続きです。
「北円堂」の特別拝観が行われておりました。
もっと知りたい興福寺の仏たち (アート・ビギナーズ・コレクション)
- 作者: 金子啓明
- 出版社/メーカー: 東京美術
- 発売日: 2009/03/20
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 18回
- この商品を含むブログ (2件) を見る
↑によれば(P56)、
「創建年 養老五年(721)
目的 元明太上天皇と元正天皇が、藤原不比等の一周忌に、不比等が信仰した弥勒如来を本尊に、伽藍の西の端、平城京をのぞむ高台に長屋王に命じて建立。
おもな仏像 弥勒如来、無著、世親、四天王。」
「……永承四年(1049)の火災で焼失。弥勒如来は首のみが残り再興された体躯部に据えられたが、治承四年(1180)の火災ですべての像が失われた。治承火災後の復興は、奈良時代の草創期とは異なり後回しとなる。建永二年(1207)にようやく寺家(興福寺)が実務担当者となり再建が決定。(中略)専心上人の勧進による資金調達は限界があったらしく、承元二年(1208)には寺家からの依頼で事業の主体が氏の長者に変更された。そののちの工事は比較的順調に進み、承元四年に北円堂の屋根の露盤と宝珠が取り付けられて、まもなく完成したらしい。仏像の製作にはさらに時間がかかり、建暦二年(1212)頃出来上がったとみられる。」
とのことです。
以降は難を逃れているようですので、800年近く前の堂宇を見ることができます。
「弥勒如来」という言い方がちょっと珍しいかもしれません。
↑によれば、
「慈から生れたものの意で、顕教経典の説では、現在は菩薩として兜率天で衆生を教化しているが、釈尊入滅後、56億7千万年の後に、人間の娑婆世界に下生し、龍華下で成仏し、三会の説法で、釈迦の説法に漏れた衆生を救済することを釈迦から約束されている。釈尊の代りを務める意から、一生補処の菩薩、補処の薩埵ともいい、将来必ず成仏するから未来仏・当来仏、また弥勒仏(如来)とも称する。もとは釈尊の弟子で実在の人物。中インド波羅奈国の人。釈尊が未来仏に就て説いた時に、弥勒が志願し、釈迦が授記した。弥勒信仰はインド・中国でも盛んで、わが国も伝来の初期から信仰された。殊に法相宗では初祖の弥勒菩薩(瑜伽師地論100巻の著者)が同名のため、同宗の法隆寺や興福寺などの寺院で盛んであった。」
とあります。
末世思想は宗教と不可分です(宗教は魂を縛るもの、でもあります)。
原始仏教とは異なりますが、「末法思想」というものがありまして、
「正法(仏の教えと、仏の教えを実践する修行者と、修行の結果としての悟り(成仏)がある時期)」
「像法(仏の教えと修行者はあるが、悟りがない時期)」
「末法(仏の教えだけが残っている時期)」
という時代があり、その「末法」が平安時代後期にはやってくる、と考えられていました(大陸から入ってきた計算方法によります)。
その時代が「平安」な時代ではなかったことは、歴史の教科書などを開けばお分かりかと思います。
そうすると、「救世主(メシア)待望論」が出てくるのはどこでも同じです。
未来に悟りを得る「弥勒菩薩」が重視されたのもさもありなん、でしょうか。
釈迦入滅後56億7千万年にはほど遠いんですけれど。
それまで「弥勒菩薩」は成仏すべく修行中なのです。
ま、修行中とはいえ「菩薩」ですので、衆生を救えないわけではないのでしょうが。
「殊に法相宗では初祖の弥勒菩薩(瑜伽師地論100巻の著者)が同名のため、同宗の法隆寺や興福寺などの寺院で盛んであった。」……こっちの理由の方が大きそうですね。
特別拝観中ということで、興味深く拝観。
8本の柱に囲まれた八角形の中に、こじんまりと(十分大きいのですが)仏像が並んでおり、間近で見ることができました。
写真に撮れないのが残念ですが。
一度焼失した後、再建までには苦労があったようですが、なんとなく藤原氏の栄枯盛衰を感じてしまいますね。
再建中の中金堂。
こちらは、「中金堂」と繋がる回廊跡です。
相当な構造物だったことが、基部だけでもわかります。
残っていたらなぁ……。
それにしても、修学旅行の中高生が非常につまらなそうなのがまた良かったです。
つまらなくても、見ておくことに意味があります。
こちら「東金堂」。
『もっと知りたい興福寺の仏たち』によれば(P36)、
「創建年 神亀三年(726)
目的 聖武天皇が叔母である元正太上皇后の病気回復を願い建立。薬師如来が教主である東方の浄土、浄玻璃世界をこの世に現そうとした。須弥壇に敷かれていたとされる緑釉の塼(タイル)が遺物として残る。
おもな仏像 薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王、文殊菩薩、維摩居士。」
「……本尊は薬師三尊像、平安時代初めの弘仁年間(810〜823)までに純銀の弥勒、金銅の阿弥陀三尊、維摩、文殊、観音、虚空蔵、梵天・帝釈天、四天王、金剛力士、正了智神(正了知大将)、羅睺羅、天女像が安置され、堂内の後戸(背面)には新羅伝来の釈迦三尊像があり、涅槃画像も納められていた。
その後、寛仁元年(1017)、永承元年(1046)に火災があり、永承の時に本尊が焼失した。その後本尊は巨匠・定朝が再興し、光背には多数の化仏、飛天をつけ、台座には十二神将像をあらわしていた。十二世紀の初めに大江親通が書いた『七大寺日記」にそのすばらしさが称賛されているが、現存する国宝板彫十二神将は技術的にも表現的のも抜群の出来を示しており、定朝が作った可能性もないとはいえない。
治承四年(1180)の兵火で堂は焼失し、仏像も正了知大将像と、後戸の釈迦三尊像が大破しながら残ったに過ぎない。(以下略)」
とあります。
叔母さんの病気回復を願うためだけにこんなものを建てられる、さすが「聖武天皇」、というべきでしょうか。
こちらの堂内は、広く、天井も高く、現在でも行が行われているだけに静謐としていて、非日常を作り出す効果に満ちていました。
本来の宗教というのは、日常の中に存在してこそ、のもののはずなのですが、秘密性を帯びたり、権威と結びつくことで、教化効果を狙った構造物などが増えていくような気がします。
相変わらず、写真はありません……。
ちょうど特別公開として、「東金堂後堂」を拝観することができました。
ちらしによれば、
「恒例となった興福寺国宝特別公開で、2014年秋は東金堂と、その後ろ側の空間でふだん公開されていない東金堂後堂をご覧いただけます。(略)2010年の公開時には、およそ50年ぶりに正了知大将立像(室町時代)が東金堂後堂に還座し、今年は4年ぶりの公開となります。」
↑とのこと。
「正了知大将」という聞きなれない方を拝観できたのですが、検索してみると、
○こちら===>>>
http://sakuwa.com/3-8-1.htm#silyourlyouti
↑のサイトに解説が書かれていました。
寛仁元年の火災のときに、躍り出てきたことから「踊り大将」とも言われる、仏法の守護神だそうです。
「後堂」「踊り」というキーワードから、
↑の、天台宗系の常行堂の「後戸」の守護神である「摩多羅神」をすぐに想起してしまいましたが、どうも違っていたようで……。
「正了知大将」は、戟を手にして目を見開いた武人の造形で、躍動感では四天王や十二神将には及ばないのですが(開創当時のものではなく、室町時代の再建です)、忿怒形でもない、守護神にしてはちょっとインパクトの弱いお方でした。
これは『金光明最勝王経』を読んでみないと……いけないのかな……。
いつか探ってみたいと思います。
「東金堂」越しの「五重塔」。
うーん、雨が少し降っていたせいか、思ったよりも全然写真が少ないです……。
もうちょっと続きます。