さて。
「諏訪大社」について、いろいろな側面から妄想してみたいと思いますが。
まずは社殿について。
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「諏訪大社・上社本宮」(2) - べにーのGinger Booker Club
↑の記事中でも、社叢についての案内板を引用していますが、天保年間(1800年代前半)に「上社本宮」の社叢については改築されているようです。
ということで、それ以前の社殿の様子について知りたいのですが、いろいろ検索してみても絵図等は残っていないようです。
個人的に、素敵サイトだと思っている『信州デジくら』さんで検索していたら、いくつか、江戸時代以降の絵図が発見できたので、引用してみます。
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また、
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↑の5コマ目にも図絵があります。
『国弊中社信濃国諏訪上社図』は、国弊中社とついているので明治時代のものです。
上の2つは恐らく、江戸時代のものかと思いますが、天保年間以前かどうかがわかりません。
『木曽路名所図会』は、どうやら1805年の制作のようなので、一番古いのかも。
図面ではないので、それぞれデフォルメをされているのですが、基本的な構造については、現在と大きく変わらないことがわかります。
今でいう「拝殿」「幣殿」が「本殿」と書かれたりしていますが。
(恐らく)正面から入ると、南に向っていくのですが、「幣殿」「拝殿」の前でくるっと九十度東を向いて参拝する、という構造です。
現在では「斎庭」とされて、一般の参拝者が入れない場所も、『木曽路名所図会』では「幣殿」「拝殿」前まで入ることができるのがわかります。
「斎庭」にある「遥拝所」は、江戸時代にはなかったようです。
で、今でも「摂末社遥拝所」とされているところは、江戸時代にはあったようです。
近代、例えば廃仏毀釈の影響で、近隣の摂末社が集められてあんな風になっちゃった、というわけではない……この理由ならわかるんですが、やっぱり、「摂末社」の遥拝所が、こんなにずらりと並べられているということに違和感を感じます。
……と思っていたのですが。
我らがwikipediaによると、
本宮にはこれらの神々を遥拝する遥拝所があり、朝夕に遥拝が行われる。遥拝所は文政11年(1828年)造営。
という記述がありました。
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……ああ、「今の」遥拝所が、ということであって、もともと遥拝所があったかどうか、という話ではないんですね。
ということで、「遥拝所がいつからあったのか」ご存知の方はお知らせ願いたいものです。
どうやら、現存最古の絵図は、「神長官守矢史料館」にあるようで、
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↑のすぐれた素敵サイトでも確認できます。
こちらを見ると……どうにもこうにも、現在の様子とは全く違った「上社本宮」が見られます。
この頃にはやはり、「摂末社遥拝所」はなかったということでしょうか……。
うーん……。
続いて、「諏訪造」という社殿形式について。
wikipediaでは、
拝殿の後ろに幣殿、左右に片拝殿が続く「諏訪造」と呼ばれる独自配置で、いずれも重要文化財に指定。
となっています。
で、個人的に、誰か指摘しているのか、指摘していないのか、「神楽殿」の置き場所が独特ではないかな、と思っています。
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↑こちらは「下社」の絵図です。
『木曽路名所図会』にも「下社」の絵図があります。
これらでは、鳥居と「幣拝殿」の間、参道のほぼど真ん中に「神楽殿」が建っています。
これって「上社本宮」ではどうなのかな……と思いまして。
↑の方で紹介している絵図では、「幣殿」「拝殿」の正面ではなく、今でいう「四脚門」のほぼ正面に「神楽殿」があります。
自分の記事を読むだけではよくわかりませんが(何しろ、位置関係をまったく書いていないので)、
↑この案内図(赤い矢印の下)にも「神楽殿」が描かれています。
うーんと……これがよくわからないんですよね、個人的に。
土地(広さ)の制約でこの位置になったわけではないと思うのです(こう言っては何ですが、どう考えたって土地は余っています)。
何かしらの建築思想があると思うのですが、うーん……。
そもそも、「上社」のこの、よくわからない社殿配置からして謎なのですが。
「上社」と「下社」との違いは、
・「上社」……「幣殿」「拝殿」と「神楽殿」は正対していない。
・「下社」……「幣拝殿」と「神楽殿」は正対している。
です。
「神楽殿」というのは、文字通り「お神楽を奉納するためのところ」です。
この場合、そのお神楽を見るのは誰か、というと、「祭神」ですよね。
多くの神社では、そこまで考えた社殿配置になっていないような気もしますが、とりあえずそういうことにしていただくと。
「下社」の方は恐らく、「祭神」に対してお神楽を見せるような配置にしてある。
一方で、「上社」は、「幣殿」「拝殿」と「神楽殿」の位置は直角ですので、少なくとも「幣殿」「拝殿」の向こう側の神域にいる(とされる)「祭神」は、奉納されているお神楽を見ることができません。
見ているのは、「四脚門」の向こう側、御神体とされる山です。
つまり、「上社」の「祭神」は、やはり「幣殿」「拝殿」の向こう側の神域にいる神ではないのです。
妄想甚だしいですか?
「下社」の「神楽殿」には、立派な注連縄が飾られていました。
「上社」の「神楽殿」にはなかったと思います。
多分ですが、「出雲大社」の「神楽殿」の注連縄に触発されてああなったんじゃないでしょうか(↑の『国弊中社信濃国諏訪下社絵図』には、注連縄は描かれていません)。
いえ、わかりません。
参道のど真ん中に「神楽殿」が建っている、というのは、いわゆる「蕃塀」の役割ではなく、やはりお神楽を「祭神」に見ていただくためなのではないか、と思います。
この社殿配置が成立したのが、江戸時代にしか遡れない、というのがなかなか悩ましいのですが……「事実を知っている誰かが、後世に伝えるためにそうした」という、都合のいいことを妄想しておきます。
さて、では「上社」の神域にいるはずの神、というのはどなた様なのでしょうか。
「上社」の御神体は、「守屋山」とされています。
「四脚門」と「宝殿」の配置から、本来そちらが参拝方向だったのではないか、と考えられます。
「神楽殿」の位置とも符合します。
ですから、正式な祭神は「守屋山」そのものかその化身なのだと思います。
以前の記事でも書きましたが、高田崇史式「怨霊の見分け方」によれば、参拝者が参道で直角に曲っているわけですから、神域にいらっしゃるのはやはり「怨霊」なのではないか、と。
とするとですね、「建御名方神」というのは、「守屋山」の神なのか、「怨霊」なのか、どちらなのでしょう。
うーん……。
頭が痛くなってきたので、続きます。