10/21。
「長谷寺」を後にして、メジャースポットへ。
ここまで来たら、そりゃここでしょう、の「高徳院」。
かまくらの大仏さん、です。
◯こちら===>>>
……そうか、本堂ないんだ。
「東三十三カ国 総国分寺」と読めます。
横には「享保元和」と読めますが、何年かは定かでないです。
ちょっと検索しても、国分寺だったかどうかはわかりませんでした。
仁王門。
どこからか、移築されたもののようです。
近くで見るのもおつですが、遠景がやっぱりいいですね。
この、背中に開いている部分から、何か噴射するんじゃないか、といつも思います。
国宝です。
廻廊の様子。
転々とある石は、かつての大仏殿の礎石だということです。
昔は、堂宇があったんですね(そりゃそうだろう)。
裏手にある「観月堂」。
15世紀、朝鮮半島の王宮内に建っていたもの、らしいです。
大正13年(1924)、「山一合資会社」の社長である杉野喜精氏によって、東京から移築されたそうです。
……なんだっけ、「山一証券」って?
今は、内部に観音様をお祀りして、鎌倉観音霊場の札所になっています。
半島の王宮に建っていたものが、いつの間にか東京に移築され、また鎌倉に。
どんな効験のある建物だったんでしょうね。
与謝野晶子の句碑。
他にも句碑などが、いくつか、境内に見受けられます。
……うーん、何か歴史を書こうにも、中世は全く持って弱点なので、何も書くことがありません。
検索すると、どうやら『吾妻鏡』に、大仏建立の記事があるらしいです。
でも、開山も開基も誰だかわからない。
このよくわからない感じが、京都や東京と違うところですね。
西洋史でも、「暗黒の中世」という言い方をしますが(そして、決して的を射ているわけではないのですが)、江戸期ほど文献資料が豊富ではなく、京都のように永く日本の中心だったわけでもない、東国の田舎である鎌倉の宿命なのかもしれません。
日本の政権の変遷を見ていくと(都は一貫して京都ですが)、何となく、鎌倉って徒花っぽいですよね。
そうでもないですか?
そうですか。
ま、ともかく、いずれ鎌倉(というか、中世)の勉強もすることとしまして。
本日は終了〜。