9/24。
「八劔神社」から諏訪駅前の駐車場まで戻り、「足長神社」へ向います。
地図によれば、車で10分程でしょうか。
ナビ通りに進んでも、それっぽいところが見つからず、山の中に案内され、行き止まりっぽかったので引き返そうかと思ったら、
こんなの見つけました。
空いたスペースに車をとめさせていただき、スマートフォンのナビを頼りに道を下りていくと、
ここっぽいです。
信州、山の国、のぼってものぼっても階段を上らされるのですね。
野趣溢れる御出迎え。
杉の木は、鳥居の代わりでしょうか。
「足長神社本殿
この本殿は、拝殿より一段高い場所にあって拝殿とは後補による渡廊によって結ばれている。
この社殿の特徴は建築意匠にある。木鼻はいずれも拳鼻で、獏、唐獅子などの写実的なものになっていない。蟇股も板蟇股の中央に彫刻化する過程にみる絵様的彫り出しである。脇障子に至っては、竹に小鳥を配した線彫りに近いものである。
以上建築様式からみて、江戸後期、彫刻意匠の風靡する前の時代の建築物で、社額裏面の延享四年(1747)の墨書などからして、十八世紀の建造物と考えられる。」
拝殿を向って左側から。
手前に石祠がたくさん。
山を背負っている関係で、本殿を覗き見ることも困難でしたので、写真としてはこれだけ……。
というか、撮影し忘れてないだろうか……。
「足長神社拝殿・舞屋
祭神は足摩乳神で、上桑原村の産土神として崇敬されてきた。拝殿は天保十三年(1842)大隅流の大工矢崎専司らによって建造された。桁行一間(3.8メートル)梁間二間(3.1メートル)五棟造で三方に切目縁をまわし、擬宝珠高欄をつける。
木鼻に唐獅子、欄間に竜・鷹・鶴、脇障子に麒麟・鳳凰、内部扉の両脇羽目に竜、その他各所に彫刻がついている。
舞屋(神楽殿)は、文久二年(1862)石田房吉らによって建造された。間口五、七間(10.3メートル)奥行三、五間(6.4メートル)、正面開口部上に大きな虹梁を渡し、その上に竜、獏などの彫刻を置き、木鼻は獅子の彫物とする。」
もう逆光がひどくて……なかなかの構造物なので、きちんと撮影したかったです。
見る限り、屋根は新しそうでした。
ずんぐりな感じがいいです。
何故か、舞屋のほうに「足長大明神」の扁額が。
さて、「手長神社」のご神職さんよりお教えいただき、三つの神社を廻ってきました。
「諏訪大社」とは縁の深い神社、ということになっているようですが、それがいつの頃からなのかはわからないのが実際のところ(社記などを拝見できれば、もう少しいろいろわかりそうですが)。
↑はGoogleマップのスクリーンショットに、三つの神社(と、もう一つ)をポイントしてみました。
「八劔神社」は、もともとその左の方にある現・高島公園にあった「高島城」付近に鎮座していたようです。
「高島城」は、「浮城」とも呼ばれていたように、諏訪湖に突き出して建てられていましたが、近年に周辺が埋め立てられてしまったようです。
◯こちら===>>>
↑によれば、「高島城」はもともと茶臼山にあり、16世紀後半に現・高島公園に新しい「高島城」を築いたとのこと。
茶臼山は、「手長神社」の住所地でもあり、↑↑の地図でいうと「手長神社」の右手になります。
「足長神社」は、↑↑の地図の右下のほうですが、その辺りが元々桑原村で、「足長神社」のある山には「桑原城」というお城があったそうです。
◯こちら===>>>
「手長神社」も「足長神社」も城と縁があるのが意味深、というべきなのか。
あるいは、単なる地理的な条件なのかもしれません。
諏訪湖の面積が現在よりもかなり広かった(今、平地として広がっている辺りは湖だった、とも)ようなので、居住のためには山腹に建物を建てるしかなかった時代があったと思われます。
その名残で、神社も城も集落も、山腹にあるだけ、なのかも。
さてさて。
◯こちら===>>>
↑は、安政年間(1854〜60)に書かれたもののようです。
こちらから引用(旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き換える)。
活字ではないので、間違いにはご容赦ください。
54コマから。
「外社
八剣大明神 在小田和村
此は祭神村雲神剣神鏡七面合て称八剣よし也上代は此地■■■ぬとて■■遷し■■■■■■■■
足長大明神 在上桑原郷
手長大明神 在下桑原郷
此は謹みて考るに祭神足長椎神手長椎神也(略)老夫足名椎神を稲田宮主須賀之八耳神と称へて其宮の首と為し給ひき須佐之男命櫛名田姫と御合まして生ませる御子八島士奴美神也五代の御子大国主神也其御子即建御名方神也故足長椎手長椎神を祭る■■右の如し深き故所以て村雲剣■■所祭り■■へし此剣は後に草薙剣と称て今尾張国熱田に坐す大神是也故此神殿の御霊代の剣を斎て八劔大明神として祭りたるなるへし鏡七面合て八剣と申は■■■■■■若くは敬剣(さやつるき)の略称し■■■■■此神篤く高嶋に祭りしを天正十九年今の城郭を日根野織部正高盛築■■時引■し也其■今に八剣■■と呼ぶ■■■しを下桑原の■中槻の大樹の本に仮の鎮座を■■■■■■今坐■■■■■諏方因幡守頼水朝臣上毛■総社より復古の後今の地に社を定て城郭の鎮守と斎きまつる■■■■説■■信■■■故其産子■■■■■■住■■なりて又其地に■■しまつるなりと今此大塩村に■鎮座■■■と聞えたり」
ふう……後半はほとんど読めていませんが。
文中略したのは『古事記』の「八岐大蛇退治」に書かれている部分ですので、そちらを参考に。
要するに、「諏訪大神=建御名方神の祖先なので、足名椎・手名椎を祀っている」「八剣は、草薙剣と鏡七面を祀っているけれど、何故八剣大明神なのかは?、ひょっとして「さやつるぎ」の略じゃないか」ということでしょうか。
鎮座の理由はよくわかりません。
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 諏訪史料叢書. 巻26
↑の中に「守矢家諸記録類」という史料があります。
「守矢家」というのは、「諏訪大社」の「神長官」という役職を世襲した一族のことで、その話だけで本が書けてしまうので、とにかく「諏訪大社」に関わる重大な人達だとお考えください。
その中に「上中下十三所造営」というのがありまして(「十三所」というのは、「諏訪大社」の摂社のこと、だと思います)。
33コマから、
「下十三所
八劔 辯才天 ウン
安芸伊筑島同体御神也夫大海中仏世々御袈裟有之然魔王競来成室之時彼名神切払之守護給也誠以江河鱗結縁成仏皆是当社之利生也 又見目者見旨(七日カ)路外之事給故欲為悪而障碍之時彼社震動矣仍御造営之時者懸海中船別■建立之
(略)
鷺宮 大威徳 手長大明神
此御神者七日路遠江出御手給也 御造営下桑原之役
荻宮 文殊 足長大明神 マン
彼御神者七日路一足仁行給也
御造営取上桑原田別銭奉造之(略)」
いつの文書か不明なのですが、天文年間(16世紀半ば)よりは多少は古いと思われます。
「八劔神社」が「弁才天」に習合したのは、新「高島城」のあった辺り、島(中州)の上に元々お社があったからでしょう。
「御渡り拝観」を特殊神事として行っている以上、水に関係する神と考えられ、しかも島の上にあった、ということからの連想かと。
魔王を切り払った、ということから「八劔神社」でもおかしくないじゃないか、といいたいようですが、少々無理のある後付けかと思います。
ということは、ますます「何故、剣の神/武神が、「御渡り」を見張っているのか」がわかりません。
「手長神社」のほうはよくわからないのですが、多分「七日はかかる遠江に手が届く」くらいに手が長い、ということではないかと。
「大威徳明王」は、五大明王のお一人で西方守護、六頭六臂六足の異形で、元々は「ヤーマンタカ」つまり「閻魔を降伏する」という意味を持っています。
「足長神社」も、「七日の道を一足で行ってしまう」と。
「文殊菩薩」は知恵を司るとされる方です。
「大威徳明王」と「文殊菩薩」はともに、「阿弥陀如来」の輪身で、かつ「大威徳明王」は普通の仏様にはない特徴、「六臂六足」があることから、「手長」「足長」との連想で本地仏になったのではないでしょうか。
◯こちら===>>>
↑の論文で取り上げられている「諏訪上社物忌令之事」の中にも、「劔明神(弁才天)」「鷺宮明神(手長・大威徳)」「荻宮明神(足長・文殊)」という箇所が見られます。
この史料は、嘉禎三年(1237)のものだということなので、これ以前から「手長」「足長」の宮はあった、ということになります。
「八劔神社」はちょっと、何とも言えませんね……。
さてさてさて。
今回、完全に行き忘れた神社に「先宮神社」というところがありまして(本当に、下調べは重要です)。
◯こちら===>>>
↑↑↑で掲載した地図の、一番上にポイントしてあります。
参拝してもいないのに、詳しくご紹介するわけにはまいりませんが、
◯こちら===>>>
http://www.8tree.com/jinjya/suwa/suwa_jinjya.htm
↑紹介されていたHPに、「諏訪」のお社の一覧(に近いもの)が掲載されていたので、「手長神社」「八劔神社」の境内社の名前などを知りたい場合には便利かもしれないです。
「先宮神社」は、場所的にも、遷座したことがなければ、古い神社なのではないかと思います。
さてさてさてさて。
◯こちら===>>>
最後はwikipedia頼み、なんです。
「足長神社」の項目で、
「祭神 脚摩乳命
「手長神社」の項目で、
別名を「手長彦神」といい、諏訪大社の祭神・建御名方神に随従する神。建御名方神が諏訪大社に祀られる以前からこの地で信仰されていた神とされる。
とあります。
「足長彦神」はともかく、「手長彦神」だと性別までかわっちゃいますけれど……出典が書かれていないので、やや怪しいかと。
歴史については、
『諏訪史跡要項』によれば、桑原地域一帯が1つの郷であった頃は足長并・手長の両神を合祭していた。のちに上桑原・下桑原に分れた時、各地域住民の鎮守産土神として足長神を上桑原、手長神を下桑原に分祭したとされる。しかし、足長神社の鎮座する地名は足長山であり、また『諏訪資料叢書集録』・『神長本諏方上社物忌令之事下十三所名帳』の地名と思しき箇所に手長・足長がある事など、先に地名があった所へ記紀神話の脚摩乳・手摩乳を持ち込んだ可能性もあり、合祭・分祭については不明確である。
大同年間(806年-810年)には御表衣祝有員(みそぎほうりありかず、諏訪大社上社大祝の祖)が当社を崇敬して広大な社殿を造営した。以後は諏訪大社の末社に列した。
創建の由諸は不明であるが、境内の近くには旧石器時代・古墳時代の複合遺跡である手長丘遺跡が、境内上方には茶臼山古墳群があり、周辺には古代から人が住んでいた。
古くは「手長宮」・「手長大明神」と称され、諏訪大社の末社であった。
元は桑原郷の総鎮守で、足摩乳命とともに祀られていた。のちに鎌倉時代に桑原郷が上桑原と下桑原に分けられたとき、下桑原に手摩乳命を祀る手長神社が作られ、上桑原の足長神社とともにそれぞれの鎮守となったとされる。
「桑原郷」の総鎮守だった「手長」「足長」が、「上桑原」「下桑原」にわけられるので、「手長」と「足長」をわけました、という話です。
それ、絶対やっちゃいけないんじゃないですか?
と思ったのは私だけでしょうか?
「手摩乳命」「足摩乳命」なのか、あるいは別の「手長」「足長」だったのかはわかりませんが、「一対」でお祀りすることに意味があるはずなんですが。
時代が新しくなれば、「足の神様」ということで「足摩乳命」だけを勧請する、というのはあるでしょうが。
分けなければいけない理由があったのでしょうか。
また、↑のほうの引用で、「鷺宮」(「手長」)、「荻宮」(「足長」)とあるのですが、この「鷺宮」のほうが、「先宮神社」のことじゃないのか、という説があるようで。
つまり、今の「手長神社」と、文献に出てくる「鷺宮」は別じゃないのか、と。
うーん……ここまでくると、史料が絶対的に足りないので、よそ者ではなんともなりません。
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 日本伝説叢書. 信濃の巻
最後に、ほのぼのとした引用を。
「上諏訪町の手長神社の祭神は、諏訪明神の家来で、手長足長と呼ばれてゐる大男(でいらぼちとも呼ばれてゐる)で、此神領地に、数箇所の水溜のあるのは、手長足長の足跡の凹地に水が溜まつたのだと言われてゐる(略)」
「手長」「足長」、一人になっちゃいました。
「手長足長」。
「てながあしなが」。
姓名みたいですね。
口伝で残っているということは、比較的近代に生まれたお話の可能性もあります。
ところで、「手長」「足長」といえば、
◯こちら===>>>
↑こんなのもご覧になると楽しいかと。
朝廷にとって、「地面に穴を掘って住んでいた」り、「何か、手や足が長い(長く見える)」のは、「まつろわぬ」つまり「悪神」だったのです。
「長髄彦」も、「脚が長かった」からそう呼ばれたのではないか、と言われたりしています。
そして、これらを産土神としてお祀りしている人達は、そういった「まつろわぬ神」の末裔。
諏訪の「手長神社」、「足長神社」は、「諏訪大神」の配下になることで生き残った、と考えるべきか。
「諏訪大神」が亡ぼせなかった、と考えるべきか。
いずれにしても、賑わう「諏訪大社」とは隔絶した場所で、地域の人々を見守っていらっしゃいました。
「足長丘公園」の光景です。
んー、ワンダーランド。
あ、あと。
個人的に言っておきたいセリフがあるもので。
「足長の神の復活だ!!」
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