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知立までやってきたので、もう少し足を伸ばそうかと。
「無量寿寺」まで。
◯こちら===>>>
と、その前に。
「三河国八橋」というのは史跡になっておりまして。
「八橋かきつばた園」という庭園の一部が「無量寿寺」。
それは追々。
さて。
寺、寺といっておいて、地蔵越しの鳥居。
「八橋日吉山王社」です。
「御祭神 大山咋尊
創立 慶雲元年(704)」
読めん。
というわけで、神社で配布されている由緒書より。
「無量寿寺の創建に際し日吉山王宮(滋賀県比叡山)より山門鎮護の神として勧請したことに始まる。
明治の制度改めの際、社地の分割寄進を受け氏神として、奉祀した。
同六年村内各処に奉祀せる神祠を本社境内に遷した。
昭和三十四年九月、伊勢湾台風により被害を受けた拝殿を同三十八年に改築、同四十三年、合祀殿を建設し境内八社を奉齋した。
八朔社 未詳
八坂社 素戔嗚命
天神社 菅原道真公
弁天社(別名 杵島社) 市杵島姫命
山神社(二社) 大山祇神
八幡社 応神天皇
秋葉社 日産霊命(ひむすなのみこと)
白山社 菊理比売命(別名白山比咩命)
春埜山 守護神—太白坊大権現
稲荷社 倉稲魂命(別名 宇迦之御魂神)」
ふう。
拝殿は、趣こそそれほどではありませんが、いろいろ考えてこうなったんだろうなぁという様式ですね。
こちら合祀殿(と思われます)。
階段を下りたところに、「豊川吒枳尼眞天」。
ま、お稲荷様です。
お稲荷さんへ降りてくる階段。
あと、「かきつばたまつり」というのがやっていまして(4/27〜5/26)、
テントの向こうにあるのが何だったのか思い出せません……。
「日吉山王社」の御祭神ですが、いろいろと引っかかるので検索してみました。
どうやら、かなり山岳信仰(修験)に寄っているようで。
「秋葉社」の「日産霊命(ひむすなのみこと)」というのがまず引っかかります。
「秋葉山」は、「秋葉大権現」のいらっしゃるあそこのことでしょう。
◯こちら===>>>
「秋葉山本宮秋葉神社(上社)」 - べにーのGinger Booker Club
普通は、「ホノカグツチノミコト」に置き換えられているのですが、こちらでは「日産霊命」と。
それを「ひむすなのみこと」と読ませる辺り、結構むちゃくちゃです。
「ひむすびのみこと」、と読むのが普通でしょう。
この「日産霊命」、検索すると他の神社でも祀られているようなんですが、いかんせんそのページが開かないのでほっときます。
「火産霊命」であれば「ホノカグツチノミコト」ではないかと思えるのですが。
「火」が「日」になっちゃったんでしょうか。
とすると、結構新しくそうなっちゃったんだろうな、と。
古代の日本語では、「日」は「ヒ」で、「火」は「ホ」で、読みとして混同されることはないはずなんですね。
「火」を「ヒ」と読むようになった時代以降に、何かでちょっと間違って伝わっちゃったのか……もしれないです。
「春埜山」は、
◯こちら===>>>
で紹介されていますが、やはり修験のお山で、「秋葉山」とも関係がありそうで、「太白坊」は天狗様だそうです。
「春埜山」と「秋葉山」、「春と秋」なんでしょうか。
これに「白山」ですから、もう山岳信仰としか言いようがない。
そのうえ「八朔社」。
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「出羽三山」で行なわれる「八朔祭」(八月一日のこと)と関係がありそうな名前。
うーん、どうしてこうなったんでしょうか……この辺りが御山というわけでもないでしょうに。
謎です。
さてさて。
「無量寿寺」の遠景。
慶雲年間(704〜8)に創建された慶雲寺が、弘仁三年(821)八橋のこの地に移され、無量寿寺になったと伝えられている」
……そんだけかい。
パンフレット「八橋の史跡と名勝」によれば、
「名勝八橋の中心となる寺で、現在臨済宗妙心寺派に属しています。寺伝では奈良時代の慶雲元年(704)の創立としており、当寺は慶雲寺と称し真言宗として寺坊大いに栄えたと申します。延喜二年(902)山号寺号を八橋山無量寿寺と改めているのでこのころいまの地に遷されたと思われます(後略)」
その後廃れたようですが、「延文五年(1360)臨済の僧恵玄が中興し」、「文化九年(1812)方厳売茶翁により再建が行なわれ」、「杜若庭園はこのとき完成」したそうです。
「方厳売茶」は、「ほうがんばいさ」と読みます。
「ばいちゃ」じゃないよ。
◯こちら===>>>
イベント|東海道五十三次39番目の宿場町、かきつばたの街、知立市
そろそろいいと思いますが、「八橋」「杜若」ときたらそう、
「在原業平」
なんですね。
というわけで、「在原業平」の立ち寄った地として、それを偲んだものがいくつかあったりします。
「八橋古碑」とか。
「ひともとすすき」とか(謡曲「筒井筒」の故事にならって植えられたそうですが、それが『伊勢物語』二十三の段を元にしたものだそうで)。
「業平竹」とか。
そして、「無量寿寺」の裏手にまわると、そこには一面の杜若が。
…。
……。
………。
ちょっと早かったのか……。
「伝説羽田玄喜二児の墓
昔、野路宿(八橋)に羽田玄喜という医者がいた。妻はこの地の荘司の娘で二人の男児があった。夫は早くに死に、女手一つで二児を育てていた。ある日妻が生活の糧にと浦で海藻をとっていると、母を慕って来た二児が、誤って水に落ちて溺れて死んでしまった。妻は悲しさのあまり当寺に入り、尼となって子の墓を建て菩提を弔った。またお告げにより、浦に流れ着いた材木で橋を八つかけた。以後この地を八橋と名付けたと伝えている」
↑「八橋」の地名伝説ですね。
◯こちら===>>>
↑もう少し詳しく、お話になったものが紹介されています。
「杜若姫供養塔
(前略)杜若姫は小野中納言篁の娘と伝えられ、東下りの在原業平を恋い慕って、やっとこの八橋の逢妻川で追いついたが、業平の心を得ることができず、悲しんで池に身を投げて果てたと伝えられている。(後略)」
……そんな人、いましたっけ?
◯こちら===>>>
↑ここでのポイントは、「川」で出会っている、ということですね。
「川」は境界の象徴であり、実際に村境、国境になっていることもあります。
また、イメージとしての「川」には、「この世とあの世の境界線」という意味もあります(洋の東西を問わないようです)。
つまり、「川」で出会っている時点でそれは、「別離」の象徴であり、おそらくは「死別」の象徴なのです。
「川」を越えられるのは、天帝のご加護を受ける織姫と彦星くらいのものです。
多分、あの二人はとっくに死んでいるから、なんでしょうけれども。
俳人「井村祖風」の句碑、だそうです。
なかなか面白い形です。
「在原業平」像。
「むかし、をとこありけり。そのをとこ、身をえうなき物に思ひなして、京にはあらじ、あづまの方に住むべき國求めにとて行きけり。もとより友とする人ひとりふたりしていきけり。道知れる人もなくて、まどひいきけり。三河の國、八橋といふ所にいたりぬ。。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋といひける。その澤のほとりの木の蔭に下りゐて、乾飯(かれいひ)食ひけり。その澤にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたという五文字を句の上にすゑて、旅の心をよめ」といひければ、よめる。
からころも
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞおもふ
とよめりければ、皆人、乾飯のうへに涙おとしてほとびにけり。」(和歌の部分の漢字と記号はひらがなに改めた)
とあります。
元々、この「八橋」と呼ばれていた土地には、「かきつばた」が咲いており、それを『伊勢物語』の登場人物で、「在原業平」と思われている人物が、折句を用いて歌を詠んだというわけです。
古文というやつですから、主語がどこにあるのかわかりません。
というわけで、お約束として、敢えて主語が書かれている場所以外では、最初に登場している「あるをとこ」(=「在原業平」)が主語なので。
「かきつばた」の和歌を詠んだのは、「在原業平」になるわけです。
連れの友達が詠んだ、というとんだ叙述トリック、も嫌いではないですが。
そちらでは引用した九の段とほぼ同じ文章が書かれた上に、「在原業平朝臣」を詠み人として書いています。
だから、業平なんでしょう。
本当はどうやら、山などを借景にした回遊式庭園のようなのですが、全くそんなこと知ったこっちゃない、という感じです……。
趣のない男なもので。
他にも、「在原寺」や「業平塚」など、史跡があったのですが、巡らず……。
この辺りが、下調べをせずに巡ることの弱点ですね。
さてさてさて。
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 東海道名所図会. 上冊
↑の130コマから、「八橋古跡」についての記事があります。
「池鯉鮒より八町許東の方牛田村の松原に石標あり是よりも左へ入る事七町許ここに一堆の丘山ありて古松六七株其側に凹なる池の形の芝生あり是むかし杜若のありし趾といふ北の方に遇妻川の流れありここに土橋をわたすこれは八橋をわたせし流といふ都て此邊田畑にして八橋燕子花の俤もなしむかしは此所官道にして今も鎌倉道の名ありて道幅も広しかの丘山に業平塚といふ石塔婆あり後人准へ立るものならん又業平の碑銘あり今八橋村無量寺へ移す(以下略)」
また、「無量寺」については、
「八橋村にあり禅宗八橋山と号す堂前に業平竹一本薄(ひともとすすき)あり堂後に杜若あり又八橋古杭を什物とす『本尊正観音』寺説に業平の作という詳ならず又業平像あり又堂前に八橋の碑あり下野州奈須墨羽之産由良不※立之云々当寺縁起に業平朝臣元慶四年に薨じ給ひ其遺骨を大和の在原寺に半を蔵め遺命によって自像と遺骨の半を此寺に納しと也其後寛平四年五月十五日此入江の汀に墳を築といふ此寺説正しからず河海抄に云在原業平は貌※雅にして和歌を善す六歌仙の一人也一旦吉野川の上に昇つて終る所を知らずと云々又八橋の事は寺説にむかし八歳の兒ありて澤邊に遊び水中に落て死す隣里の農民これを告げれば父母大に悲驚し澤に橋のなきを恨み追善の為に一橋を架す八歳の兒より始る橋なれば八橋となづく其時告来る人の里を告の郷といふとぞ共に詳ならず」(※は判読不能文字、旧漢字をいくつか改めた)
とあります。
ちょっとばかり、現代に伝わっているお話とは違っています。
『伊勢物語』の研究は相当にされていると思いますので、私なぞが何か申し上げることもありません。
思っているより全然短いので、一度読んでみてはいかがでしょうか。
私?
もちろん、読んでません。
あ、ちなみに「無量」とは「阿弥陀」のことです(「阿弥陀」がサンスクリットの音写、「無量」はその意味)。
「無量寿仏」、「無量光仏」とも、「阿弥陀仏」のことですが、何やら難しい解釈があるようですので、この辺りでお茶を濁しておきます……。