べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「浅草神社」(浅草名所七福神)

8/2。

夏の盛りとはいえやや涼しくなる時間帯……なわけはなく。

だらだらと汗を流しながら、ちょっと早足で向かいましたのは「浅草寺」。

夕方でも賑わいは途切れず。

人の多いところは好きではないのですが、繁昌するのは悪いことではないですね。

で、「浅草寺」はまるっとスルーしまして、浅草神社にたどり着きました。

 

◯こちら===>>>

浅草神社

 

f:id:bennybebad:20140802154004j:plain

f:id:bennybebad:20140802155151j:plain

f:id:bennybebad:20140802155206j:plain

f:id:bennybebad:20140802155220j:plain

「浅草総鎮守 浅草神社(三社様)

祭神

土師真中知命(はじのまつちのみこと)

檜前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)

檜前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)

(略)

御由緒

推古天皇の御代三十六年(628)三月十八日、漁師の檜前浜成と竹成の兄弟が浅草浦(現在の隅田川)で漁労に精を出していましたが、その日に限り一匹の漁もなく網にかかるのはただ人型の像だけでした。兄弟も不思議に思いその尊像を奉持して今の駒形より上陸し槐の切株に安置しました。

当時、郷土の文化人であった土師真中知に一見を請うた所、土師氏はこれぞ聖観音菩薩の尊像であることを兄弟に告げました。その後、土師氏は自ら剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音様を奉安し供養護持の傍ら郷民の教化に生涯を捧げました。いわゆるこれが浅草寺の起源となります。

土師氏が没した後、浅草寺の創始者・浅草発展の功労者である三人を三社権現と称し神として祀ったのが三社権現社(現浅草神社)の始まりとなります。明治維新神仏分離令により浅草寺との袂を分かち、明治元年に三社明神社と改められ、同六年に現在の社名に至ります。

今もなお、「三社様」として親しまれている浅草神社ですが、元来三人の神様をお祀りしたことからそのように呼ばれています。

(以下略)」

 

祭りについては疎いもので、「三社祭」の「三社」が何なのかもよく知りませんでした。

f:id:bennybebad:20140802154812j:plain

f:id:bennybebad:20140802154759j:plain

堂々たる狛犬さん。

 

f:id:bennybebad:20140802154741j:plain

f:id:bennybebad:20140802154209j:plain

f:id:bennybebad:20140802154156j:plain

権現造の社伝は、徳川家光の寄進によるそうです。

彫刻・絵図がおめでたい感じです。

f:id:bennybebad:20140802155039j:plain

神楽殿。

 

境内には、「被官稲荷社」があります。

f:id:bennybebad:20140802154712j:plain

f:id:bennybebad:20140802154635j:plain

f:id:bennybebad:20140802154558j:plain

f:id:bennybebad:20140802154544j:plain

ちょうど「浅草神社」の裏手にあり、こちらの参拝者は、多分地元の方だけで、いたって静かなものでした。

 

f:id:bennybebad:20140802154606j:plain

鳥居の上の、お狐様。

 

f:id:bennybebad:20140802154619j:plain

「被官稲荷社

安政元年(1854)、新門辰五郎の妻女が重病で床に伏したとき、山城国(現、京都府南部)の伏見稲荷社に祈願した。その効果があって病気全快、同二年、お礼の意味を込め、伏見から祭神を当地に勧請し、小社を創建して被官稲荷社と名付けた。名勝の由来は不詳だが、被官は「出世」と解せば良いという。

辰五郎は上野寛永寺住職輪王寺宮の家来、町田仁右衛門の養子。本姓は町田であった。輪王寺宮舜仁法親王浅草寺伝法院に隠居し、上野へ行くのに便のいい新門を造った。その門の番を命じられたので、新門辰五郎と呼ばれた。辰五郎は町火消十番組の組頭としても、多彩な活躍をした。

社伝は一間社流造、杉皮葺。創建以来のもの。間口約1.5メートル、奥行約1.4メートルと小さいが、覆屋を構えて保護している。覆屋は大正期の建築であろう。社前には、「安政二年九月立之 新門辰五郎」と刻む鳥居ほかがある。」

 

小祠をここまで保護しようというのですから、地元の崇敬篤かったのでしょう。

それにしても、「火消し」「辰五郎」なんて聞くと、我々世代にはもう、

 

 

暴れん坊将軍』のさぶちゃん(北島三郎氏)

 

 

しか浮かびません(あちらは「め組」でしたか……あれ、辰五郎でしたっけ?)。

 

境内には様々な碑があります。

 

f:id:bennybebad:20140802154846j:plain

f:id:bennybebad:20140802154856j:plain

f:id:bennybebad:20140802154925j:plain

f:id:bennybebad:20140802154932j:plain

f:id:bennybebad:20140802154948j:plain

f:id:bennybebad:20140802155019j:plain

f:id:bennybebad:20140802155045j:plain

f:id:bennybebad:20140802155113j:plain

f:id:bennybebad:20140802155123j:plain

ゆっくりした旅ではないので、全てをじっくり、というわけにはいきませんでしたが、興味深いものも多いと思います。

時間にゆとりのある方は、足を止めてみてはいかがかと。

 

f:id:bennybebad:20140802155308j:plain

逆光の中に「浅草寺」。

 

さて、

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3

 

↑の194コマから、「金龍山浅草寺」の記事が掲載されています(引用にあたって、旧字を改めた箇所あり/判読不能文字は■に置き換える)。

かなりのコマ数を割いているのですが、今回は「浅草寺」ではないので、その中から抜粋します。

 

「三社大権現社

本堂より艮の方にあり。土師臣中知(ナカトモ)、ならびに家人檜前(ヒノクマ)濱成、武成等の霊をあはせ崇祠(マツル)則ち当寺の護法神とす。世に三處の護法ともいへり。神体は慈覚大師の作とぞ。当社は浅草の惣鎮守にして、祭礼は三月十八日、隔年に執行あり。三社の来由は、本尊縁起の中に詳なれば、ここに略す。傍の堂に、荒澤不動尊歓喜天等を安置す。」

 

現在では、「土師真中知」となっているのに、土師臣中知(ナカトモ)」だった時代があるんですね。

どうしてこうなったのか、資料の読み方に新しい解釈が生まれたのか、よくわかりません。

 

 

「一権現社

同所顕松院の境内にあり。土俗あかむ堂と云ふ。往古当寺本尊観世音出現のとき、草刈の童、藜(アカザ)をもつて柱とし、ひとつの草堂を建て、彼霊像を安置し奉りし旧跡なり。故にあかざ堂と唱ふべきを、後世謬って阿加牟堂といへり。傍に観音影向の槐あり。」

 

「本尊縁起に曰く、人皇三十四代推古天皇の御宇、土師臣中知といへる人、故ありて此地に流浪ふ。(日本紀に曰く、垂仁天皇三十一年、野見宿禰に、始めて土師臣の姓を賜ふとあり。野見宿禰天穂日命十四世の孫なり。ここにいへる中知も此遠裔なるべし。山岡明阿弥陀仏云ふ、中知は奈加登茂、又登茂奈利とも訓ずといへり。)家臣檜熊濱成、武成と云ふ二人の兄弟附添ひて、主従三人、恒に漁猟を産業とし、ここに年月を送けり。(檜熊或は檜前(ヒノクマ)に作る新撰姓氏録に、檜前舎人連と云々。然る時は、檜前に作りて可ならん歟。続日本後紀に、檜前舎人直由加麻呂、武蔵國加美郡の人にして、土師氏と祖を同じうするとあり。又延喜式兵部省諸国馬牛の牧の中にも、武蔵国檜前の馬牧とあり。是等によるときは、濱成武成も此國の人ならん歟。)同三十六年戊子三月十八日の朝、碧落に雲消えて、蒼溟に風静なりければ、小舟に乗し、此所の沖に出でて、網を下すに(浅草川むかし海にちかし、旧名を宮戸川と称す)遊魚はさらになく、幾度も同じ観音大士の尊像のみかかり給ふ。異浦に至りてもいよいよしかり。依て主従驚き、是を奉持して帰り、機縁の浅からざるを思ひて、其家に安ずといへども、只臭魚の穢に雑る事を恐るるのみ。(世に草刈の童集つて、藜をもつて仮の御堂を造るといへる事、縁起に所見なし。)ここにおいて、終に魚舎をあらためて、一宇の香堂を経営り、彼尊像を安置し奉る。(今の一権現の地其旧跡なり。)(以下略)」

 

檜熊或は檜前(ヒノクマ)に作る」と聞くと、

 

◯こちら===>>>

和歌山市内の由緒ある神社、日前神宮・國懸神宮【公式サイト】

 

↑や、

 

◯こちら===>>>

檜隈寺跡/於美阿志神社 - 飛鳥散策スポット

 

↑が思い浮かびますね。

新撰姓氏録』や『続日本後紀』の書かれた頃には、武蔵国にも「檜前」という地名があると認識されていたようです。

多分、紀州の方が古いので、そこから移ってきた人達にちなんで地名になったんでしょう。

「土師臣中知」「檜前兄弟」がそもそも主従関係にあった、という書き方は、何となく武家政権の江戸時代になじむ逸話に聞えます。

本当のところは、縁起の原文にあたらないとわかりません。

ちなみに、『日本書紀』によれば、「推古三十六年三月十八日」は、推古天皇は既になくなったあとです。

 

「祭礼

隔年三月十八日なり、(この祭礼は、往古正和元年の神託に依てこれをはじむ。十七日に三社の神輿を本堂へうつし、拍板(ぴんざさら)獅子舞あり。当日は神輿を浅草の大通りを渡し、浅草橋に至る。それより船に乗じ、帰輿は駒形より上らせらる。此日旧例として、武州六郷、大森等の海村より猟船を出し、かしこより漁人来りて、これを供奉す。往古此地の猟師を大森村の邊へ移しけるより、今も祭礼に此儀有りといへり。)」

 

また、

 

◯こちら===>>>

東都歳事記2巻

 

↑『東都歳時記』には、「三社祭」の詳しい様子が書かれています。

「世俗誤て観音祭といふ」とありますので、世間的には「浅草寺」のお祭りと認識されていたようです。

間違ってはいないんでしょうが、「観音祭」ではなく、あくまで「三社祭」なのだ、ということですね。

それも、近郷から漁民が集まってきて、というのですから、「観音信仰」というよりは、神社の縁起に対する信仰でしょう。

 

ところで、

 

◯こちら===>>>

「鳳凰山甚目寺」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑でも紹介したことのある、愛知県の仏閣甚目寺には、「浅草寺」の縁起とよく似た逸話が伝わっています。

「網を投げたら、仏像がかかった」という逸話は、他のところにも伝わっていたように記憶しています。

そのうちどれだけが本当にあったことなのかはわかりません。

オリジナルの逸話があり、それが人心を捉えていたので、みんなで真似した、という可能性の方が高いような気がします。

有名な、物部氏蘇我氏の崇仏廃仏論争があったとき、物部守屋は、仏像を難波の海に捨てた、と言われています。

その仏像が、どこかの岸に流れ着いた、ということが実際にあったのかもしれませんね。

 

さてさて、「浅草名所七福神」で、「浅草神社」は「恵比須」様です。

浅草神社」との関係、というよりは、「浅草寺」という巨大な仏閣の中に、「恵比須」様も祀られていたから、ということだと思いますし。

漁撈の民の信仰が元にあったので、「恵比須」様になったんだろうと思います。

で、

 

◯こちら===>>>

浅草名所七福神

 

↑の公式HPでも書かれていますが、「浅草名所七福神は九社寺あります。「九は数のきわみ、一は変じて七、七変じて九と為す。九は鳩でありあつまる意味をもち、また、天地の至数、易では陽を表す」という古事に由来したことによります。」ということです。

じゃあ「九福神」にしちゃえばいいんじゃないか、と思うんですが……。

七福神」が何故七柱なのか、というのには様々な説がありますので、各自検索してみましょう。

とはいえ、一桁の自然数で、縁起物にからめられない数字なんてそうそうないので、どこまで意味があるのかはわかりません(仁王、三大◯◯、四天王、五大◯◯、七福神八部衆、九曜……あれ、が思いつかない)。

そして、最後の一カ所は、浅草寺だったんですが……タイムアウト、でした。

 

f:id:bennybebad:20140802191404j:plain

 

実際には、「七福神」の御朱印をもらっていないので、実は「七福神巡り」はしていないんですけどね。

結構頑張って歩きました……年に1回くらいですけどね、こんなに歩くの。