さて、後編です。
津島神社の元・神宮寺、「牛頭山宝寿院」。
○こちら===>>>
象さんお出迎え。
庭では、お釈迦様の生涯を描いているそうです。
涅槃像もあります。
ご本尊は薬師如来、のようです。
略縁起
今より千百余年前、弘仁九年頃、弘法大師、この地にこられし時、疫病流行し、庶民の苦しむをあわれみ、牛頭天王の御社脇に薬師如来を安置し病気平癒を祈願されました。これが後の神宮寺の基です。(後略)
「津島牛頭天王社」は元々、「疫病を払う神」でした。
しかし、(伝承にある創建時代より300年ほど後の)弘仁年間には、その力が既に失せており、薬師如来の力を借りなければならなかった、ということが縁起よりわかります。
密教がいかに力を持っていたのかを示していますね。
泉龍神の霊木(双連の柞(イス)の木)があるそうです。
水琴窟も。
数百年前、宝生池にそそぐ泉のほとりに祀られ、津島の森を守っていた龍神様が、明治の初めの頃(廃仏毀釈ですかね)に忘れられたそうです。
おもかるの蛇石がありました。
もちろん、重かったです。
だめだな……。
こちらは太子堂。
神宮寺というのは、神社の中にある寺、という意味です。
反対語は「鎮守社」です。
神仏習合が進んだ果てに誕生した、よくわからないシステムですね。
神と仏はどっちが本地か、ということで相争ったわけですが、大きな流れとしては、仏教が力を持っていました。
それだけを原因とはしていませんが、明治の廃仏毀釈というのは、神仏分離して神社を優位に置こう、という政策です。
大和魂復活、をもくろんだわけですね。
が、大和魂というものが本当にあるとすれば、
何でも取り込んでしまう、
という日本人の有り様、でしょう。
廃仏毀釈で壊したものは、壮絶に大きかったと言わざるを得ません。
というわけで、後編は終了〜。
境内を回るだけで、結構な運動でございましたよ。
で、以下は雑談です。
津島神社に祀られていた「牛頭天王」というのが何者か。

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↑この本をお読みいただくと、少し正体に迫れるのですが、結構分厚いので大変です。
なので、噛み砕いてみましょう。
(1)ある疫病神が、嫁探しの旅の途中で宿を借りようとした。弟の「巨旦(こたん)将来」は金持ちなのに貸さなかった。兄の「蘇民(そみん)将来」は、貧しいが貸してくれた。嫁を見つけた旅の帰り道、再び寄った疫病神は、「これからこの集落でジェノサイドするけど、家族がいるなら茅の輪を腰につけといて、目印にすっから」と言った。「蘇民将来」の娘が「巨旦将来」の家に嫁いでいたので、茅の輪をつけさせると、疫病神は二人をのぞいて皆殺しにした。「これから、【蘇民将来の子孫】だってことで茅の輪をつけてる人は、疫病にあわないから」と言った。
これが、「蘇民将来伝説」の基本形です。
(2)この疫病神は、おそらく外国から来ているのだが、「武塔の神」と言われており、自らは「須佐之男命」だと名乗っている。「武塔の神」は「武塔天(神)王」のことであり、中国では「托塔天王」と呼ばれる道教の神であり、「托塔天王」は仏教の「毘沙門天」と同一と解釈される。また、「武塔の神」は祇園精舎の守護神である「牛頭天王」と同一視されたが、「武塔天王」の息子が「牛頭天王」だとする説もある。「牛頭天王」の名前の由来は、インドにある牛頭山からとられた名前だが、「牛頭天王」そのものがインドにいたわけではない。チベット密教の牛頭の鬼神「ヴァジュラバイヴァラ」や、その漢訳である「大威徳明王」とも同一視された。「大威徳明王」は牛に乗っている。一方、祇園精舎の守護神として、釈迦の説法を邪魔しようとした堤婆達多から、後戸(うしろど)で守った神のことを「魔多羅神」と呼ぶ。「魔多羅神」は、「新羅明神」や「赤山明神」と同一視されている。「牛頭天王」は一方で、地獄の神である「泰山府君」(道教)や「閻魔大王」(仏教)とも同一視されている(地獄の獄卒に「牛頭馬頭」がいるが、その王ということで「牛頭天王」が「閻魔大王」と習合されたのか)。また、「天刑星」という鬼神が食べる疫鬼(疫病を運ぶ鬼)として「牛頭天王」があるが、次第に「牛頭天王」と「天刑星」もまた同一視されていった。「牛頭天王」は、また別名を「鼻長大神」とする言い伝えもあり、それは「猿田彦神」とも通じ、後世には「天狗」になっていったと考えられる。
神は時代によって姿形名前を変えていくのは洋の東西を問わず、なのですが、ここまでくると何のことだかわかりません。
とにかく、現代では聞き覚えのない「牛頭天王」という神様は、疫病神という共通点で「須佐之男命」と習合された、というのがポイントです。
(3)「牛頭天王」には、龍神の娘である「婆梨采女」(はりさいじょ、ぱりさいじょ)という妻がおり、その子は八柱いて、そのうち一柱が「蛇毒気神」という(また別の説では、「牛頭天王」の妻が「蛇毒気神」ではないかとも言われ、「今御前」と呼ばれることもある)。このことと、「須佐之男命」とその妻「奇稲田姫」(あるいは、誓約の相手である「大日孁貴」)、そして天安河原での誓約の際に生まれた八柱の神(八王子神などとも呼ばれる)を習合して、「牛頭天王」=「須佐之男命」の図式が完成したのではないかと思われる(異論多数)。
この(1)(2)(3)を頭において、「津島神社」の記事「前編」「中編」を見ていただきますと、いろいろ妄想が湧いてくるのではないでしょうか。
「蛇毒神社」とか。
「稲田社」が元は「一王子社」であり、「うつくしの御前」と呼ばれて、本殿相殿に祀られていたこととか。
ま、これだけでは語り尽くせぬ「牛頭天王」なのですが。
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号二相称候神社不少候(後略)
と書かれています
後略の後ろには、「そういう神社は由緒を細かく書いてお上に提出しなさい」、「仏像を神様だと崇めちゃだめよ」とあります。
で、「津島神社」ではですね、何とかして仏教色のある「牛頭天王」を消し去ろうとした痕跡があります。
必死こいて、「須佐之男命」縁の神々で、自分の神社を固めたっぽいんですよね。
○こちら===>>>
http://www.miesin.com/ab-gozutennou-07.htm
↑こちらのサイトでは、「津島神社」の歴史が非常に詳しく調べられています。
古地図も載っています。
これだけのことをお調べになるのに、どれほど時間を要したのでしょう。
それを、簡単にリンクしちゃえる時代。
いいのか悪いのか。
ともかく、上記サイトをご覧になると、「神仏分離」後の生き残りの為に、津島神社がどれだけがんばったのか、がわかるように思います。
そして、「牛頭天王」は、どこかへ行ってしまったのです……。
でも。
実は、復活していたのかもしれません。
そう、
狂牛病の流行ったときに。
罰当たりめ。