10/21。
「銭洗弁天」をあとにして、今回の裏メインイベント。
江の電に乗って移動します。
行き先は、「御霊神社」。
◯こちら===>>>
長谷駅で下車して、海岸に向かって10分ほど歩き、そのまま右に折れまして、しばらく進んで、また右に。
和菓子屋さん(だったかな)の角に石柱発見。
「五靈社」となっていますね。
ここから入っていきます。
参道は、江の電の線路をまたいでおります。
「御霊神社(鎌倉権五郎神社)由緒
当社の創建は平安時代末期と推定され、当初は関東平氏の祖霊を奉祀していたが、後鎌倉権五郎景政公一柱となる
源頼朝公始め幕府の崇敬篤く「吾妻鏡」に御霊社鳴動して奉幣するなど所処に記事散見する奇瑞ある神社として有名である
祭神景政公は桓武天皇の末裔、鎮守府将軍平忠道を祖父とし父鎌倉権守景成の代より鎌倉に住し、鎌倉党武士団を率いる一方現在の湘南地域一帯(戸塚、鎌倉、鵠沼、藤沢、茅ヶ崎)を開拓した開発の鎮守でもある
景政公十六才にて奥州後三年役(永保三年(1083)〜応徳四年(1087))初陣す。左眼に矢を射立てられしも屈せずして答の矢を射て相手を斃し陣中に帰り、その矢を抜かんと面部に足を掛けし三浦平太の無礼を刀を構えて叱咤した公の剛気と高い志は歌舞伎にもなり武士の鏡と永く仰がれている」
こちらでは、『海道記』中の記述と、鎌倉に一時住んでいた国木田独歩のことが書かれています。
社務所前にあるタブノキ。
時間を見計らうと、鳥居の向こうを江の電が走る様が見られます。
向かって右の方から……来てるんですよ、暗くてわかりませんけれども。
拝殿。
小振りながら、しっかりした造りです。
権現造っぽいので、江戸期のものでしょうか。
さて、ここからがワンダーランド。
「御獄社(おんたけさん)」。
「国常立尊(くにのとこたちのみこと)」、「大穴牟遅神(おおなむちのかみ)」、「少名毘古那神(すくなひこなのかみ)」。
中心の碑には「八海山神社」「三笠山神社」とあります。
「木曽の〜ぉ〜なかのりさん」……じゃない、「木曽のおんたけさん」、「王滝御嶽神社」の五合目と七合目にある神社のことですね。
向かって左の「白川神社」も、多分「王滝御嶽神社」関係の、白川少将重頼をお祭りしているものと思われます。
「長嵜神社」がよくわかりません。
向かって右には、「神武天皇」。
これは、何となく新しそうです。
その隣は、「大穴牟遅神」「少名毘古那神」。
どちらも「王滝御嶽神社」にお祭りされております。
所謂御嶽講については、いずれ勉強したいと思います(中世以降様々な「講」と呼ばれる信仰が流行し、その数がどのくらいなのかはさっぱり知りません。有名なものは、「富士講」、「庚申講」等等)。
こんな感じで残っていても、「御嶽講ってなに?」という人が多いんだろうなぁ……と思うと何か残念です(私もその一人ですが)。
こうしてまとまって、御山のようになっているところは案外少ないのではないかと。
そのまま、神社境内を巡っていきます。
出ました「庚申塚」。
「庚申堂」と彫ってあるので、以前はお堂の前におかれていたのでしょうか。
隣は「青面金剛」。
金剛とつくくらいなので、元々は仏教の神で、「五帝薬叉」のうち「東方青帝薬叉神」のことであるそうです。
で、庚申講というのは、元々は道教の信仰で、「体の中にいる三匹の虫が、庚申の日の夜に、眠った隙に体を抜け出して天帝に報告に行く。それを防ぐために徹夜しまっせ」、というものです。
この「庚申待ち」の守護神が、「青面金剛」なのです。
うーんと……よくわかりませんな。
もっと詳しく解説している本がたくさんあると思いますので、それらを参考に。
「庚申講」で「見ざる・言わざる・聞かざる」の「三猿」を祀るのは、「庚申」の「申(さる)」と引っ掛けてあるんですね。
体の中にいる虫も「三匹」です。
この虫が「見ざる・言わざる・聞かざる」を決め込んでくれればいいのい〜、といったところでしょうか。
多分ね。
「青面金剛」自体は、
こちらです(これが「蔵王権現」や「馬頭観音」ではない、という保証はありませんが、多分「青面金剛」です。側面に鶏が彫られていて、「早く鳴いて朝になんないかなぁ」という「庚申待ち」の辛さが表現されている……のかもしれません)。
「地神社」。
「大地主神(おおとこぬしのかみ)」をお祭りしています。
そもそも、「地主神(じぬしがみ)」というのは、その土地土地にいらっしゃるもので。
多くは、土地の支配者だったり、開拓者だったりを祀っていたはずです。
その、一般名詞化したものが「大地主神」で、これは「大国主神」と同じような意味でしょう。
元々の名前はもはや伝わっていませんが、「地主神」として今も崇敬されている、ということです。
「石上神社(いしがみじんじゃ)」。
「石上神宮」とは関係ないです。
「昔、御霊神社の前浜にあった巨石に多くの船が座礁し、多数の人命が奪われた。海神の怒りと悟った村人はこれを曳き上げその上部を祀って石上神社と称した」
とあります。
七月に「御供流し」神事というものが行なわれるそうです。
お供え物を海に流すのですが。
それほど大きくない規模の神社で、末社の祭事をしっかり行なっているということが、このお社の力の大きさを物語っていると思います。
本当に昔は大変だったんでしょう。
「金刀比羅社(こんぴらさま)」。
言わずと知れた、ですね。
海が近いからか、海関係のお社も多い気がします。
遠景はこんな感じ。
何やら、工事が行なわれていました。
「第六天社」。
「神代七代」と呼ばれる、原初の神々の六代目「面足神(おもだるのかみ)」と「訶志古泥神(かしこねのかみ)」をお祭りしています。
本地垂迹マジックにより、欲界他化自在天すなわち第六天魔王と関係付けられております。
いくらなんでもやりすぎだろう
、と思ったりします。
こうした小さなお社でお祀りされていて、驚くことがあります(大きな「第六天神社」が、浅草辺りにありましたかな……記憶が曖昧)。
賽銭箱……ではなくて手水鉢かな。
「伍霊宮」と彫られています。
「祖霊社」。
景政公が手玉にとり、袂に入れた石、だそうです。
剛力ですな。
神輿舎。
「鶴岡八幡宮」の神輿と同型、と伝わっているそうで、政策は江戸自体ですが、様式は鎌倉室町のもののようです。
「弓立の松」。
景政公が、弓を立てかけたところからその名がついたそうです。
昔は、「弓を立てたような形」をしていたんじゃないでしょうかねぇ。
「布袋」と「福禄寿」。
珍しい組み合わせです。
こちらは、江の島七福神では「福禄寿」をお祭りしていますから、その関係でしょうか。
「布袋」は何だろう?
「秋葉神社」。
「稲荷社」。
どちらも、それなりの規模の神社でなら見ないことの方が少ないですね。
かつての大鳥居(左下に写ってるやつです)。
そして、こちらの神社を有名にしているのが、「面掛行列(めんかけぎょうれつ)」です。
鎌倉権五郎景政公の命日とされる九月十八日に実施される祭事です。
それに使われる面を、百円お支払いすると見られる、ということで、社務所に声をかけて、蔵を開けていただきました。
中が撮影できないのは当たり前ですが、まさか蔵の写真まで取り忘れるとは……。
(※最初に広告が入ります)
みんな大好きWikipediaによれば、「かつては鶴岡八幡宮の放生会の際に行なわれていた」そうです。
「放生会」というのは、何かを放つ仏教的儀式で、「殺生戒」を説くもの、のようです。
日本での起源は「宇佐八幡」らしいので、しょっぱなから神仏混淆ですが。
で、元々は「鶴岡八幡宮」にあった面を、明治時代の神仏分離に伴って、こちらに遷した、ということです。
「放生会」という仏教的な名称も改められたそうです。
つまり、鎌倉権五郎景政公とはほとんど何の関係もない行事なわけです。
……おや?
何か変だな……。
ああそうか。
神仏分離して「鶴岡八幡宮」から遷されたということは、この「面」が仏教的なものだ、という意味のはずです。
でなければ、そのまま「鶴岡八幡宮」に置かれてもよいはず。
なのに遷した、その先が、何故神社だったのか?
……明治政府のロジックがよくわかりません。
何かもっと意味があるのか……。
さてさて、この「面掛行列」にまつわる伝承では、源頼朝公が、この地にあった長吏頭(非人、と呼ばれる人達のリーダー)の娘をはらませてしまった、と。
その詫びに、年に一回、無礼講を認めたそうです。
そのとき、この娘の格好をして町中を練り歩いたのが始まりであり、「非人面行列」と呼ばれていたそうです。
伝承とはいえ、やけに具体的で筋が通っているところを見ると、近いことがあったのではないかと思わせます。
それに、ちょっと順序が違うのではないか、と。
「娘をはらませた」→「無礼講を認めた」→「面をつけて町中を歩いた」、
のではなく、
「娘をはらませた」→「面をつけて町中を歩いた」→「無礼講を認めた」、
ではないか。
つまり、面をつけての行列が、かなりの威力を伴った示威行動だったのではないか(デモか、打ち壊しみたいなものです)。
それにびびった支配者層が、お詫びに「無礼講を認めた」と考える方が筋が通ります(……って、高田崇史氏が書いていたような気がします)。
ついでに、はらまされた娘自身ではなく、その娘に扮して町中を歩いたという辺りから、この娘がそのときすでにいなかった→「殺されていた」のではないか。
だから、その一族が激怒しての示威行動に出たのではないか。
なーんて推測もできたりします(……って高田崇史氏が書いておられたような気がします)。
無礼講は、庶民のガス抜きとして非常に重要で、恐らく洋の東西を問わず行なわれてきました(西洋でも、庶民が王様や聖職者に扮してめちゃくちゃやらかす、という祭りが各地にありました)。
この日ばかりは、普段の支配構造が逆転するのです。
つまり、身分制度が強固なほど要請されるもので、現代に至る中で失われていくのは必至なものでもあるのでした。
さてさてさて。
「御霊」には、怨霊をお祀りしてその神威を借りる、という意味と、「祖霊」の意味とがあるとされています。
そういう意味では、この「御霊神社」は後者に当たるでしょう。
また、「五霊」「伍霊」という表記が散見できるように、元々は鎌倉氏を始めとする、有力な五つの氏族の「祖霊」を祀っていたものが、次第に鎌倉権五郎景政公の「五郎」と習合していき、最終的に「御霊神社」と呼ばれるようになったのではないか、と考えられます。
と、見所満載の「御霊神社」。
小粒ですが、とても楽しい場所でした〜。