べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「都波岐奈加等神社」

8/26。

もう一つの伊勢国一の宮にも参りました。

「都波岐奈加等(つばきなかと)神社」

(※公式HPはないようなので、wikipediaとかをご参照ください)。

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暗いなぁ……。

駐車場があることを知らず、離れたコンビニに無断駐車(買い物はしたけどね)して急いでお参り、しかも雨が降りそうだったので、ゆっくりできておりません。

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拝殿は新しく、コンクリート作りです。

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透垣の向こうに見える本殿は、神明造。

こちらがコンクリートなのかどうかは、わかりません。

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石碑。

猿田彦命」とあります。

手作りを思われる「参拝者の栞」と、お祀りのお下がり(おまんじゅう)まで何故かいただいてしまいました……。

栞によると、

「当都波岐奈加等神社は、延喜式内で小社ではあるが、伊勢国一の宮である。創立は、雄略天皇の二十三年三月で、猿田彦大神八世の孫、伊勢国高雄束命(たかおわけのみこと)が勅を奉じて伊勢国河曲県中跡里(現鈴鹿市一ノ宮町)に二社を造営し、その一社を「都波岐神社」、また他の一社を「奈加等神社」と称したのが始まりである。社殿は、一つで二社が相殿の神社である。」

とのことです。

他にも、淳和天皇の天長年間には、弘法大師が籠って、獅子頭を二口奉納した」とか、白河天皇より正一位を授けられ、宸筆の額を賜った」とか、足利義満富士登山の帰りに参拝し、社領を寄進した」とか、往時はかなりの勢力を誇っていたことが伺えます。

その後、織田信長の伊勢平定で社殿を焼かれはしたものの、再建後は再び大きな勢力を得て、明治時代には県社になったそうです。

ええと、明治期の社格については、中央神祇官所管の「官幣社」と、地方官所管の「国弊社・府県社・郷社・村社・無格社」とありまして、国の制度ですのでいろいろあるわけですが、昭和二十年の時点で、府県社は全国1148社あったそうなので、多いのか、少ないのか……しかし、地方官所管の官社の半分以上は「無格社」だったことを考えると、「県社」と位置づけられることは勢力を持っていた証なのでしょう。

大戦後はどうやら衰退してしまったようで、平成九年には拝殿・祝詞殿が焼失。

しかし、氏子さん達によって、翌年には拝殿が再建されたそうです。

だから、新しいんですね。

本殿には、「都波岐神社」に「猿田彦大神」、「奈加等神社」に「天椹野命(あめのくぬのみこと)」、「中筒之男命」がお祀りされています。

他、境内社には「小川薬王子社」と「神明春日社」があるそうです。

「天椹野命」というのは、えーとですね……説明するのが面倒なんですが(知らないし)、「ニギハヤビノミコト」という記紀神話に登場する方がおられまして、その方が天孫降臨より前に天降っていた、という伝承があるんですね。

で、その「ニギハヤビノミコト」と一緒に降ってきた中に、この「天椹野命」がおられたそうです。

詳しくはですね、『先代旧事本紀』でも読んでいただければわかるんじゃないかと(わからなくても怒らないでくださいね)。

「中筒之男命(なかつつのおのみこと)」は、「住吉三神」の一柱で、普通は三柱セットでお祀りされているんですが(住吉神社)、どうしてこのお方だけ特別にお祀りしているのか。

多分ですけれど、「天椹野命」は中跡直(なかとのあたい、と読むのでしょう)の先祖ですから、地名と名前が似ている「中筒之男命」も祀っちまえ、くらいの話ではないでしょうか。

……適当です、すみません。

「都波岐神社」は「椿大神」、「奈加等神社」は地名である「中跡」からとった名前だったわけですね。

さて、「椿大神」こと「猿田彦大神」ですが。

日本書紀』には、「鼻の長さ七咫、背の高さ七尺余、また口尻明く輝れり。眼は八咫鏡の如くにして、照り輝くこと酸漿に似たり」、と描かれています。

……「猿」と全然関係なさそうですよねぇ(「さる」という言葉自体は、『万葉集』に出てくるようですし、アイヌ語源とも考えられているようなので、古くからあると思われます)。

出雲国風土記』に、「佐太大神(さだのおおかみ)」という神のことが書かれておりまして、出雲国二宮に「佐太神社」があります。

 

◯こちら===>>>佐太神社公式ホームページ

 

「佐太」と「猿田」の音的な近似から、この「佐太大神」を「猿田彦大神」とする説があるようです(国学者・平田篤実が唱えたとか何とか……専門の人に教えていただきたいです)。

椿大神社」にあった、「国津神が船でこの地にたどり着いた」という伝承が、出雲から「佐太大神」を奉じる一族がやってきたことの寓意なのかもしれません。

飛躍し過ぎですが。

一方、「猿田彦大神」の『日本書紀』での描写から、明らかに太陽神を指すのではないか、という説もあります。

これは、「アメノウズメノミコト」と婚姻関係にあったことからも、何となく思い浮かびます。

「アメノウズメノミコト」は、記紀神話最強のシャーマンであり、天岩戸神話では、「天照大神」の復活に多大な力を発揮しています。

元来、「アメノウズメノミコト」は太陽神に仕える巫女であり、その巫女が正体を看破して結婚までしたのであれば、やはりそれは太陽神なのではないかと。

巫女は「神の妻」ですから。

そして、「八咫鏡のように光る目」です。

八咫鏡」は「天照大神」の化身として授けられたものですから、元々伊勢一帯に勢力を持っていた太陽神なのではないか、ということですね。

あるいは、そもそも「猿田彦大神」という太陽神がいたことで、「天照大神」は作られたのかもしれません。

倭姫が、日本各地をさまよって、最終的に「敷浪寄せる伊勢の国」に、「天照大神」の鎮座地を定めたのは、実は単にふるさとに帰ってきただけなのかもしれないのです。

元々、自分達一族の神ではなかった太陽神を簒奪して、自分達のトーテムに組み込んだ。

しかし、その神威は強力で、天皇に害を成すこともあったために、宮中から別の場所でお祀りすることになりました。

行き着いた伊勢に、唯一となる社を造ったわけですが、ご存知の通り、正式に「伊勢神宮」をお参りした天皇明治天皇です。

祖先神にお参りしないなんてことがありますかね。

様々な情報から断片的に組み合わせると、そんな説も浮かび上がってきます。

そして、「猿田彦大神は、漁をしている最中に、貝に手を挟まれて溺れ死んだ」という伝承ですが。

明らかに、殺されてますよね。

事故を装って。

天孫を導いた神ですから、もっといい待遇を、神話の中でも与えられていいはずなのに、殺しちゃった(『日本書紀』にはそこまで書いてないですが)。

劇的でもなんでもない亡くなり方、というのが一層怪しいですね。

そりゃ「祟る」だろう。

で、宮中から追い出して、故郷に帰ってもらった、と。

そんな妄想も成り立ちます。

先ほどの、「猿田彦大神」の姿を描写した文章の中で、「鼻が長くて背が高い」、という部分。

これがよくわからないんですねぇ……背が高いのはまあいいんですが、鼻ってなんだろう。

太陽神の属性、というわけでもなさそうです。

この描写から、「天狗」のイメージソースが作られたのではないかとも考えられますが……(もちろん、中世以降の修験者の存在が一番大きいと思います)。

様々な説がある中で、私が好きなのは、『宗像教授』シリーズで描かれているものなんですが……これは実際に読んでいただくと面白いかと。

そして、「猿田彦大神」、「道別きの神」、「岐(ふなど)の神」などと呼ばれ、要するに「道」の神様なんです。

そのことから、「道祖神」とも習合します。

日本各地にある「道祖神」の属性は、「道を塞ぐ」のと、「道を授ける」の二つ、が基本でしょうか。

「道を塞ぐ」神としては、「イザナギノカミ」が黄泉の国から戻ってきたとき、そこを塞いだ岩である「道反神(ちがえしのかみ)」が代表的ですが、民間信仰としての「道祖神」がそれに由来するのかはどうもわかりません。

「道を授ける」神の「猿田彦大神」は、「椿大明神」の流行ぶりから考えればまあうなずけるところかと。

そして、恐らくですが、名前に「猿」なんかが入っていることから、「庚申信仰」ともごちゃごちゃになっていくのではないか……と思います。

「お伊勢さん」と言って、「神宮」だけお参りしているようではいかん、もっと古い神様もきちんとおられるのです。

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日本の神様読み解き事典

日本の神様読み解き事典

風土記 (平凡社ライブラリー)

風土記 (平凡社ライブラリー)

 

ところでですね、記紀神話の中に、「猿田彦大神」と同じように、「目が酸漿(ほおずき)のようだ」と表現されているものがいます。

「八岐大蛇」です。

さて、これが古代の常套句だったのか、であれば何を意味しているのか……。