ、往来もなりがたく、諸人の歎となりしかば、大衆議して占はせらるるに、南大門の月輪山の額水に縁あれば、これをおろすべしと卜者の考により、即額をおろし、此所に埋みけるとなり。」
「興福寺」でいただいた案内図によれば
「興福寺の歴史 天智天皇8年(669)に藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を安置するために、夫人の鏡女王が京都山科の私邸に建てた「山階寺」を始まりとする。その後飛鳥厩坂の地に寺を移し「厩坂寺」と称した。都が平城京に移されるに及んで、平城京左京三条七坊のこの地に移し「興福寺」と名付けた。この創建の年を和銅3年(710)とする。その後天皇や皇后、また藤原氏の人々によって次々に堂塔が建てられ整備された。奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられた。特に摂関家藤原家北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになった。平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになった。鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任にあたった。幕府による宗教政策が厳しかった江戸時代には21000余石の朱印が与えられた。明治時代初めの神仏分離令・廃仏毀釈・社寺上地令などで興福寺は荒れたが、その後の努力で復興し、新しい興福寺の歴史を刻んでいる。」
だそうです。
『大和名所図会』は寛政三年(1791)の著作です。
名所図会の中では、比較的古い部類に入ります。
「中金堂 本尊は丈六の釈迦の像なり。眉間の玉は震旦国より渡れり。玉中に世尊の影うつり給ふ。何方より拝みても面なるにより、面向不背と名けらる。又頭の中には、大織冠鎌足公髻のうちにいただき給ひし、長二寸の釈迦の銀像をこめられたり。脇士は薬上・薬王・無盡意・妙幢に四菩薩四天王をすゑられたり。」
こちらの釈迦如来は現存していません。
「東金堂 神亀元年七月、元正帝御悩の時、玉體安穏の御祈に聖武帝の御建立にて、本尊には薬師仏を安置し給ふよし[釈書]に見えたり。
西金堂 天平六年正月、光明皇后の御母橘公の氏の御為に建て給ひぬる事[水鏡]にのせたり。本尊釈迦仏。此像は印度健駄羅国王の后、生身の観世音を拝み奉らんと誓ひ給ふ枕上に化人まみえて、日本の国王の后光明子こそ生身の観音にてましませと、告あると見て夢は覚めにけり。即臣下に命じて、巧匠を日本にぞわたされける。巧匠此土につきて、斯と奏聞を経る。光明皇后我母の為に仏を造りなん、幸汝きざみて得させよ。速に釈迦の像をつくり、眉間の玉を入れなんとせしに、像自からに光明を放ち給ひしかば、信仰胸にみち、感涙袖にあまりて、玉をば入れずなりにき。当堂の本尊是なり。扨光明皇后の御かたちをうつし奉り、もろこしにかへりけるとぞ聞えし。
南円堂 本尊は不空羂索観音を安置す。三目八臂丈六にして、左の肩に鹿の皮をかけさせ給ふ尊像なり。これ春日大明神神鹿をあひし給ふ由縁とぞ聞えし。西国巡礼所第九番なり。弘仁四年藤原冬嗣公、藤氏のおとろへぬる事を歎き、弘法大師とこころを合せて、氏族繁昌をいのりの為草創ありしなり。其時春日大明神老翁と現じ、役夫にまじはりて一首うたひ給ふ。
新古今 補陀落の南の岸に堂たてて今ぞさかえん北の藤なみ
「袖中抄」には、春日明神の御使として、率河明神詠じ給ふと見えたり。補陀落山と申すは、観音の浄土にて八角の山なり。故に此堂も、八角に造れり。彼山には藤並常盤あり。淡海公の御子に南家・北家・式家・京家とて、四人の公達ましましけり。何れも藤氏なれども、次男の北家房前の御すゑ繁昌し給ふべき歌なりけり。
北円堂 本尊は弥勒仏を安置す。養老五年八月、元正・元明の両帝叡慮をひとつにして、淡海公周忌のをはりに草創ありし事[水鏡]に見えたり。」
「健駄羅国」は「ガンダーラ国」のようです。
「ガンダーラ国」からはるばるやってきた仏師が本当にいたのかどうかはわかりませんが、「阿修羅」はじめ「西金堂」の仏像たちに対する特別な視点があったことは確かなのかな、と。
「大講堂 本尊は弥陀三尊を安置す。又浄明居士の像をすゑられたり。此堂は南家の祖武智麿の女と、同二男恵美押勝など、母の菩提の為造立ありしなり。
いにしへの別の庭にあへりともけふの涙ぞなみだならまし 光源法師
白川殿七百首 維摩会をよめる
神無月時雨ふりおける御法とてならの都に残る言の葉 新大納言顕輔
五重塔 五智如来を安置す。天平二年四月、光明皇后の御建立なり。[寛文記]に曰く、塔の高さ一町に四丈のつもり、興福寺四町四方なれば十六丈なるべきに、春日社より塔高ければ、神慮を恐れて十五丈一尺なりといふ。
窪弁財天祠 弘仁年中、弘法大師天川の弁財天に参籠して、南円堂造立をいのり給ひしかば、生身の宇賀弁財天現じ給ふを、ここに勧請しけり。
一言主祠 俗に聖天宮といふ。坤の隅にあり。
おっと、出ました、「一言主祠 俗に聖天宮といふ。坤の隅にあり。」だそうです。
「一言観音」は、かつては「一言主祠」だったようです(いや、妄想ですが)。
花の井 [寛文記]に云く、東金堂の後にあり。名水なり。
彫鮒石 講堂遺跡の礎、鮒の形を彫りつけたる石あり。沢瀉門の類ならん。
藤 [寛文記]に云く、南円堂の左方にあり。左近の藤といふ。度々の火災に遭て僅に残りしを、水野石見守これを歎き、近年むかしの跡へ植ゑられしなり。
橘 [同記]に云く、同堂の南の方に、右近の橘とて名木あり。」
図絵も掲載されており、当時の「興福寺」の様子がわかります。
「西金堂」「中金堂」「講堂」「南大門」は、当時からすでに遺構しかなかったようです。
それにしては、たくさんの仏像がよくぞ残った、という感じですね。
このように、大寺院は、堂宇内の写真が撮れないもので、文章でそれを書こうにも限界があるもので、是非とも出かけていただきたい、としか言いようがなかったりします。
奈良めぐりのルートは考えたのですが、予習したわけではないので、いろいろと心残りはありますが。
ともかく、「八部衆」をこの目で見られたのはよかった!
あと一つ、御朱印をいただき忘れたようです……みなさん、ちゃんと予習してから出かけましょう(泣)。