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美濃国一の宮「南宮大社」にお参りしたので、このまま岐阜県の神社をいくつか回ってみよう、しかし天気はあれだし、時間もあまりない。
というわけで、「御首神社(みくびじんじゃ)」に決定。
◯こちら===>>>首から上の大神様|御首神社
なかなかストレートなネーミングです。
「おくびじんじゃ」と読んでいたことは内緒です。
比較的、こじんまりした造ながら、風格を感じさせます。
社殿に瓦が使われていると、比較的新しい神社なのだな、とわかります。
しかし一方で、明治の神仏分離・廃仏毀釈の頃に、「復古」運動があったため、あえて古い様式を持ち出して建てられた新しい社殿があったりします。
そうすると、瓦屋根でも室町時代から残っている社殿の方が断然古いわけです。
様式の新旧と、実際の新旧とは違う、ということを覚えておきます(私が)。
「主神
相殿
南宮神社(金山彦命)
鍬山神社(豊受大神)
末広稲荷神社(伏見稲荷神社御分霊)
御創建の由来
今から約千年前、平将門は時の朝廷の政策に憤りをおぼえ乱(天慶の乱)を起した。しかし藤原秀郷、平貞盛等に鎮められ将門は捕えられ首を討たれた。その首は京に送られさらし首となったが、故郷恋しさのあまり獄門を抜け出し関東へ戻ろうと飛び立った。この異変を知り美濃国南宮神社では、将門の首が関東に戻ることにより再び乱の起こることを恐れ祈願したところ、神社に坐す隼人神が矢をつがえ東に飛びゆく将門の首を射落とした。(後略」
平将門公の首が落ちた、荒尾の地に作られたのが、こちらの「御首神社」、なのだそうです。
首から上に身につけるもの、を自分の代わりに奉納するところ。
絵馬なんかと似たような発想ですかね。
ちょっと違うか。
さざれ石。
「末広稲荷神社」。
おもかる石っぽいです。
今ひとつ読めませんが、摂社のどちらか、でしょう。
「御首神社」の杜。
地元の崇敬厚いことが伺えます。
すぐそばのお寺「圓成禅寺」。
さて、日本人の判官贔屓は昔からのようですが(日本人に限らず、人間誰しもそういった部分を持っているものですが)。
現代でも力を持つ最強の怨霊は、言わずと知れた菅原道真公です。
怨霊でありながら、学問の神でもあるので、日本中に天満宮があります。
その次は、といえば、平将門公でしょうか。
武の人なので、平和な時代になれば、天神様のような崇敬を集めるのは難しかったでしょうが、地元関東では大人気です。
首だけになりながらも、故郷を目指して飛んでいったんですから見上げたものです(文献で確認できる歴史上、最初にさらし首にされたのが将門公だ、という話です)。
「神田明神」もそうですが、「首塚」、「鎧神社」、「兜神社」、他にも腕や脚が落ちたとされる場所でそれぞれお祀りされています。
ここまでバラバラにされながら、なおそれぞれが力を持っていると信じられた平将門公ですが、日本全国(主に近畿〜関東でしょう)に伝わる将門伝説を集めて、体を組み立ててみたら、多分、人間一人分では収まらないでしょう。
世界中に伝わる仏舎利(仏陀の骨)を集めたら、お釈迦様は巨大ロボみたいな大きさになる、という話があります。
キリストの聖遺物とされるものも、似たようなものでしょう。
当時、平将門公のシンパか、残党かわかりませんが、そういった人達が、公の首をさらしておくのは忍びないから、奪い取った、としたらどうでしょう。
そして、関東、ふるさとに持ち帰る途中で、公の勇猛果敢な伝説を説いて回った。
あるいは、追っ手に阻まれて命を落としたシンパ・残党もいたことでしょう。
その弑された土地が、将門縁の地、として後世に伝えられていく。
この「御首神社」も、そうした中の一つだったのではないか、と思います。
さてさて、「御首神社」の社伝に、前回の「南宮大社」にもひっそりと祀られていた「隼人神」が登場しております。
恐らく、九州に住んでいたとされる「隼人」達の神なんでしょうけれども、問題は、何故に「隼人神」が、平将門公の首を落としたのか、です。
「隼人」は、考え方はいろいろありますが、大和朝廷(の礎を築いた王朝)に服属した(あるいは、協力して権力中枢に近づいた)、九州の一大勢力だったのだと思われます。
記紀神話から受ける印象としては、服属した、というよりは、服属させられた、が正しいかもしれません。
そうするとですね、朝廷に弓引く「まつろわぬもの」として、「隼人」と平将門公は、似たようなベクトルを持っていた、ということです。
ところが「隼人」、すっかり体制派になってしまったのか(元からそうだったのか)、同じように朝廷に反旗を翻した平将門公の首を、弓矢で射落としたことになっています。
これは、「毒をもって毒を制す」というやつでしょうか。
単に、「隼人神」に、そういった造反者を取り締まるだけの力があったのか。
うーん……誰か、教えてください。
さてさてさて。
ここで気になることがもう一つ。
相殿にお祀りされているのは、「南宮神社」の「金山彦命」と、「西宮神社」の「蛭子神」です。
「南宮神社」はともかく(「隼人神」が活躍しましたから)、「西宮神社」の「蛭子神」は一体、何故勧請されたのでしょうか。
・「南」と「西」、南西。南西からやってくるものから神社を守りたいのか、逆に北東に睨みをきかせているのか……おっと、鬼門ですか。
・「南宮神社」の「金山彦命」は五行としては「金」、「西宮神社」の「蛭子神」は(多分)「水」で、ここに何らかの意図があるのではないか。
・「南宮大社」の記事でも少し触れましたが、「南宮大社」は諏訪の大神と関係があるかもしれません。
諏訪の大神は、すなわち「建御名方神」です。
「武南方神」とも表記することから、「南方神社」はもとより、字の近い「南宮神社」でも信じられるようになったのではないか、というお話があります。
そして、「南宮大社(神社)」が、実は「建御名方神」をお祀りしているのであれば、ここで「御首神社」関係者がなにやら思いついたのではないでしょうか。
「西宮神社」の御祭神は「蛭子神」、つまり「恵比寿様」、ということは回り回って「事代主神」でもあります。
「建御名方神」と「事代主神」は、国譲り神話で語られる通り大国主命の御子神です。
相殿に、同格で祀られている、というところから、「西宮神社の蛭子神」=「事代主神」であったとすれば。
「御首神社」で祀られている「南宮神社」の祭神は、「金山彦神」ではなく、「建御名方神」である、ということが言いたいのかもしれません。
……だから何だって話ですね。
とりあえず、オチはありません。
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