ちょっと趣向を変えて。
以前に書いた記事について、その後に読んだ本の情報を書いてみようかと。
まず、『温羅伝説』。
岡山県には「岡山文庫」という県内の百科事典的文庫シリーズがあります。
その中の『温羅伝説』を購入したので、そこから何か考えてみようかな、と。
吉備津彦神社(備前国一宮) - べにーのGinger Booker Club
吉備津神社 - べにーのGinger Booker Club
『温羅伝説』によれば、時代とともに温羅に関する伝説は変わっていっています。
(1)延長元年(923)に成立したと書かれている(実際には室町時代と思われる)『鬼城縁起(きのじょうえんぎ)』
・時代は孝霊天皇の頃(第七代)。
・温羅の名前はなく、「剛伽夜叉(ごうきゃやしゃ)」と呼ばれる鬼神がインドから飛来した。
・暴虐を働く鬼神退治に、「吉備津彦命」が派遣された。家臣の名前として、「夜目丸(よめまる)」(夜に乱暴を働く鬼神を見張った)、「楽々森舎人(ささもりとねり)」(戦奉行)。
・鬼神が愛したのは阿曾女(あそめ)で名前は「安良女(あらめ)」。阿曾之庄(総社市阿曽)の出身。
・「住吉神」が顕われて、苦戦する「吉備津彦」に助言。「二本の矢を同時につがえて射る」。
・鬼神は逃れる為に変身。「童子→鯉」。「吉備津彦」も変身、「鵜」になって鬼神を捕える(捕えた場所が、「鯉喰神社」の辺り)。「楽々森舎人」は、鬼神の逃げた川の水を吸い取るよう命じられる。
・鬼神は首をはねられたが、さらされても泣きわめく。「吉備津彦」は、「犬飼氏」に命じて、首の肉を食わせるが、骨になっても唸り続けた。「吉備津彦」は、竃の下に頭蓋骨を埋め、「安良女」に飯炊きをさせる。「鳴釜神事」を思わせる。
・孝元天皇の時代(第八代)。異国の王がやってきて、日本の西半分を支配した、という設定。
・異国の王は「冠者」と呼ばれていた。
・派遣されたのは、「一宮彦命」。
・「一宮彦命」が「一計を案じ」て、「矢を二本同時に射た」。
・「冠者」より「一宮彦命」に、「領土に因んで、一宮吉備津彦大明神と号されよ」と告げられた。倒されたようだが、殺されたとは書かれていない。
・後日談として、「冠者」は、御竈殿(「吉備津神社」)の霊主となって、吉凶を占うことになった。「鳴釜神事」の由来。また、「冠者」は「新羅国王」ともされた(っぽい)。
・神功皇后の征韓の際、「諏訪の神」、「住吉の神」とともに、「吉備津の神」は敵を平定した、と伝えられる。
・桓武帝の時代、比叡山の慈覚大師(円仁)が入唐する際に、海が荒れたので吉備津宮に祈ると、穏やかになった(このとき円仁は、求聞持法を会得した。このことから、「吉備津彦命」の本地は「虚空蔵菩薩」と考えられることとなった。後世の附会)。
(3)元禄十三年(1700)筆写された『備中吉備津宮縁起』(『神道大系神社編三十八 美作・備前・備中・備後国』)
・時代は不明ながら、孝霊天皇皇子のこととされているので、その辺り。名前は、「イサセリ彦」。
・「白斉国皇帝」が、大唐国から追放され日本へ。備中国の阿曾郷にたどり着き、城郭を築いた。「吉備津冠者(きびつのかじゃ)」と称する。西国から都へ運ばれる年貢を奪っていた。
・「イサセリ彦」が派遣される。鬼の城攻略に手間取るも、「二本の矢を同時に射る」ことを思いつく。
・敗色濃厚となり、「吉備津冠者」は変身、「鵜」に化ける。「イサセリ彦」は「鷹」になる。次いで「吉備津冠者」は「鯉」に、「イサセリ彦」は「鶇(らい)」になって捕まえる(このとき、「吉備津冠者」の従者の鬼神も捕まる。「吉備津冠者」に矢を渡す鬼神で、「矢取御前(やとりみさき)」として祀られている)。敗北するが、殺されていない。
・「吉備津冠者」より、「自分の名を、イサセリ彦の名前とするように」と告げられ「吉備津彦命」の名を受ける。このとき、「イサセリ彦が死後に神となったら、自分はその使いとして、信仰者に賞罰を与える」ことも告げる。「鳴釜神事」の由来。名前を譲ったあとの「吉備津冠者」は、「丑寅御前(うしとらみさき)」と呼ばれる。
・「丑寅御前」は死して尚神通力をふるう。
・神功皇后の新羅征伐の際、「吉備津宮」の神霊は神功皇后を護った。
(4)古典文庫第三一五冊『未刊謡曲集 二十一』(昭和48年、古典文庫』より「吉備津宮 磐山トモ」
・孝霊天皇の皇子・「イサセリヒコノミコト」の頃。
・異国に「吉備津の冠者(火車)」という王子がいた。大変悪行を行なったので、日本国(扶桑国)に流された。備中に城を築き、日本の西国を支配下に治めた。
・「イサセリヒコノミコト」派遣される。一計を思いつき、「二本の矢を同時に放つ」。
・「吉備津の冠者(火車)」は「雉」に変身して逃げるが、「イサセリヒコノミコト」は「鷹」に変身して追いかける。「鯉」に変身すると「ミコト」は「鵜」に。
・捕まった「吉備津の冠者(火車)」は、「自分の名前をミコトにお譲りする」と言う。「イサセリヒコノミコト」は「吉備津彦ミコト」と称されるようになった。また、「命が将来神となったとき、自分はその末社となる」とも。
(5)『備中国大吉備津宮略記』(江戸時代後期作、『神道大系神社編三十八 美作・備前・備中・備後国』より)
・垂仁天皇(十一代)五年、百済の王「温羅」が九州へ、そして吉備の国へきた。城を築いて、西国から都への貢ぎ物を略奪。阿曾の祈祷師の娘「アジョヒメ(安叙姫)」を寵愛した。
・「ササモリヒコノミコト(楽々森彦命)」と「トメタマノオミ(留玉臣)」は、播磨国へ向かい、「吉備津彦命」の出陣を懇願。
・「吉備津彦命」のもとに、「ウジカノアタイ(宇自可直)」、「キビノアマベノアタイ(吉備海部直)」、「ヤメヤマヌシノミコト(夜目山主命)」とその子ども「ヤメマロ(夜目麿)」、「ササモリヒコノミコト(楽々森彦命)」、「トメタマノオミ(留玉臣)」、「片岡のタケル(建)」、「和田のシュクナマロ(叔名麿)」、「中田のフルナ(古名)」、「イヌカイタケル(犬飼武)」、「ミトモワケノミコト(御友別命)」、「カモノワケノミコト(鴨別命)」等等。
・「吉備津彦命」は「温羅」を兵糧攻めに。それでもなかなか降参しない。不思議な人物が顕われ、「自分は吉備の中山の主」だといって、陣を張るべきところを教える。実際には、「温羅」の城に食料はないことがわかる。
・矢の打ち合いは互角。「吉備の中山の主」が現れ、「二本の矢を一度に射るように」と助言。
・劣勢になった「温羅」は神通力で雨を降らせて、その水に逃げ込んだ。「ササモリヒコノミコト」は水に潜るのがうまく、「温羅」を追いかける様は「鵜」のようだった。「温羅」がつかまったときは「鯉」に化けていた。
・「温羅」は降参して、「吉備津彦命」に仕えることとなる。死んだ後、龍になって飛んでいった。「吉備津彦命」の夢枕に立ち、「自分の妻である阿曾姫に、お釜殿で食事を炊いて奉仕させる。何か起こったら釜の前にくれば、釜が鳴って吉凶を伝える」。「鳴釜神事」の由来。
(6)『吉備津宮縁起』(嘉永六年(1853)成立)
・垂仁天皇(十一代)の時代。
・百済国の皇子で「温羅」というものがいた。日本を支配しようとやってきて、備中国に至る。西国から都への貢ぎ物を略奪。
・「吉備津彦命」は妙術を思いつき「二本の矢を一度に射る」。
・「温羅」は「キジ」に変身、「吉備津彦」は「タカ」に変身。また、「温羅」は「鯉」に変身、「鵜」に変身した「吉備津彦」に捕まる。
・「自分は吉備津神社の末社となって、吉備の国の人々を護りたい」と言って死去。
・「吉備津彦」に、陣を張る場所を教えた老人が登場。「天神である」と名乗る(≠菅原道真)。
・「鳴釜神事」の由来として、「祈祷の度にこの世に現れて、鳴釜となる」と「温羅」が告げたという。お釜殿に仕えるのは、「温羅」のいた阿曾村の老女「阿曾女」。
(おまけ)『梁塵秘抄』(1179年)
・「吉備津神社」の北随神門には「日芸麻呂(ひげまろ)」と「夜目麻呂(やめまろ)」、南随神門には「中田古名命(なかたのふるなのみこと)」と「犬飼建(いぬかいのたける/片岡建とも)」が祀られている。また、本殿の丑寅に祀られている「艮御前(うしとらみさき)」は恐ろしい神である。
全然進まなかったので、妄想的考察は次回に(ちゃんとした考察は『温羅伝説』を読みましょう〜)。