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厳寒ながら、天気がよい。
所用で長久手方面に出かけたので(歯医者の帰りにタバコを買いにいっただけですが)、この辺りをちょいと回ってみよう、と思いまして、行ってきました「景行天皇社」。
長久手(ながくて)市長湫(ながくて)宮脇2、という住所地に鎮座まします。
天皇の名がそのまま神社の名前になっている、というのはかなり珍しいのではと思います。
景行天皇は、第十二代天皇で、「大帯日子淤斯呂和気命(おおたらしひこおしろわけのみこと)」のこと。
御自ら遠征に出られたことでも知られています(『日本書紀』『豊後国風土記』『肥前国風土記』)。
周防、筑紫で土着の一族を滅ぼす際に、たいてい現地の媛の手引きがあったと記されています。
モテモテだった。
というわけではないでしょう。
大王の力が増しており、恭順する地方勢力が多かった、ということの説話ではないかと思われます。
皇子に日本武尊がおられます。
また、倭比売命は、伊勢神宮の斎宮になられた方ですが、景行天皇の長女でもあります。
石段をまず上がりますと、
かなり広い空間があります。
何するんでしょうね。
お祭り用かしら。
奉納された神馬の像。
神社には多く、神馬が飼育されていたものですが、そういった場所も今や少なくなっているでしょう。
元々は、村社だったことがわかります。
簡単な紹介がされています。
承和四年(837)齋藤氏が天皇御事蹟の長湫根ノ神に創建し、その後大久手枯乎良(こおら)岐と移り、長久手合戦後の慶長九年(1604)城主の支援を得て此の地に御遷座したと伝えられている。
天正年間には徳川家康が戦勝を祈願、葵紋太刀三振を寄進し、伝統行事として、氏子による警固祭、棒の手の奉納がある。
明治五年村社に列格、戦後宗教法人となり、昭和三十年代より改築修造を重ね、面目を一新した。
「枯乎良岐」の「枯」の字は、禾偏で書くようですが、PCでは出ませんでした(出るのかな……)。
根の神という地名は、ここから南にいったところに残っています。
また「口論義」と書いて「こうろぎ」と読む地名もあります。
「枯乎良岐」が「口論義」に変わったものと思われます。
ですので、元々はその辺りにあったものが、こちらに遷されたものと。
多分、死屍累々の戦場跡に、そのまま残しておくことはできかねたのでしょう。
「棒の手」というのは、
こんな感じのものです。
元々は棒術(つまり、武術)だったものが、型だけ残して踊りになったようなもの、のようです。
尾張東部には、多くの流派が今も伝わっています。
Wikipediaから拾ってみますと、「東軍流、源氏天流、神影流、融和流、夢想流、起倒流、無二流、見当流、藤牧検藤流、鎌田流、鷹羽検藤流、大森検藤流」とあります。
中学生が思いつきそうな流派の名前の数々……いえいえ、よく見れば、剣術や柔術流派に由来すると思われるものもありますね。
「警固祭」というのも、一度見てみたいものです。
○こちら===>>>
http://www.city.nagakute.lg.jp/bunka/rekishi/gakushu/nagakutenokeigomaturi24.html
さて、もうちょっと上りましょう。
拝殿はこちら。
まだまだ新しい建物です(平成9年に建てられていますので)。
垣も真新しい感じです。
神楽殿も、まだ新しいですね。
合わせて、「津島社」、「白山社」、「神明社」がお祀りされております。
以前の拝殿にあった鬼瓦。
菊の紋がまぶしいですな。
さすが「天皇社」。
さて、ここから東に歩いて数分行きますと、「富士社」にたどり着きます。
結構急な階段だなぁ……。
中腹に、先ほどの「景行天皇社」と同じような広い空間があり、石造りの古そうな鳥居があります。
文字が擦れていますが、「富士浅間社」と掘られています。
ま、そりゃ、富士といったら、浅間神社ですからなぁ。
本殿のみの、こじんまりとしたお社です。
天正十二年(1584)四月の長久手合戦の折、家康が陣を張ったこの山に、元和三年(1617)六月創建されたと伝えられる。
明治五年村社に列格。昭和二十一年宗教法人となる。昭和四十五年社殿の大改修をしたが、昭和六十年十二月火災により消失。
平成三年十月長湫区と崇敬者の支援により再建し、面目を一新した。
地域の守護神として、特に幼児の虫封じに御神威があるとされている。
こちらも新しかったんですな。
そして、「景行天皇社」と同じく、村社。
「木花開耶姫命」は、天孫・邇邇芸命の妃となった方ですが、一夜孕みで不義を疑われて、自ら産屋に火を放って、その中で御子をお生みになりました。
姫は命を落としますが、邇邇芸命の子であれば「幸あるだろう」ということで、御子は生き残ります。
一種の神明裁判、ですな。
御子の一人が、後の山幸彦となります。
こうした説話から、姫は赤子の守護に神威があると考えられているのでしょう。
勧請されたのは江戸期のようですから、富士講が超流行るちょっと前のことなんでしょうかね。
ちなみに、この山は「御旗山」と呼ばれており、長久手合戦の史跡でもあります。
近くにある、色金山歴史公園といい、史跡が多い地方ですが……よく考えてみましょう。
日本中で、史跡のない地方なんて、ないのです。
歴史は土地に生きております。
見えるかどうかは、私たち次第、ということです。
というわけで、浅薄な私の戯れ言なんかより、こういった方のブログの方がためになると思われます。
○こちら===>>>http://alay.at.webry.info/200907/article_3.html
後発するものは、知識の薄さに愕然とするばかりです……。
が、
それでもやります。
趣味だから。