10/25。
「田縣神社」をあとにして、小牧まで出かけたのだからもう少し回ってみよう、ということで「内々(うつつ)神社」へ。
○こちら===>>>
車のナビに従って走っていったら、驚くほどの山の中に案内されて少しびっくりしました。
空気が一気にひんやり。
庭園が有名なようです(無知)。
「内々神社と日本武尊
景行天皇の御代、大和勢力が日本全国にのびる時に、日本武尊が登場してきます。尊は熱田の宮で、尾張の祖といわれる建稲種命に会われ、副将軍とされ、その妹宮簀姫命と婚約され、東国の平定に出られました。
平定が終わっての帰り道、尊は甲府から信州長野、美濃大井、釜戸、池田を通って尾張との国境内津峠にあっしかかりました。その時大へんなことが起こりました。
東海道を帰られた建稲種命が、駿河の海で水死されたことを、従者の久米八腹が早馬で知らせて来ました。それを聞かれた尊は「あの元気な稲種が……」と絶句し、しばらくして「ああ現哉(うつつかな)々々」となげかれ、その霊を祭られたのが内々神社の始めで、内々神社の前の宿場まちを内津といいます。これは内の字の下に、舟や人の集まる意味の津をつけたものです。しかし、その時祭られた場所は、ここより一キロメートル余り入った奥の院だったと思われます。
西側の街道に沿った谷川の右側に細い踏み分け道があり、それをたどったところに大きな岩くらがあります。見るからにおそろしいような鉄梯子を登ると、洞窟の中にある奥の院にお参りすることが出来ます。」
なるほど、峠でしたか……道理で結構登ってきたわけです。
そして奥の院……車が置けなさそうなので、今回は諦めました。
案内板。
気楽に行ける感じで奥の院も書かれていますが……どうなんでしょう。
参道右手の灯篭の列です。
超・逆・光。
「すべらずの松」と書かれています。
↑の春日井市HPでは、
「松と百日紅(さるすべり)が一体となっている珍しい木で、地元では「すべらずの松」と名付けて大切にしています。受験シーズンには多くの受験生で賑わっています。」
と書かれています。
「すべらずに待つ」ってことでしょうか。
立派な……杉ですかね(まっすぐ生えている木は、全部杉に見えます)。
社殿。
山間にひっそり、という風情が好ましいです。
神社でいただいたパンフレットによれば、
「この社殿の建て方は、本殿と拝殿を中間の幣殿で連結したいわゆる「権現造り」です。屋根は銅板葺で、昭和56年に桧皮葺から変更されました。
(略)
拝殿は、入母屋造りで正面中央に一間の向拝があり、軒中央の唐破風と大屋根正面中央に立ち上がる千鳥破風とが重なり、正面感が強調されています。前の正面一間は広く、中に8本の引き違い格子戸をはめ、両脇の間は舞良戸(まいらど)が引き違いとなっています。向拝と拝殿とを丸堀の竜の海老虹梁でつなぎ、拝殿の三方を擬宝珠高欄つきの縁でまわしています。また拝殿には、頭貫に沿って三十六歌仙の額が掲げられています。
近世後期に大きな足跡を残した立川建築で、立川富棟、富之、富方親子が10年余りの歳月をかけたもので、文化年間(1804〜1818)に完成しています。建築様式、彫刻の美など江戸時代後期の傾向を示すものであって、県下に現存する近世神社社殿を代表する貴重な建築物です。」
……ほえ〜、という感じです。
「千鳥破風」「正面感」「舞良戸」「丸堀の竜の海老虹梁」「擬宝珠高欄つきの縁でまわして」「頭貫」……まったくわかりません。
唐破風くらいならなんとか……ああ不勉強。
あ、案内板の写真があった。
「内々神社社殿(県指定)
内々神社の創建は古く、平安時代の延喜式に記載され、祭神には建稲種尊・日本武尊・宮簀姫命を祀る。
現在の社殿は、信州上諏訪の大工立川富棟、富之、富方の立川一門によって、文化年間(1804〜1818)に造立された。
建築様式は、本殿と拝殿を中間の幣殿で連結した、いわゆる権現造である。本殿は三間流造。拝殿は正面に一間の向拝を備え、軒中央の唐破風と大屋根の千鳥破風の重なりが正面感を強調している。
向拝の海老虹梁に代表されるように、拝殿・本殿共に細部に多くの白木の彫刻が施されており、江戸時代後期の傾向を示す代表的な神社社殿である。」
「立川一門 」……といっても故・立川談志一門とは関係ありません(当たり前)。
上諏訪の大工さんだったとは、この間まで長野に行っていたので、妙な縁を感じます。
よく考えれば、「日本武尊」が甲府から信州を巡って尾張に戻ってくるときの峠だったのですから、古来信州との導線でもあったのでしょう。
木彫りの狛犬さんがあったのですが、これはこうした狙いの造形なのか、撫でてるうちにつるつるになっちゃったのか……最初から、木の原型を生かしたものだとは思いますが。
これが「海老虹梁」ってやつですね(多分)。
ちらっと写っている額が、三十六歌仙のものだと思います。
社殿後方に庭園があるおかげで、360度から社殿を楽しめます(有難有難)。
本殿。
お見事、な流造です。
こちら庭園の池。
いただいたパンフレットによれば、
「南北朝時代の名僧、夢窓国師(1275〜1351)によって作られたものと伝えられており、国師作庭の西芳寺庭園(京都)などと同じ廻遊式林泉型のものです。
庭は社殿の裏側にあって、少しの平地と急斜面を利用し南北につくられています。神社裏山の自然の岩が巧みに取り入れられ、三大巨石、特に中央の天狗岩が高くそびえ、影向石(神仏が来臨して一時姿を現す石)をなしています。その下に丸池が掘られ、出島・中島があります。石組みといい、庭園の茂みといい、山の斜面や池畔を美しく飾っています。
戦前までは、池に70㎝を超えるような大きな真鯉が群をなして泳いでいました。また、亀もたくさんいて水辺の岩に休む姿もよくみかけられました。この亀は、内々神社の祭神、建稲種命の霊が駿河の海から亀に乗ってこられたとの伝えによるもので、古くから近在の河川で亀をとらえると、神の使いといって、お酒を飲ませてこの池に納める風習がありました。」
「夢窓国師」はよくお名前をお聞きしますが、詳しくはまったく……全国旅して歩かれている感じがします。
とはいえ、あちらこちらで、そんなに庭を作ったのか、というのも疑問ですから、夢窓流造園術(お、何か強そうだ)のようなものを伝える人たちがいたのでしょうか。
「この亀は、内々神社の祭神、建稲種命の霊が駿河の海から亀に乗ってこられた」……こんな美味しい(?)伝説があるなら、すぐさま亀をキャラクター化しますけどね、私なら(罰をかぶりますね)。
池畔にある「三峯社」。
「鶉衣「内津草」の小道
安永二年(1773年)、横井也有は七十二歳の高齢であった。内津の俳人長谷川三止(本名善正、艸人とも号す)が、鹿の鳴き声を聞きにと、しきりに来遊を勧めたので、ふと山里の景色が見たくなって、約十日間の旅をした。
前津(名古屋)の半掃庵を八月十八日午前二時過ぎに出て、大曽根を経て勝川(庄内川)を駕にのって渡り、下街道(善光寺街道)を内津へ向かって旅をした。
その道中記が「内津草」で、也有の俳文集「鶉衣」の中に記されている。
也有が道中で詠んだ句を、この小道を登りながらしのぶことにしよう。
(勝川、夜明け)
麓から しらむ夜あけや 蕎麦畑
(鳥居松、駕から出て食事)
夜と晝の 目は色かへて 鳥居松
(大泉寺、徒歩から又駕へ)
山がらの 出て又籠に もどりけり
(尻冷やし地蔵、狂歌)
尻ひやし 地蔵はここにいつまでも しりやけ猿の こころではなし
(坂下、明知、西尾)
駕たてる ところどころや 蓼の花
(内津)
名もにたり 蔦の細道 うつつ山」
当時の七十二歳ですから、かなりの高齢ですが、にもかかわらず十日間の旅に出るという元気さ、はともかく、俳句の良し悪しも私にはわかりませんが、
「尻冷やし地蔵」
がすごく気になりました。
尻を冷やす病ってなんだろう……。
この小道を登りましょう。
登り……ませんでしたねそういえば。
逆光の本殿。
流造の屋根の傾斜が美しいです。
境内末社のみなさま。
こちらも境内社の「天王社」と「福神社」。
ところで、こちら「内々神社」の隣には、「妙見寺」があります。
こちら入り口。
碑には「北辰妙見尊」の文字が彫られています。
……あまり不躾に中を覗けなかったので、どなたが祀られているのかわかりません。
○こちら===>>>
http://www.aruku88.net/tera/203kasugai/myoukenzi-ututu/index.html
↑のサイトによると、「弘法堂」のようです。
ひっそりお地蔵様。
何の祠だろうなぁ……島っぽいから「弁天様」かな。
超・絶・逆・光ですが、「恵比寿」様「大黒」様の祠です。
本堂。
「内々神社」と同じ匂いのする感じです。
紋が、普通の七曜紋だと思ったら、よく見ると星がつながっているので、「北辰」つまり北斗七星を表現しているのですね。
……あ、紋のことにもさっぱり詳しくないですから、適当に書いています。
怪しげな面発見。
お寺に置かれていた「妙見寺略縁起」によれば、
「当寺は、嘉暦年間(1326〜29)に鎮護国家・開運の祈願道場として、慈妙上人が妙見大菩薩を祭ったことがはじまりと言われています。
妙見大菩薩の御神体は、北斗七星です。北斗七星は、七曜破軍星(勝利をもたらす星)として、古くから信仰されてきました。慶長二(1597)年、豊臣秀吉は、朝鮮出兵の際に、当寺の神木を軍船の帆柱に用いました。出兵の後、秀吉は、神木料として黄金200枚を奉納しています。享和三(1803)年には、住職と氏子が、名工立川和四郎に依頼し、寺社を改造しました。これが現在の寺社になっています。
江戸時代には、当寺は尾張藩との関係が深く、藩主より名古屋城の鬼門除を任されていました。嘉永三(1850)年には、尾張大納言御病気平癒の修行を行っています。この時代の様子を物語る資料として、尾張の俳人横井也有(1702〜1783)の俳文集『鶉衣』に、内津妙見参詣記があります。この参詣で、也有は次の俳句を詠んでいます。
名も似たり蔦の細道うつつ山
杉ふかしかたじけなさに袖の露
鐘にちる葉や山寺の秋の暮れ
明治元(1868)年、明治新政府により神仏混淆の禁令が出されました。これにより、寺社は建稲種命を祭神として別に内津神社となり、御本尊妙見大菩薩は寺社内の護摩堂に移られました。この護摩堂が現在の当寺の本堂となっています。本堂には、全国的に珍しい、「翼ある竜」が彫られています。
御本尊妙見大菩薩は、開運・息災延命・家内安全・商売繁昌の霊尊であり、人々の運勢を守護すると言われています。特に当寺の御本尊は、関東秩父の妙見、九州八代の妙見とも並び、「日本三大妙見の一つ」として、多くの人々の信仰を集めてきました。」
「豊臣秀吉は、朝鮮出兵の際に、当寺の神木を軍船の帆柱に用いました。」……そんなことしたから、失敗したんじゃないの?
それはともかく、「名工立川和四郎に依頼し、寺社を改造しました。これが現在の寺社になっています。」ということで、立川一門登場。
まあ、よく考えれば江戸時代までは、寺社一体なんですから、建築様式もまた似ているて当然でして。
横井也有さんは、ええと、81歳まで生きられたようで……そりゃ72歳でも旅に出ます(御達者シルバーさんだったんですね)。
「護摩堂が現在の当寺の本堂」とはまた……ひどい扱いです。
神仏分離した以上は、よほどの大寺でない限り、「神社より格下」と扱われた……のかもしれません。
明治という時代の功罪の一つですね……神社側には神社側の理屈があるでしょうけれども。
「翼ある竜」はどこで見られたのかなぁ……。
「当寺の御本尊は、関東秩父の妙見、九州八代の妙見とも並び、「日本三大妙見の一つ」」とまで言われた(らしい)のに、今の寂れ方は……峠道が交通の主要路ではなくなったことも大きいでしょう。
近代化の功罪でしょうか。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会
↑の109コマに「内内神社」の記事があります(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き換える)。
「内内神社
同村にあり。今妙見社と称す。[延喜神名式]に春日部郡内々神社、[本国帳]に正三位内々天神とある官社なり。[集説]に今録天神在春日部郡。是小豊子建稲種命廟祠也とある如く、此命を祀れる社なり。寛平の[熱田縁起]に、日本武尊還向尾張。到篠城。進食之間、稲種公■従久米八腹策駿馬馳来。啓曰、稲種公入海亡没。日本武尊乍聞悲泣曰。現哉現哉(因現哉之詞。其地号内津。社今称天神。在春日部郡。)と見えたれば、建稲種命駿河の海にてみさご鳥を捕らんとて、あやまりて海に入り失せ給ひしを、ここに聞き給ひし故、此命の社を建てたりしが、中世妙見寺祭祀を掌りしより、混一して稲種命社とは称せず、妙見社とのみいひならひしなり。其妙見菩薩は大留村にありしを、ここにうつせるなりともいひつたへて、彼村に元妙見といへる地ありとぞ。そはいつの頃の事にか定かならず。妙見菩薩の事は、[七仏説神咒経]に、もと北辰の名なるよし見えたるを、昔諸国に、勅して祭らしめたまひき。摂津国能勢郡・伊勢国山田郡の妙見の類、今猶多く、此地にも祭りたりしを、本地垂跡といへる事より、妙見を建稲種命の本地といひならはししなり。かくて天正三年烏有にかかりて、社記悉く亡びしかば、あらぬ名を称するもうべなり。社の上なる山に、奥の院といへるありて、当社開闢の地といひならへる岩窟あり。其深さ二間ばかり、其中に小祠あり。是また建稲種命を祭る。又岩上に岩窟あり、深さ八九尺、常に清泉湧出す。此水潮の満干に随つて増減す。凡当社の神饌、此水をもて調ずといふ。俗に御鹽水と称す。扨ここに至る道路は、大石をうがちて壇とし、甚けはしくして、登る事たやすからず。又天狗岩といへるは高さ数十丈、天に聳えたる如く、奇状なり。一の鳥居は社頭よりも十余町南の方、西尾村の地境にありしが、慶長年中消失して、今は古跡のみ存せり。一説に、日本武尊の現哉とのたまひし地はここにあらず、隣村西尾の戊亥の方の山に旧跡ありて、今山王権現を祭り、古妙見といひならへりと。其是非は詳ならず。
例祭 八月十五日。車楽(だんじり)を出し、神輿渡御の行粧あり。此辺の大祭にて、大に賑合ふ。
110コマには図絵もあり、「ゴマ堂」とあるところが、今の「内津妙見」の位置関係と符合します。
『尾張国神社考』(津田正生編/平成十一年発行/ブックショップ「マイタウン」発行) によれば、
「正三位内田神社(一本作内津)天神 [集説云]篠木荘内津村(称妙見社)社僧内津山妙見寺(天台宗)司之。
[天野信景曰]本社は尾張建稲種命の廟祠(みたまや)也。小豊ノ命之子、宮簀姫之兄、而も尾張姓之祖也。
[松平君山曰]祭神建稲種命也。世俗内津妙見といふものは誤歟。案に、中古朝家の詔命ありて諸所に妙見堂と建てらるる事あり。佛氏本地垂跡の説を以、爰にも妙見菩薩を混し、既に神仏相半せしが天正三年の災にかかりて、社の記悉く灰燼となりし後、いま妙見寺といふ天台宗の寺となれり悲むべし、本社より北西に磐戸山あり、俗に奥の院と呼、相伝て当社開闢の地也といふ。
[正生曰]山の頂上に大なる巌ありて、指出たる破目に小祠を立、下より階梯をかけて登りて拝礼爲、此處も又建稲種命を祀るといふ(後の事なるべし) 廻りて巌上にのぼれば、小き窪穴二三有深様六七寸、水すこし有。一説に潮の満干によりて増減ありといへり。
[熱田寛平縁起曰]倭武尊東夷を平定て後、建稲種命と道を異てのほり給ふに、上毛野信濃三野路を歴て尾張に向給ふに、篠城に到まして御食を進召の間、建稲種ノ命の僕従、久米八腹といふ者、駿足に策(むち)うちて馳来告云、我主建稲種するがの国よりおいて、沖の覚賀鳥(みさご)を捕へむと小舟に棹さし出て、過て海に沈みて身亡給ひぬと告武尊聞給ひ乍(たちまち)嘆息して詔く現哉(うつつや)云々 と仍て其地をよびて字津津と号。其縁也。又其所より越給ふに既に夜はあけたり。故に其地を明知と呼、少行て仮殿を営て休ひ給へり。其地を号て神屋をいふと見ゆ。
[正生考]寛平縁起は、尾張ノ守村椙ぬしの作文にして、学者の信敬ところの縁起なれとも、付会の句々なきにあらず字津津、阿計知、加儀也の地名は付会にして今は不取、其うちにも神屋はさもあるへき歟。案に内津は外原村(南方在)に対たる地名なるべし。明知は朱土のいひ也。委く尾張地名考に辨ぬれは爰に省きぬ。」
ということです。
要するに、「熱田神宮」の縁起に書かれている伝説が元になっている、ということですが、これは「寛平(9世紀後半)」に書かれたとされていますが、おそらく鎌倉時代の作ではないかと考えられているようです。
他の文献が全然出てこず、これ一本に頼っているところがちょっと弱いでしょうか
(『尾張国風土記』が残っていれば……)。
少なくとも、『延喜式神名帳』には「内々神社」の名がありますので、古いです。
その後、天台宗の勃興とともに、なぜか「妙見寺」と習合していったというのがよくわかりません。
「妙見菩薩」と「建稲種命」には共通点がね……まぁ、本地垂跡なんていい加減なこじつけだったりしますが。
山深い中にあった「内々神社」が、「妙見信仰」の修行場にあっていた、くらいの理由ではないでしょうか。
さてさて。
私実は、「宮簀姫による日本武尊殺人事件」というのを妄想しておりまして。
○こちら===>>>
「氷上姉子神社」 - べにーのGinger Booker Club
その動機の一つとして、「宮簀姫」の兄である
「建稲種命」謀殺事件
があったのではないか、と今回「内々神社」を訪れて妄想しました。
伝説によれば、「建稲種命」は、駿河の国で、「覚賀鳥(かくかのとり/みさごのこと)」を捕まえようと船を出して、誤って海に転落してしまったとのことです。
↑の「景行天皇紀」53年条には、
「冬十月に、上総国に至りて、海路より淡水門を渡りたまふ。是の時に、覚賀鳥の声聞ゆ。其の鳥の形を見さむと欲して、尋ねて海の中に出でます。仍りて白蛤(うむぎ)を得たまふ。是に、膳臣の遠祖、名は磐鹿六鴈、蒲を以て手繦にして、白蛤を膾に為りて進る。故、六鴈臣の功を美めて、膳大伴部を賜ふ。」
という記事があります。
「景行天皇」が、「覚賀鳥」を求めて海に出たら、「白蛤」を手に入れた、というお話です(実際に天皇自らが海に出るとは考え難いですので、家臣がやったんでしょうけれども)。
「建稲種命」が「覚賀鳥」を求めて海に出る、というのは、この記事を原型にしているのではないか、と思います。
このときの「景行天皇」は、亡くなった「日本武尊」を偲んでの旅の途中なのです。
ただ、そうなると「熱田神宮」寛平縁起の作者が、『日本書紀』を読めたかどうか、が問題になりますが。
あるいは、同様の説話はあちこちにあったのかもしれません。
「覚賀鳥」、「みさご」という鳥は、wikipediaによれば、「魚鷹」といわれて、魚を捕食するようです。
○こちら===>>>
「みさご」を求めて海に出ると何かを得る、というのは、「みさご」が捕まえるはずの獲物が手に入るとか、「みさご」が捕まえてどこかに残しておいた獲物が手に入るとか、そういった類の説話なのではないでしょうか。
ところが、「建稲種命」は、海に落ちて亡くなっています。
尾張氏の祖「乎止与命」(「建稲種命」「宮簀姫」の父)の本拠地とされた「氷上姉子神社」のあった辺りは海に近く、「熱田神宮」があるのは「年魚市潟」と呼ばれていた干潟です。
つまり、尾張氏というのは、「海の民」なのです。
その王子である「建稲種命」がですね、「みさご」を捕まえるために自分で海に出て、落ちて死ぬと思いますか?
そもそも、「景行天皇」の↑の逸話ではないですが、尾張氏の王子で、ついでに「日本武尊」の副将軍とまでされているのに、自分で小舟を漕ぎだすのもおかしな話だと思います。
一緒に舟に乗っていた輩がいてですね、そいつが「建稲種命」を海に落とした。
「海の民」であるということは、おそらく泳ぎも達者だったはずなので、溺死ではなく、「殺されてから、海に落とされた」ものと思います。
やったのは、「日本武尊」直属の誰かでしょうね。
もちろん、尾張氏を完全に勢力下に置くため、です。
その後、「久米八腹」という人が、内津峠で待つ「日本武尊」の元に派遣されています。
伝説では、「久米八腹」の報告を聞いた「日本武尊」は、「建稲種命」の死を嘆いて、「現哉々々」と言ったとされていますが。
このとき派遣された「久米八腹」という人物がまた怪しくてですね。
「宮簀姫」を祀る「氷上姉子神社」の社家は「久米」なんですね。
また、「膳夫」として「日本武尊」に従った「七束脛(ななつかはぎ)」という人は、「久米直」の祖先とされています。
以前も書きましたが、「七束脛」というような呼称は、「足が長く見える」という意味で、どちらかといえば「まつろわぬ民」に向けての呼び方です。
つまり、「七束脛」に代表される「久米氏」は、実際には尾張氏派、「建稲種命」一派だったのではないでしょうか。
そう考えると、「久米八腹」が「日本武尊」の元に向かったのは、「建稲種命」の死を報告するときの、「日本武尊」の反応を見るためではなかったのか。
そして、「建稲種命」殺しの主犯を、「日本武尊」だと確信するような何かがあった。
「久米八腹」は、「宮簀姫」と「七束脛」に報告する。
かくて、「日本武尊」は、「宮簀姫」と「七束脛」に毒殺された。
そう考えると、「うつつ」と口走ったのは「久米八腹」なのかもしれませんね。
「日本武尊」が自分の主君謀殺の主犯だと確信し、「これが現実か」と。
という妄想です。
いやぁ、古代史って妄想し放題ですね。
御朱印をいただこうと思いましたが、神職が不在だったようで。
残念。