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よんどころない事情にて上京しましたので、どこへ行こうか……ということで、何度か訪れている「湯島天満宮(湯島天神)」へ。
◯こちら===>>>
東京メトロ千代田線「湯島」駅からすぐのところです。
こちら「男坂」。
↑ではありません。
急な坂のほうで、もう少し緩やかな「女坂」もあります。
石造りの鳥居。
「講談高座発祥の地」。
「江戸時代中期までの講談は、町の辻々に立っての辻講談や、粗末な小屋で聴衆と同じ高さで演じられていた。
文化四年(1807年)湯島天満宮の境内に住み、そこを席場としていた講談師・伊東燕晋が、家康公の偉業を読むにあたり庶民と同じ高さでは恐れ多いことを理由に高さ三尺、一間四面の高座常設を北町奉行小田切土佐守に願い出て許された。これが高座の始まりであり、当宮の境内こそ我が国伝統話芸・講談高座発祥の地である。(略)」
ちゃんとした講談を聞いたことがないのですが、イメージでは、「五・七調」をベースにまとめた、小気味よい話芸、でしょうか。
釈台をばんばん叩いている、という感じも。
向って左手が、「女坂」……だったと。
案内板。
「男坂」を登って、右手に本殿があります。
非常に豪華な雰囲気。
権現造で、平成七年に造営されたそうです。
公式HPによれば、「現代の建築基準法では、寺社であっても防火地域では、木造建築の新築は認められない」のだとか。
認可を得るのに苦労されたのでしょうか。
「都々逸之碑」。
七・七・七・五。
俳句、短歌に比べて、「都々逸」という形式はあまり評価が高くないように思います。
『笑点』を見ていると、ときどきお題で取り上げられています。
俳句の文字数ではやや足りず、短歌はちょっと多い、といったときにはいいのではないかと思いますが。
前半の「きっちり揃ってしまう」感じが、緩急を失わせているのかもしれないです。
今ではもっぱら、「標語」というやつに使われているような……。
上方発祥で、「名古屋節」というものを経由して「都々逸」になったようです。
名前に品格を問うのもナンセンスですが、濁音が連続している、というのが日本語としては子どもっぽいのかもしれないです。
「どどいつ」。
本殿裏手、「夫婦坂」。
「夫婦坂」の門を下から。
蟇股っぽい部分の装飾が「登竜門」。
本殿を後ろから。
神紋は「鎌卍」。
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↑で紹介されています。
いつか行きたいなぁ……。
こちらは「笹塚稲荷神社」。
神紋はもちろん、「稲」です。
境内社の造りが妙なことになっていますが、社殿の前にアーケードのようなものがあります。
この見た目だけの蟇股はそこにくっついています。
気持ちのよい垂直方向の本殿。
神社の社殿は、高床式倉庫が元になっている、と言われてもうなずける姿です。
拝殿。
いったん正面から外に出まして。
銅の鳥居。
「古色蒼然」、という言葉通りな感じ。
右側の円柱っぽい碑は珍しいかもです。
「府社」。
東京が東京府だった頃には、こちらは「湯島神社」と呼ばれていたんですね。
湯島神社は、湯島天満宮、湯島天神として全国津々浦々まで知られている。
雄略天皇の勅命により、御宇二年(458)一月創建と伝えられ、天手力男命を奉斎したのがはじまりで、降って正平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い文堂の大祖と崇め本社に勧請した。文明十年(1478)十月太田道灌これを再建し、天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入るにおよび特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷の内五石の朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文京大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。
その後、林道春、松永尺五、堀杏庵、僧堯恵、新井白石など、学者文人の参拝もたえることなく続いた。徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよびこの地を久しく文教の中心として当天満宮を崇敬したのである。(略)」
武蔵国の神社としてはかなり古い由緒です。
途中で「菅原道真公」を勧請したようです。
こちらによれば、「文和四年・正平十年(1355)湯島の郷民が霊夢によって老松の下に勧請した」と言われているそうで。
何度か荒廃して、その度に息を吹き返し、最終的に徳川家康が庇護した、と。
そんな時代もありましたね……結構面白いはずなんですが、なかなかどうしてクローズアップされるのは室町幕府の将軍ばかり。
湯島を舞台にした小説、泉鏡花の『婦系図(おんなけいず)』のことが触れられています。
泉鏡花は『高野聖』と『海神別荘』くらいしか読んだこと……あるようなないような。
「筆塚」に「庖丁塚」。
休憩所に使われていますが、いい感じの建物です(元々は蔵か、絵馬堂か)。
その隣辺りにひっそりと、「火伏三社稲荷社」。
お狐様が何か色っぽかったもので。
こちら、休憩所向かいの宝物殿の彫刻。
『竹取物語』ですね。
拝殿遠景。
すぐ後ろにマンション群、というのが日本の町の神社仏閣に見られるアンバランスさです。
「文房至宝碑」。
「紙筆墨硯」の「文房四宝」から始まる我が国の文房具は、今や「文房至宝」だ、という内容です。
都内唯一の屋外「瓦斯灯」だそうです。
そういえば、ジョン・ギャスライト、というタレントさんがいたような……。
東海地方で活躍されていた気がします。
名古屋弁だと、「ジョン・ギャスリャアト」さんです。
さて、
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国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3
↑の108コマに「湯島天満宮」の記事があります(引用にあたって旧字を改めた箇所あり/判読不能文字は■に置き換える)。
妻恋明神の北の方にあり。太田道灌、江戸の静勝軒にありし頃(文明十年六月五日也)、夢中に菅神に謁見す。翌朝外より菅丞相親筆の画像を携へ来る者あり。乃ち夢中に拝する所の尊容に彷彿たるを以て、直に城外の北に祠堂を営み、彼神影を安置し、且梅樹数百株を栽ゑ、美田等を附す。即ち当社是なり。(以上諸社一覧、江戸名所記等の書に出づるといへども、恐らくは誤ならん。麹町平河天神に菅丞相の画像と称するものありて、かへつて当社に此影あることなし。其論あれども爰に略す。
北國紀行
忍ぶの岡のならびに、湯島といふ所あり。古松はるかにめぐり、注連のうちに武蔵野の遠望を懸けたるに、寒村の道すがら、野梅盛に薫す。これは北野の御神と聞えければ、
忘れずば東風吹きむすべ都まで遠くしめのの袖の梅が香 堯恵」
「太田道灌、江戸の静勝軒にありし頃(文明十年六月五日也)、夢中に菅神に謁見す。」というのは、現在の神社の述べる由緒である「土地の人が夢に見て……」というものとごっちゃになった感じがあります。
『江戸名所図会』では、「多分間違っている」としながら、他の由緒は掲載されていません。
ひょっとすると、やっぱり太田道灌の夢見の話が正しくて、後世にそれを土地の人の話にしてしまったのか。
「堯恵」というお坊さんは、
◯こちら===>>>
「五條天神社・花園稲荷神社」 - べにーのGinger Booker Club
↑でも取り上げましたが、1430年に生まれた方です(没年不詳)。
『北國紀行』が書かれるきっかけになった旅立ちは、「文明十七年(1485)」だそうです。
◯こちら===>>>
↑参照。
で、太田道灌が祀ったのは「文明十年(1478)」です。
慈恵が訪れたときには、七年が経過しているのですから、年代的にはあっています。
結局、創建なのか再興なのかはともかく、太田道灌が深く関わったことは間違いないようです。
「忘れずば東風吹きむすべ都まで遠くしめのの袖の梅が香」
という歌はもちろん、道真公の
「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
という歌がモチーフです。
さてさて、その続きに、
「湯島神社
土人戸隠明神と称す。本社の後の方にあり、即ち地主の神なり。例祭は毎歳九月十日に行ふ。
風土記曰
豊島郡湯島神社。雄略天皇御宇二年癸巳八月。自官所祭天手力男神也。云々。」
とあります。
また、109コマには「湯島天満宮」の図絵が掲載されていますが、そこにも「戸隠」のお社が描かれています(「稲荷」はちょっと離れていますが、「戸隠」と本殿の位置関係は同じかと思われます)。
ということで、「湯島神社」は「天手力男命」、「湯島天満宮」は「菅原道真公」、ということでいいのだと思います。
梅とも学問とも関係なさそうな創建ですが、「天手力男命」は「天神」ですので、そんなつながりじゃないのかな、と。
芝居小屋や茶店も書かれているので、「講談高座発祥の地」というのもうなずけます。
未だに、ときどき、「湯島天神」と「湯島聖堂」がごちゃごちゃになります。
それではまたもや東京都内神社仏閣巡り残暑の陣〜。