前回の続き。
◯こちら===>>>
境内を廻ってみたいと思います。
「道具塚(護法塚)
本堂正面の左右にある大きな石の下には、現本堂の再建工事の際に使われた大工道具が埋められています。向かって右の石を「山王塚」、左を「護法塚」といいます。」
使えなくなった道具を供養する、というのは様々な道具で行われています(庖丁、筆、眼鏡……そのうちに、パソコン、携帯電話、スマートフォンもその仲間入りをするでしょうか)。
本堂を作っただけの道具なので、その後も使用に耐えうるものだったと思われます。
それを埋めてしまうのは、一種の「聖別」なのか。
あるいは、何らかの穢れがあるとの判断でしょうか。
鐘楼。
本堂向って右側面から後方へ。
なかなかの巨大建築。
「千人塚(二斗八塚)
江戸時代初期の慶長年間に起こった百姓一揆の犠牲者の冥福を祈って建てられた塔といわれています。また、延宝年間に起こった百姓一揆、二斗八騒動で処刑された人々の供養塔ともいわれています。」
「にとはちさま」の簡単な案内は、
◯こちら===>>>
↑に書かれています。
「五斗米道」とは関係ないようです。
「徳川家大奥供養塔
江戸幕府三代将軍徳川家光の正室本理院、家光の乳母春日局、家光の二男綱重の正室紅玉院など、大奥関係者の供養塔です。江戸で善光寺の出開帳が行われた際には、大奥の強い希望で前立本尊が江戸城内に招き入れられるなど、善光寺は徳川将軍家から篤く信仰されていました。」
正室や側室であれば、「寛永寺」や「増上寺」にお祀りされているのではないかと思いますが。
それとは別の供養塔、ということでしょうか。
歴史の長い寺社は、時々の権力者との関係性を見なければ本質を見誤ることでしょう。
まぁ、本質なんて見てませんが。
妄想妄想。
「大本願廟所」。
「大本願」というのは、「仁王門」外にある寺院で、公式HPによれば、
「大本願の創建以来、尼公上人をもって住職とし、代々皇室関係の方々が入山されています。近世において、尼僧では伊勢・慶光院、熱田・誓願寺とともに日本三上人といわれていましたが、今日では大本願の上人様のみが法灯を継承されております。大勧進の貫主(かんす)と共に善光寺住職を兼ねており、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事(お勤め)に出仕されます。
大本願には、本誓殿・奥書殿・明照殿・表書院・光明閣・寿光殿・宝物館などがあります。」
とあるように、尼寺です。
「善光寺」の住職は、「大本願」と「大勧進」、の二系統がある、ということらしく、珍しいことのようです。
その「大本願」の廟なので、歴代住職が供養されているものと思われます。
尼僧なので、朱塗りなのかもしれませんね。
その隣に、燈籠なのか祠なのか、多数放置。
なんでしょう……地震で崩れでもしたのでしょうか。
「松代藩真田家の古塔
江戸時代に善光寺の外護職を務めた松代藩の藩主、真田家の供養塔です。松代藩は善光寺を保護すると共に篤く信仰していました。境内東部には重臣らの供養塔も現存しています。松代と善光寺とのご縁は今も深く、七年に一度の善光寺御開帳の折には、本堂前に建つ大回向柱の用材を松代町が毎回寄進しています。」
松越しに。
「善光寺日本忠霊殿
戊辰戦争から第二次世界大戦までの戦争で亡くなった、約二百四十万柱の英霊を祀る仏式霊廟です。明治三十九年(1906年)に創建され、昭和四十五年(1970年)に現在の姿に改築されました。一階には善光寺ゆかりの宝物を展示する「善光寺史料館」が併設されています。」
明治三十九年ということは、「東京招魂社(靖国神社)」よりはずいぶん新しい、と言えるかもしれません。
死者を祀るに、神式か仏式か、基本的にはどちらかの選択肢しかなかった時代です(キリスト教は死者を弔いますが、祀るわけではないです……実は仏教も、そのあたり微妙ではないかと思いますが)。
本堂を向って左側面から。
「経蔵
宝暦九年(1759年)に完成した、経本の収蔵庫です。間口・奥行は約11.5メートル、高さは約13.5メートルです。
中央には八角形の回転式輪蔵があり、元禄七年(1694年)に寄進された鉄眼黄檗版一切経の経本が納められています。輪蔵の腕木を押して一回転させると、中の経本を全て読んだのと同じ功徳が得られると言われています。」
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「崇福山安楽寺」 - べにーのGinger Booker Club
別所温泉の「安楽寺」でも出てきました、「鉄眼黄檗版一切経」。
当時、大流行したんでしょうか。
それだけの大事業だったということですね。
案内板の写真しかありませんが、「爪彫如来像」。
親鸞上人が爪で彫ったものだそうです。
眼病を治してくれるようです。
何故でしょう?
多分、「薬師如来」だからだと思います。
「回向柱
数え年で七年に一度行われる善光寺最大の行事、前立本尊御開帳において、本堂前に建てられる高さ十メートルの角塔婆です。この柱は前立本尊さまの右手と直に結ばれ、柱に触れると前立本尊さまに触れるのと同じ御利益があると言われています。回向柱は御開帳が終わるとここに納められ、歴代の回向柱とともに、徐々に土に還っていきます。」
「この柱は前立本尊さまの右手と直に結ばれ」……絹糸か何かで結ばれるのでしょうか。
かつて、高貴な人の脈を診るために、「糸脈」という方法が使われていたようですが(糸電話みたいなものですか)。
直に触れなくても、御利益があるみたいです。
それにしても……信州の人は柱が大好きなんですね(?)。
次は、「大勧進」へ。
公式HPでは、
「大勧進の住職は貫主(かんす)と呼ばれ、大本願の上人(しょうにん)と共に善光寺住職を兼ねています。
貫主は代々比叡山延暦寺より推挙される慣習になっており、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事(お勤め)に出仕されます。
大勧進には本堂の万善堂の他、無量寿殿・不動堂・地蔵八角円堂・紫雲閣・宝物殿・僧侶が修行をする聖天堂などがあります。また、奥書院は明治天皇御巡幸以来、大正天皇、昭和天皇両陛下の御駐泊により、昭和八年に行在所に指定されました。」
と紹介されています。
「大勧進」で、御朱印を待っているときに撮った写真。
山門です。
紹介にある通り、「不動堂」がありますので、「倶利伽藍剣」。
本堂遠景。
入口から「大勧進」。
「石像宝篋印塔(伝佐藤兄弟供養塔)
この地方で最古の逆修供養塔です。西塔には応永四年(1397年)の銘が入っています。
古くから、源義経の忠臣佐藤継信・忠信兄弟の供養塔といわれ、若くして戦死した二人を供養するため、母親の梅唇尼が善光寺に参詣して建てたと伝えられています。」
困ったことに「逆修」の意味がわからなかったので、コトバンクの出番です。
◯こちら===>>>
「ぎゃく‐しゅ【逆修】
仏語。
1 煩悩に身を任せ、真理から遠ざかること。⇔順修。
2 生前に、自分の死後の冥福(めいふく)のために仏事をすること。予修(よしゅ)。逆善。逆修善。
3 年老いた者が、年若くして死んだ者の冥福を祈ること。
4 生前に、墓石に戒名を刻むこと。朱書きとする。また、その戒名。逆修の朱。」
「3 年老いた者が、年若くして死んだ者の冥福を祈ること。」ですね。
鎌倉時代のこともさっぱりわかりませんので、「佐藤兄弟」……聞いたことがあるような、ないような。
多分検索すればどっと情報が出ると思いますので、各自でどうぞ。
あらためて、本堂。
さて、実は「山門」、登れます。
拝観料は必要ですが。
門らしい、狭隘な階段を上っていくと、参道を見渡すことができます。
景色より、構造物としての「山門」に興味津々だったのですが、撮影禁止だったもので……残念。
つい最近まで、楼門や山門に仏間があり本尊が祀られている場合があることを知らなかった私です。
振り返れば「山門」。
ちょうど、「鳩字の額」の高さまで登ることができます。
人影が見えても、残念ながら心霊写真ではありません。
参堂途中にありました。
善光寺本堂は、古くは「如来堂」と呼ばれ、皇極天皇元年(642)の創建から元禄十三年(1700年)までの間はこの場所にありました。この地蔵尊は、旧本堂内の瑠璃壇(ご本尊・善光寺如来さまをご安置した壇)の位置に建てられています。」
千年近くあった場所から、江戸時代に移されたんですね。
それ以前の様子が知りたいものです。
再びの「仁王門」。
日が傾いた参道。
うーん、かなり駆け足だった。
じっくり過ごそうと思ったら、一日いられますね「善光寺」。
時間に制約のある旅なので(というか、拝観終了が早いので神社仏閣)、しかたないのですが。
というわけで、文献引用等は次回に〜。