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在所の近くで、小さい頃は帰省の度に通っていたのに、そういえば行ったことがなかったもので。
◯こちら===>>>
鳳凰山甚目寺(甚目寺観音)愛知県あま市 公式ウェブサイト - 愛知県あま市甚目寺東門前24番地 電話 052-442-3076
三重塔が目立ちます。
仁王門前。
黒ずんでしまったのが、逆に渋みを深めています。
道の行き止まり、みたいなところにあるので、矢印が必要なのだと思います。
仁王門には、やっぱり草鞋です。
本堂。
最近修復したものなのか、朱塗りも鮮やか、です。
大きく開けた空間がありまして、厳かながら、何となく庶民的な身近さがあります。
公式HPによりますと、
「仏教が伝来した宣化3年(西暦538)よりわずか60年後の推古5年(597)のこと、伊勢甚目(はだめ)村の漁夫、龍麿という人が、江上庄の入り江(現在の甚目寺の東南約200mあたり)で魚をとっていました。
その網に黄金の聖観音像がかかり、歓喜した彼は入り江の北にお堂を建て、像を納めました。
これが甚目寺の始まりと言われています。法隆寺や四天王寺に次ぐ我国有数の古刹です。」
とあります。
このように日本では、
仏像がよく網にかかります。
文化は漂流物、というメタファーか何かでしょうか(拝仏派と崇仏派の決着がついていない時代のこと、異国(からくに)の神の像なんて海に捨てちまえ、というのがわりと普通にあったためだと思いますが)。
「釈迦堂」。
一緒にまつられているのが、「御狙様(おそそさま)」と呼ばれる神様。
中は写真に撮れませんが、女性型の神様です。
「女性の肌荒れ、赤ちゃんの痣の痣の平癒にご利益」があるらしいです。
「狙」という字は誤字だろうと思ったのですが、どうも正しいようです。
関西では、「おそそ」といえば女性器を指す言葉らしく、「狙」という字も書くのだそうです。
「狙」の意味は「ひそかにすきをうかがう」なので、つまり、女性のそういう場所が「ひそかにすきをうかがう」対象だった、という男性優位社会のありようが伺えますね、なんて知ったかぶりをしてみました(他には、「猿」の意味でもあるようです)。
女性の神様で、安産の神様でも夫婦円満、縁結びの神様でもない、というのは案外珍しく。
比較的新しい段階で、こういった信仰が成立したのではないかと思います。
が。
多分、ここには、「春をひさぐ女性達」がいたんだと思われます。
宗教施設ですから(偏見)。
そういった伝承が残っているのかどうなのか。
今度調べてみたいものです(きっともう、誰か調べていると思うので)。
例の「まとめサイト」的スポットです。
ミニチュアと言い切っているところに、開き直りの美学を感じます。
「東門」。
銅葺なんですねぇ。
案内図。
本堂から時計回りに廻っております。
きました「十王堂」。
あ〜、中が撮影したかったです。
名古屋のみなさん、津島といい甚目寺といい、近くに「十王堂」がありまっせ〜。
是非とも行っていただきたい。
そして、そのあとで『黄門☆じごく変』を読むと、味わいも格別です(なんで?)。
で、十王様や奪衣婆を撮影するのは控えましたが、こんなものをこっそり。
審判の神様は、秤が大好きです。
エジプトのアヌビス神も、似たようなものを持ってますよね。
これで、罪の軽重だとか、魂の価値だとかを量るんだと思います。
「六角堂」、地蔵堂ですね。
千体地蔵が安置されています。
「不動堂」。
その奥に、
お堂が二つ。
何のお堂だか……調べるのを忘れていました。
「三重塔」。
なかには愛染明王が安置されているようです。
比較的新しいですね。
お猫様。
「弘法堂」。
……ぼろぼろになりつつある、という感じです。
こちらは「明王堂」。
烏芻沙摩明王(東司の守護神)をお祀りしています。
「本堂」のすぐ隣に、「弁財天」と「白山大権現」。
「弁財天」が社に祀られているところに、神仏習合の名残りを感じますな。
裏から「三重塔」。
みえやしねぇ。
さて、「甚目寺」に隣接して、「漆部神社(ぬりべじんじゃ)」があります。
石造りの蕃塀は、なかなか珍しいかも、です。
比較的新しい社殿です。
で、正面ではない参道を戻っていくと、
「日露戦役記念碑」ですって。
「八大神社」の石柱と、
もっと戻ると「日吉社」の石柱と鳥居。
こちらは、「甚目寺」から直接通じて行けるわけです。
「延喜式神名帳に国弊小社として載っている」
「鎌倉時代には、従三位として知られ、国司の幣帛を受けている」
「南北朝以後は荒廃して、室町以降は八大明神社と称された」
「維新の地、郷社の社格が与えられ、昭和32年に元の「漆部神社」に戻した」
とあります。
御祭神は「三見宿祢命(みつみのすくねのみこと)」、漆部の祖先神です。
「部」がついていますので、職能集団でした。
『先代旧事本紀』によれば、「三見宿祢命」は「漆部連の祖」とされ、「饒速日命」(尾張国の祖先である火明命)の五世孫のようです。
「饒速日命」がこの辺りに勢力を持っていたようですので、多分それにくっついてきた集団が、自分の祖先を「饒速日命」だと言っちゃったんでしょう。
言ったもん勝ちです。
「延喜式神名帳」に書かれた神社は、案外多いものですが、こんなところでお目にかかれるとは思いませんでした。
時代を経て、同定が難しい神社もあります。
しかし、ここまで明白な名前を残しているとなると、疑う必要はない、のかもしれません。
さて、戻って「三重塔」三たび。
「秋葉堂」。
「秋葉三尺大権現」を祀っています。
ここにも神仏習合の名残りがありますね。
「秋葉神社」もいずれ行かなければ……。
「法花院」。
石仏は……最初、馬頭観音かと思ったのですが、普通の観音様ですかな。
そして、境内を出まして、
「大徳院」。
推古六年(598)の創建で、「恵比須大黒」像は源頼朝によって奉安されたそうです。
さらに、あの左甚五郎が、慶長十二年(1607)に参拝し、「恵比寿大黒」二天像を彫り、これが今の本尊なのだそうです。
すげぇな「甚目寺」……。
撫で「恵比須大黒」。
「本堂」。
立派な押し出しの建物です。
願掛け「恵比寿大黒」。
ひもを結ぶんだったかな……。
他にも福神らしく、いろいろな開運グッズがありました。
「水えびす土大黒」というのが珍しいでしょうか。
あ、いえ、いただいていませんので、どんなものかわかりませんが。
うーん、御朱印がいただけたのか……失敗したな……。
遠くに行くのもいいですが、近場もせめていきたい、と思う日々です。
地元愛が強いわけではないですが、やはり身近なものを知っておきたいなぁ、と思いますもので。
「漆部神社」は、手書きではありませんでしたが、神紋が「陰陽」になっているのが、なかなか珍しいと思います。