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「諏訪大社」は?
というもっともな疑問は置き去りに、「手長神社」です。
◯こちら===>>>
公式HPではありませんが。
「下社秋宮」から、「上社」へ向おうと思って地図を検索していたら発見してしまったもので。
「手長」と来たら「手長足長」、行かないわけにはまいりません。
諏訪駅近くの駐車場に車を入れ、徒歩で20分程。
スマートフォンのナビを頼りに行ってみました。
旧県社です。
「ゆうパック」の幟が、神社の物かと思ってしまいます。
ここを進めと。
石灯籠もかなりの大きさです(車との比較)。
えっ……と……。
昨日の寺巡りで、結構な筋肉痛なんですけど?
上りますよ、ええ上ります。
まだまだ……。
というか、学校ですか?
すぐ隣に、上諏訪中学校があるようです。
到着……(汗)……。
いや、これは、一見して素晴らしい。
ワンダーランドの予感が。
「下桑原鎮守 手長神社 御由緒
手長神社は中世には下桑原鎮守と知られ、近世には高嶋の浮城の鬼門鎮護の神と崇敬された。古く手長宮と称し、御祭神は手摩乳命(てなづちのみこと)と申しあげる。氏子は手長さまと親しみ、諏訪大神の曾祖母様と言い伝える。
早くも中世には辰野町羽場に分社が勧請され、崇敬は重厚にして広大。
匠事芸事全般を守護され子育て万物育成に霊験あらたかにして、奇稲田姫との御神縁から稲を愛される。
神域の手長の森は市天然記念物、拝殿は立川和四郎冨棟作で、旧本殿と共に市文化財。境内に神氣横溢。
八朔祭 夕祭 九月十四日
例祭 九月十五日
二の祭 九月十六日
式年造営御柱祭
寅と申の年毎に御柱曳き建て造営を執行」
「手摩乳命」は、いわゆる「八岐大蛇退治」で登場する、「奇稲田姫命」の母神です。
ですから、「建御名方神」即ち「諏訪大神の曾祖母様」となるわけです。
実際のところ、「大国主神」は、「素戔嗚尊」の御子神かどうか、については諸説ありますが。
「立川和四郎」という名前は、「諏訪大社・下社」でも出てきました。
こちらは何代目なのかがわかりませんが。
いい感じの寂びた鳥居。
一段上がった右手に神楽殿。
その奥に中学校が見えますが……この日は平日、あやしいおっさんが神社をうろついているので、通報されたらどうしようかと思いました。
まだ上れと……(苦)。
しかし、ここに神社を置いた人は、見せ方をよく心得ていたものと思います。
いい絵です。
左手。
奥には社務所等。
どーんと拝殿。
いや、弊拝殿でしょうか。
様式は「諏訪大社下社」と同様のように思われます。
「手長宮」の扁額。
向って右手から撮影。
片拝殿も含めた造形は、やはり強固な感じがします。
ここから末社ワンダーランドの開幕です。
向って右手に進んでいくと、
真ん中は「弥栄神社」。
「手長神社」の旧社殿と伝わっているようです。
向って右は「松尾神社」でした。
「龍神社」。
小さな祠。
「御頭御社宮司社」。
読み方がわかりませんでしたが、「おんとうみしゃぐじしゃ」ではないかと思われます。
「ミシャグチ神」は、諏訪の大地主神と考えられています。
祠、祠、祠。
「大國主大神」の碑。
「冨士浅間大神」の碑。
「伊雑皇太神」の碑。
「伊勢」じゃなくて「伊雑」なのは、何か意味があるのでしょうか。
祠〜。
祠〜。
「白山宮」。
「鹽竃大明神」。
「高尾穂見神社」。
いやあ、くらくらします。
よく集めた、という感じです。
神社でいただいた『てながの杜』という機関紙によれば、
「手長神社の境内には四十余の末社がある。その多くは明治三十九年の神社合祀令により、同四十一年ころ境内に遷された祠である。左片拝殿右側の脇に氏子区域内、和泉町区の「神明社」がある。続いて「彌栄神社」(旧手長神社本殿・諏訪市文化財)、諏訪酒造組合の「松尾社」、龍神講の「龍神社」、そこから一段下がった所に赤羽根区の「大国神社」、精進湯の石祠、榊町区の「御頭御社宮司社」、上町・中町両区の「高尾穂見神社」「塩釜社」、中村区の「白山社」、以下いくつかの祝神、柳町区の「御頭御社宮司社」をはじめ、今となっては社名や祭神名、祭り主のわからない小祠が並んでいる。その中でも小さいながらも立派な四本の御柱が建っているものは、祀る主体としての氏族や祭祀組織の存在を察することができるが、把握できているものは少ない。」(p2)
ということです。
◯こちら===>>>
↑のページで、「神社合祀令」の簡潔なまとめが書かれています。
江戸末期の『〜名所図会』などの図絵を見ていただければわかると思いますが、大きな神社や寺の境内には、小さな社や祠が祀られています。
その他、街角の小祠なども含めれば、そこら中に神社があった、ということが想像できます。
その多くを廃して統合しよう、という動きがあったわけです。
「市民革命」→「国民国家」というのは、基本的(表面的)には特権階級を排除する方向へ進みます。
貴族もいましたが、「教会の免税特権を奪うこと」も重要でした(中世以来、教会、大司教座教会などは、宗教権威というだけでなく、実際に有力な封建領主でもありました)。
日本の明治維新は、侍が自分たちの身分を「殺す」ことになる、という非常に奇妙な形の近代化運動です。
当然、「宗教をどうするか」という方向に進みます。
結果、「神仏分離」「廃仏毀釈」ときて、「神社合祀」(突き進めば「共産主義」「全体主義」の宗教権威の抹殺まで行きますが、多くの国では、ロシアでさえ、そこまではいきませんでした)。
現代から見れば、何て乱暴な、と思いますが、「近代国家」を叩き上げるには必要なことだったのかもしれません。
拝殿左手の回廊。
向って左手からの撮影。
弊拝殿の左に少しだけ神明造っぽい建物が見えます。
どうやら本殿のようです。
御柱と、杉の木と。
さて、結構堪能しながら、スマートフォンでGoogleマップを見ると近くに「聖徳神社」があるらしいけれどどこだろうなどと思いつつ、社務所にて御朱印をいただきました。
神職さんが、「他の二つのお社の御朱印もこちらで受け付けていますが、ご参拝されますか?」とおっしゃいまして。
他の二つ?
もちろん知りませんでしたが、もちろん「参拝する予定です」とお答えして、三ついただいてしまいました。
さあ、お参りしないわけにはまいりません。
というわけで、「諏訪大社」から横道にそれることに相成りました。
行き当たりばったりの旅です。