べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「田光八幡社」(名古屋市瑞穂区)

……いや、どこか行ったはずなんですけど、どうも写真が見当たらないので、7/23です。
ふらりと「田光八幡社」に出かけましたよ。

 

◯こちら===>>>

www.city.nagoya.jp

名古屋市瑞穂区の史跡散策路のHPです。

 

正面。

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脇の、お「稲荷」さんの鳥居……だったかな。

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「瑞穂村新道の碑」……さすがに読んでいられんです。

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扁額。
結果的に味が出ているけれど、これは汚れているだけなのかもしれない……いや味が出ている。

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参道。

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黒龍様の御神木」。

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こちらは「和合の木」。

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狛犬さん。
目……。

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「和合の木」を別角度から。
絡まってしまったようです。

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拝殿。
向拝に銅板葺き、屋根は瓦葺き。
江戸期に建てられた社殿は瓦葺きであることが多いので、向拝は後付けかな。

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「田光神社と守部宿禰
第十二代景行天皇には双生子の男の子があり兄君を大碓命と申し上げ弟君を小碓命と申し上げます。小碓命はのちに熊襲征伐や東夷を討ち平げた古代武勇の人日本武尊であります。大碓命はやや温和な性格であったようで父天皇からうとまれていたようであります。大碓命の御子押黒之弟日子王その子牟宜都守と続き守部氏の祖で、初代は守部宿禰孫谷は熱田神宮の社職として朱鳥元年西海士郡司兼祭主正祝詞司大内人に任命されその子孫は代々正六位大内人として熱田神宮に社職として明治四年迄奉仕した。また草薙剣の御受取の奉迎使としてお出迎えしたと熱田神宮縁起にみえており、延久年間第十九代彦正が、八幡社を勧請し社を建てたのが始まりと伝えられています。
一、宿禰 古代の姓のこと 天武天皇が定めた八色姓の一つ 第四位の姓
一、大内人 大宮司、祝師、総検校、大内人とあり守部氏がこれをつとめた その下に禰宜があった
一、五郎丸屋敷 大喜地内に防の山とゆう地があり代々守部氏の屋敷跡と伝えられ現在豊岡通りの天理教がそれでありこの地に森部姓多く皆この子孫と云う
参考文献 熱田大宮司由緒書 同縁起抜書 熱田宮旧記 尾張
(以下略)」

 

延久年間は1069〜1074年頃ということなので、平安末期ですか……武士階級に八幡信仰が流行り始める頃、と考えると妥当な感じでしょうか(まあ、その前から、「宇佐八幡宮」なんかは特別扱いされていますから、無理に結びつける必要もないのか……ちょっと時代がずれていると、「熱田神宮」は「源頼朝」とも縁がありますし、幕府を立てて「鶴岡八幡宮」から勧請、という流れの方がしっくりはきますが……)。

 

拝殿。

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「田光稲荷大明神」……

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からの拝殿。

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お「稲荷」さんの手水鉢。

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お「稲荷」さん再び……奥の院扱いかな……。

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おキツネ様の先輩。

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お「稲荷」さん参道。

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拝殿右手、「田光白龍社」と御神木。

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と思ったら、「弘法七本楠」の一本のようです。
反射して読みづらい……「その昔、千二百年前、弘法大師が巡錫の砌、熱田神宮に五本、古井の坂に一本、田光神社に一本、お手植えになったと伝えられる由緒ある楠と尾張名所図会に記載されている名木です。根方には白蛇が棲んでいると伝えられています。樹齢 約千有余年(略)」……あとで調べてみましょう。

 

古木は巨木。

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龍神池。

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この角度から見るとより巨木。

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境内社の、左から「八剣社」「白山社」「秋葉社」「黒龍社」、です。

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こちらもなかなか立派な木でした……なんだろう、楠なのか檜なのか。f:id:bennybebad:20220515190837j:image

 

拝殿を向かって右側から。
古木の樹勢よ。

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なんか、可愛かったので……ジ◯リ的なものを感じる……。

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ここからも入れるのです……ちょっと上がってるんですね。

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裏側に回ってみました。
これだけ高い場所にあります。
瑞穂区でも、結構高い場所にあるのではないか……思い出せない……雨が降りそうだったので、ざっと巡っただけでした。
御朱印については不明です。

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さて。


◯こちら===>>>

名古屋市史. 社寺編 - 国立国会図書館デジタルコレクション


「田光八幡社」の記事がなかなか見つからなかったので、『名古屋市史』の「熱田神宮」の項を漁ってみました(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
84コマです。

 

「大内人は一員にして、大喜氏と稱す。守部宿禰なり、尾張氏と同祖と云。遠祖守部宿禰孫谷、朱鳥元年に祭主となりしより、子孫相ついで此職を掌る。貞觀中、守部宿禰清稲、当社の縁起を草す。建武年中、祭主幡屋大夫政継あり、嘉吉年中、守部宿禰五郎丸、菖蒲池に住す、張州府志に「又有大喜殿、熱田遥拝所也、往昔大内人来拝此地而今廃焉」とあり、蓋し大喜寺(呼続村大字瑞穂字田光、旧大喜村の地)の大日堂は其遺跡にして、大内人と云へるは、大喜五郎丸の事なるか、此氏人も亦権宮司に補せられし例あり、田島、馬場、大喜等の家を神官と稱す(略)」

 

引用中、「当社の縁起」というのは「熱田神宮」の縁起のことで、『群書類従』に採録されている『尾張国熱田太神宮縁起』のことだと思われます。
それについて、

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

尾張名所図会』では、

 

「大内人一員
守部宿禰尾張氏同祖にして、今大喜氏と稱す。此家甚古く、朱鳥元年海部郡司守部彦谷を以て官守十二人の長大内人職とすと[熱田本紀]に見えたり。此書は甚怪しく請け難き書なれども、もとより古き偽書にして、其内にはまさしき古伝と覚しき説も見ゆれば、悉くは捨がたきにや。守部は尾張・美濃本貫の姓氏にて、[三代実録]及び[類聚国史]の貞観十年七月十二日の記に、美濃国池田郡の貞婦守部秀刀自が事をしるし、寛平二年の[熱田縁起]に、去貞観十六年春神官別当正六位上尾張連清稲、古縁起修せしよし見えしは、[熱田大神宮鎮座次第本記]に大内人守部宿禰清稲とある同人にて、当家の■祖なり。」

 

と書いています。
名古屋市史』に戻りまして、

 

「五郎丸宅址
瑞穂村坊山字中ノ口(旧大喜村の地)に在り、里俗五郎丸屋敷と稱す、東西北の三方濠址存す、今盡く耕地に属す、五郎丸本姓守部宿禰尾張氏と同祖なり、初め此所に住し、後嘉吉の頃熱田白鳥町(略)に移りて、大喜を氏とす、是れ大喜備前守従五位下守部宿禰清廷の遠祖なり、世々熱田神宮大内人職に補す、五郎丸は其世名なり、子孫田中町に住す、明治以後神官を罷む、同四年(略)大喜を改めて本姓守部に復す、森部氏を稱するもの今猶瑞穂村に多し、其同族の裔ならむ、[愛知郡誌]」

 

という『愛知郡誌』からの引用がありまして、どうやら「守部五郎丸」さんがいたのが、今の「田光八幡宮」の辺りらしい、と。
で、「大喜寺」ってどこだろう、と思って検索して見ると、

 

◯こちら===>>>

増益山大喜寺(愛知県名古屋市瑞穂区) | 名古屋二十一大師十七番札所

 

現存している、という……。
では、ということで『尾張名所図会』を探してみると、

 

「増益山大喜寺
同村にあり。真言宗高野山弥勒院末。境内に大日堂あり。又熱田の遥拝所ありて大喜宝殿といひしが、今は廃せり。」

 

お寺の公式HPでは、こちらの「大日如来」は「熱田神宮」の本地仏とされているようです。
尾張名所図会』「増益山大喜寺」の前の項は、

 

「大喜古城
大喜村のうち、城跡と呼ぶ地三所あり。新田四郎の城といひ、又田光氏あるひは森部氏の居地とし、又岡本久治の古城などいへど、何れも定かならず。其うち田子は此辺の庄号なれば、むかし田子庄司などが旧居を、田光氏と誤りつたへたるなるべし。又森部氏は、熱田神宮大喜五郎丸が本姓守部宿禰にして、古来より爰の住人なれば、しか伝へしも據なきにあらず。外に五郎丸屋敷と呼ぶ地も当村にのこれり。岡本氏・新田氏も当初に由緒ある人なれば、これまた捨てがたかるべし。又此辺に田子が池とよぶ池あり。」

 

「田子」と呼ばれていたのが、「田光」になったのではないか、という説が紹介されています(『尾張名所図会』は、観光案内のようなものではありますが、当時の歴史的事実等がいろいろ盛り込まれていますので、信じ過ぎない程度に参考にしています)。
まあ、ここまで一向に「田光神社」「田光八幡社」のことが出て来ませんが……。

 

◯こちら===>>>

https://www.city.nagoya.jp/mizuho/cmsfiles/contents/0000042/42124/mizuhokentei_2.pdf

 

名古屋市のHPのどこかにあるPDFにたどり着きました。

 

「田光八幡社
創建 延暦元年(782年)
祭神 神功皇后応神天皇仁徳天皇(略)
[境内神社]白龍社、黒龍社、八剣社、秋葉社、津島社、白山社、田光稲荷社
社の由緒によると、延暦元年(782年)に熱田神宮の神官守部公彦正が社を建てたのが始まりとされる。
尾張名所図会の記載によると高さ約40mの大きな楠は、弘法大師お手植えの七本クスノキの一本とされる。木の根元には白龍が住んでいると伝わる。
元禄の頃まで、熱田神宮の社僧が祭礼に大般若経を奉っていた。
鳥居は、皇室の御大典、御成婚、御生誕を機に建て替えられており、八幡鳥居、神明鳥居がある。
また、境内には枝に体を寄せお願いすると痛いところがいえるという欅の木と「夫婦和合の木」という椋と榎の木がある。
神社の周囲は、区画整理事業で削られ元の地形は残っていないが、弥生時代の遺跡や遺物が出土し、又北山には大松石地蔵があった。」

 

むう……なんと便利な資料が……。
で、この資料の中に、

 

「田光遺跡

(略)

・「景行記」27年(12代天皇のころ)熊襲を平らげようと西へ行かれた日本武尊に従った尾張田光(たこ)之稲置が住んでいた。確認される最も古い地名とされる田光の名の由来となる。」

 

とありました。「景行記」とありますが、正しくは「景行紀」で、『日本書紀』の記述になります。

 

「冬十月の丁酉の朔己酉に、日本武尊を遣して、熊襲を撃たしむ。時に年十六。是に、日本武尊の曰はく、「吾は善く射む者を得りて、与に行らむと欲ふ。其れ何処にか善く射る者有らむ」とのたまふ。或者啓して曰さく、「美濃国に善く射る者有り。弟彦公と曰ふ」とまうす。是に、日本武尊、葛城の人、宮戸彦を遣して、弟彦公を喚す。故、弟彦公、便に石占横立及び尾張の田子稲置・乳近稲置を率ゐて来れり。則ち日本武尊に従ひて行く。」(岩波文庫日本書紀2』p84)

 

ですね。
この伝承を信じるとすれば、「日本武尊」の熊襲討伐について行った人の出身地が田子だったということなので、その後の「熱田神宮」との関わりがうかがえる……のかもしれません。
ううん、『日本書紀』に載ってる地名なんだよ、というのはもうちょっとアピールしてもいいのではないかと……。

 

特に考察めいたものはありませんが、「大喜寺」も一度行ってみないといけないな、と思った次第です。

「(吹上)八幡社」(名古屋市千種区)

5/30。
結構とんだな……2020年はあまりぐるぐるできなくなった年なんですね……ふぅ……というわけで、名古屋市内の小さめのところもいきましょう、と意気込んでの「(吹上)八幡社」へ。

 

◯こちら===>>>

名古屋市:古井の里と丸山村めぐり(詳細)(千種区)

 

とりあえず、名古屋市の史跡散策路のHPから。

 

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社標。

 

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鳥居。
立地の関係で、角です。

 

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拝殿……いや神楽殿かな。
すでに暑かった記憶があります……比較的早い時間帯だったんですが。

 

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狛犬さん。

 

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狛犬さん越しの神楽殿

 

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尾張造、っぽくなっています。

 

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境内社……えっと……。

 

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ご神木……なんだろう……木の種類が未だに全然わかりません。

 

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境内社遠景。

 

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拝殿から本殿。

 

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「吹上八幡社

御祭神 (略)
御由緒 創建は安政五年八月。愛知郡御器所村字木市に祭祀。明治十九年七月に崇敬者の勧請により、御器所村からこの地に遷祀。(以下略)」

 

安政年間というと、150年くらい前ですか……創建がわりと最近なのですね。
御器所には、「御器所八幡宮」という立派な八幡さまがいらっしゃいます。

 

◯こちら===>>>

「御器所八幡宮」(昭和区) - べにーのGinger Booker Club

「御器所八幡宮」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

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参道。

 

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別の入り口。
敷地の形が面白いので、景色もなかなか面白いです。

 

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裏に回って見ました、本殿。

 

さて。
といっても、引用するほどのものはなく……一応、『尾張志』(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)、

 

◯こちら===>>>

尾張志. 5 愛知郡 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑の7コマ、上の過去記事でも紹介している「御器所八幡宮」のものと思われる記事に続いて、御器所村の神社が掲載されているのですが、何しろ『尾張志』がまとめられたのが天保年間で、「吹上八幡社」が御器所村に創建されたのが安政五年なので、掲載されているはずもなし……。
津田正生翁の『尾張国地名考』も、発行年間は別として、本人が嘉永五年に亡くなっているので、安政五年に創建された御器所村の八幡さまのことなど知るはずもなく……。
「吹上」という地名については、『尾張国地名考』にちらっと書かれておりまして、

 

◯こちら===>>>

尾張国地名考 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑32コマの、「古井村」の項の最後にちらっと、

 

「【附言】【瀧川弘美曰】小井の境内に吹上といふ所あり是は古へ呼纉の濱より北へ井戸田の西前津の東を亨りて爰まで入海なしり時の真砂地の吹上なりといふ我住所辺を汐見原といふ又高岳院の山をも汐見山といふこは高き山にはあらず」

 

地名由来が解説されています。
昔は「熱田神宮」の目の前が海で、そこから吹く海風がこの辺りまで届いていた、ということなんでしょうか。
想像力に乏しいので、あの、昔の地形図と今の地図を重ねた、あれがほしいですね……どこかのサイトにあったかな……そもそも、昔っていつなんだ……ひとまず江戸時代、かな。

 

名古屋市内の神社は全部巡ってみたいので(とりあえず、現存するところ)、またどこか行きます。

「白山比咩神社・吉田天満宮」(愛知県豊橋市)〜豊橋ちょっとぶらり旅〜

2/24。
さて、短かった豊橋の旅も終了……ラストは「白山比咩神社」です。

 

◯こちら===>>>

sirayamahimezinzya-yosidatennmannguu.com

「白山比咩神社」と「吉田天満宮」。

 

こちら参道入り口……裏ですが。

 

表に回ってみました。
「新銭座」の跡……だったのですね。
後ろの機械式駐車場のでかいこと。

 

拝殿。

 

狛犬さん。
優美。

 

鳥居から。

 

こちら「吉田天満宮」。
「新銭座」の扁額もあります。

 

梅が咲いていました。

 

筆塚です。
天神様ですからね。

 

御朱印
書置きのものが置いてあった……んだと思います。

 

近くは繁華街のようですが、休日の昼日中に来ると、嘘のように静かでした。

さて。

 

◯こちら===>>>

東参河資料叢書. 第1編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

まずはこちらから、『東参河資料叢書』の『三州吉田記』。
27コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

白山権現社 新銭町 (略)
元在魚町熊野之社地。因号脇宮。
寛文五乙巳年神輿新造。従此時六月十八日祭例之日神輿渡御于神宮寺境内社輿中柴村諏訪社。
氏子、新銭町下町甫抱六町。」

 

……ふむふむ(何が?)。
続いて、

 

◯こちら===>>>

豊橋市市制施行二十年誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『豊橋市市制施行二十年誌』を。
200コマです。

 

「村社白山比咩神社
新銭町にあり。保延二年の創建にして伊弉冉尊外一柱を祀る。初め札木ありしが、天正十八年池田侯の城地拡張の際移転したるものなり。社殿、拝殿神楽殿等あり。境域約四百坪、例祭は七月十七、十八日両日行はれ、花祭と称して頗る殷盛を極む。」

 

ふもふも……(も?)。
続いては、

 

◯こちら===>>>

東三河道中記 : 豊橋市及其附近案内 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『東三河道中記』です。
18コマ。

 

「次は今来た道を四ツ角まで戻りまして、南へ入りますと、左側に 白山比咩神社 があります。創立は保延貮年の六月、祭神は伊弉諾尊外一柱であります。もと札木町に魚町の安海熊野神社と一所にあつたのを天正十八年城主の池田輝政が城を拡張するに当つてここへ遷したものと云ひます。この社では寛文五年に神輿が出来てから七月十七、八日に花祭りと云ふのが行はれましたが今は廃絶致しました。この附近は新銭町といつて、寛永十四年に幕府の命を受けて新銭を鋳造した事から起きた名だと申します。吉田駒曳銭といふのは其時数取りに造られた絵銭です。
(略)」

 

なるほど、前掲2冊の内容をすっかり解説してくれていますありがとうございます。
何故「銭座」に「白山比咩命」かと思いましたが、順番的には「白山比咩神社」のあったところに「銭座」ができた、ということでしたか。
池田輝政」によって遷座を余儀なくされたと……「安海熊野神社」ごと遷せばよかったような気もします。

 

◯こちら===>>>

寛永銭記 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

今ではいろいろ研究が進んでいるでしょうが、「銭座」を検索したら『寛永銭記』というのが引っかかりました。
5コマです。

 

寛永通宝銭は寛永二年より明治二年まで二百四十五年間の内百三十五年に亘り諸国(府県)に銭座を設置して鋳造したるものなり
銭座は金座又は銀座の支配に属せし役所にして文政以後は一に鋳銭定座或は鋳銭役所と称せしことあり
銭座構内細工場の内重なる名称は大吹所、種銭場、型場、小吹所、仕上場等なり
大吹所は銭貨となすべき地金を溶解し型場に配付する所にしてその棟梁を吹屋大工と称す
銭貨は砂型式の鋳方にて造りたりされど古寛永に於けると新寛永の時代とは其の製法を異にせり
寛永の時代は幕府より樣銭を銭座に下附せられこれに據りて彫母銭を造り直ちに種銭を鋳造す
寛永の時代は種銭場にて彫母銭を造りこれに據りて錫母銭を製し又これを基本として銅母銭即ち種銭を鋳造し幕府に稟請して発行の免許を受く
型場は一の銭座に十数箇所を構へ一箇所毎に銭頭一人を置く
種銭は約二百文づつ銭頭に交附す銭頭はこれを型枠の砂上に印寫し小吹所に於て鋳造すれば銭貨は木葉の如く出来すこの枝銭を切り離して一枚づつとなし床焼を行ひて仕上場に出す
仕上場にては郭内を磨り耳を研ぎ且面背に平研をなし改所に出す
改所にては役人監視の下に銭量を秤検し緡に挿し二緡宛結附け五貫匁を一括とし封印して御用蔵に納む
斯く御用蔵に保管せられし銭貨は座主より両替屋を始め一般士民に売出されしが明和以降は両替屋のみに売下げられたり(以下略)」

 

というわけで、こんな感じで作られていたようです……よ。
続いて、銭座の場所を記した表が掲載されているのですが、確かに「三河国渥美郡吉田」にあった、とされています。
寛永十四年八月から寛永十七年八月までの稼動のようです。
時代劇なんかでも、なかなか銭場なんて再現してくれませんからね……陰謀ものならともかく、あまり庶民的な題材にはなりません……いやいや、鋳造の配合を変えたり、という悪巧みは庶民に直結している……そういえば、役所だから所謂公務員扱いだったんでしょうか、銭座の職人さんは……。
神社と全然関係ないですが、面白いものに遭遇できたので良しとします。

 

というわけで、豊橋の旅はこれにて終了。
次は……身近です、多分。

「羽田八幡宮」(愛知県豊橋市)〜豊橋ちょっとぶらり旅〜

2/24。
続いても「八幡」様、「羽田八幡宮です。

 

◯こちら===>>>

www.honokuni.or.jp

 

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鳥居と社標。
朱の鳥居……あまり意味はないかな。

 

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いきなりですが本殿です。
ちらっと。

 

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狛犬さん。
目が良い。

 

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本殿右手の摂社。

なんだったっけな……。

 

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こちらは「天満宮」と「栄川天満宮」……だったと……。

 

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菓祖の「中嶋神社」。
由緒書がない……。

 

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と思ったらあったけど……。

 

「昭和二十六年当協会開設を記念して但馬国中島神社より菓祖神田道間守命を勧請し分社を創建して永く豊橋菓子業界の守護神と崇敬す。同三十六年四月主催県下の業者として参画したる名古屋開催の第十五回全国菓子大博覧会の盛事を記念し神殿神域を改修するに特志寄進あり。同年六月二十日遷宮祭を斉行せり。以上由来を略記して世に伝えんとす。
昭和三十六年六月七日 豊橋菓子協会」

 

読めた……(文字を改めた箇所あり)。
「田道間守」という人は、病に臥せった天皇のために「非時香実」を持ち帰ったけど間に合わなかった、という話で有名なかたですね。
そうか、「中島神社」というのがあるのか……知っていたような、忘れているような。

 

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狛犬さんその2。

 

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拝殿横から。

 

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社標。
かつては郷社だったようです。

 

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古くて新しそうな蔵。

 

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「栄川稲荷神社」。

 

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拝殿。
新しめ。
近代的な造りとしてはオーソドックスな形式です。
階段、緑青の色がグラデになっていてちょっと面白い。

 

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松かな……背がとても高かったので。

 

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「羽田八幡宮の国登録文化財」ということで、先ほどの蔵も文化財だったようです。
もったいない(?)。

 

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この門も文化財

 

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「松陰学舎蹟」。

 

「羽田八幡宮文庫は、国学者であった神主羽田野敬雄が資金を募り、嘉永元年(一八四八)境内に創設■■■万余巻を蔵し、「松陰学舎」と名づけた附属の閲覧■■■■た文庫で、近代図書館の先駆をなした。」

 

ちょっと影になったところが……。
今では文庫といえば本そのものを想定しがちですが、昔は文の庫、ですから(金沢文庫とか蓬左文庫とか……)。

 

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参道入り口の鳥居。
扁額外されていた珍しい。

 

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狛犬さんその3。

 

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参道遠景。

こちらもなかなかに立派な神社でございました。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

東三河道中記 : 豊橋市及其附近案内 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

こんなところでいかがかと(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
56コマです。

 

「羽田八幡社 です。本社は前にも申しました通り天文九年に馬見塚から遷されたもので、数年前郷社に列せられましてから境内を整理して見違へるやうになりました。祭礼は行燈祭といはれ一尺に三尺位の行燈へ俳句、狂歌、地口などを書き、それに俳画を添へたりなどしたものを何百も掛けたものですが、近来は祇園祭のやうに大筒、手筒、打揚煙火などを出すやうになりまして、昔の飄逸な趣ある行燈は見られなくなりました。
此社の裏台地の下に清泉が出まして栄川の泉といひ、松山の呉竹の井と共に代表的二名水でした。これは神主である羽田野家の所有で本社の御手洗だといふてゐました。伝説では昔家康が此近くに休みまして、此清泉を呑みエイ川ぢやと褒められてその名がついたと申しますが、今日では双方共附近が開墾されて湧出しなくなり、ほんの名ばかりとなつたのは惜しい事です。旧藩時代には城主の茶の湯に召され、一時は番人まで附けられた事もあつた程です。
羽田文庫 は参道中程の東側にあります。この小さな門は当時のものですが、文庫は今礎石が残つてゐる許りです。羽田野家は古くから神明、八幡両社の神主で、敬雄は宝飯郡西方に生れ羽田野家に入りまして、名を常陸といひ、晩年になって栄木と改めました。敬雄とは其名乗りです。廿一歳で養子し、廿九歳で養父上総の号をついて神職となりましたが、性来の読書好きで和漢を撰ばず万巻の書を読破したものです。それに就て一挿話は、或時吉田藩で盗賊を捕へ訊問すると、賊のいふに、以前西方の或る家に入らうとしたが毎夜夜半まで熱心に読書する子供があつて遂に目的が達せられなかつたと申立てたので調べて見るとそれが敬雄で、次第に評判が高くなり羽田野家に懇望されたといふ事です。尤も生家である山本家は富豪ではあり、兄が三人あつて中兄の、これも他家へ養子した飯田軍次といふ者が本居大平の門人だつたので敬雄にも入門するやう勧め、廿八歳のとき入門したのです。處が如何なるわけか三十歳のとき更に平田篤胤の門に入りました。これは以前から篤胤の学風を慕つて間接に教を受けてゐたからでもありませう。これを取次しましたのが平田鐡胤で、非常に親密な間柄でありこちらへも度々来て居ります。これから後追々交際が広くなり伴信友飯田武郷或は神宮神官の御巫清直だの一流の人物と交際するやうになりまして、所謂志士なども窃に翁を訪ねて来た者もありました。大国隆正なども其例ですが、福羽美静なども二三回訪ねて居ります。
文庫は嘉永元年吉田の同志十五人の支持で計画し、安政二年には一千部、文久元年には千六百部に達しましたが満足せず、広く一般からの寄附を仰ぎまして、三條實萬卿から類聚国史三十巻と御註の孝経一巻を、又徳川斉昭卿からは破邪集八巻を寄せられ、藩主大河内信古よりは書籍三十七巻と文庫永続料に毎年米十俵づつを下されました。かくて後には総数壹萬参千六百余巻となりましたが、これは勿論公開されたものでして、中には翁の家に寄宿し勉強した後の男爵大久保春野などもあります。此文庫は翁の歿後散逸の悲運に遭つて、一部は西尾の岩瀬文庫、一部は長篠村信玄の牧野文庫に行つたとも云はれますが、其大部分は石巻村の大木氏方にあつたのを大正二年豊橋市が譲り受け、それを基礎に図書館を経営する事になりました。(略)文庫は御覧の通り跡だけとなりましたが、翁の建てられた皇學四神遥拝碑と、福羽美静の書いた翁の記念碑とがこの中に殘つてゐます。」

 

知らない名前がいっぱい……それぞれ調べてみましょう。
福羽美静が面白そうな人ですね。
郷土の有名人というと、やはり派手な人(「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」とか)に目がいくのですが、面白い人はきっとたくさんいたんだろうな……と思いつつ、忘れていくんだろうなとも思いつつ。
ネットの海に漂う記録と記憶、ですね(?)。

「栄川」の由来っぽいものがわかって、よかったです。

 

おっと、忘れていた。

 

◯こちら===>>>

www.library.toyohashi.aichi.jp

 

残っています。

「牟呂八幡宮」(愛知県豊橋市)〜豊橋ちょっとぶらり旅〜

2/24。
吉田神社」を後にして、続いては「牟呂八幡宮へ。

 

◯こちら===>>>

www.murohachiman.com

 

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鳥居と社標。

 

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鳥居。

 

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「牟呂八幡宮
御祭神(略)
由緒
当社は文武天皇元年(六九七)創立と伝えられ従五位牟留天皇を祀っていた。文治二年(一一八六)境内に武神として八幡大菩薩を併祀した。
建久二年(一一九一)鎌倉から八幡神を勧請した。この頃、武家が敬う八幡神が次第に厚い信仰を得ており、遂に貞応元年(一二二二)鎌倉幕府の命により鶴岡八幡宮にならい改装をし、牟呂八幡宮となった。
天文年間(一五三二〜一五五五)に田原城主戸田氏を始め今川氏、池田氏等が社殿を修築し慶長六年(一六〇一)徳川家康公が朱印領四石五斗を寄進された。
元治二年(一八六五)三月十九日、朝廷から正一位の神階を授かったが、明治に入るとこの神階制度はなくなり、新たに郷社に指定された。
昭和二十年の空襲被害により、境内にある社殿はほとんど焼失したが、昭和二十五年に御本殿、昭和三十三年に拝殿が竣工した。昭和五十五年神社本庁より六等級が認証された。」

 

……うむ、「牟留天皇」は置いておこう……。

 

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「牟呂八幡社」って社標が多いですね。
鶴岡八幡宮」からとったので元々は「宮」なのでしょうが、郷社になったところで「社」になったかな。

 

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「牟呂八幡宮の神事相撲を中心とした神幸祭
ここに、「『三河国内神明帳』に記された「従五位牟留天神」」と書かれていますので、先の案内板の「天皇」は書き間違いですね。
相撲を神事にしている例はいろいろと見られますが、それぞれ起源が違っているように思います……江戸期以降に相撲という形に収斂したのかな、と妄想。

 

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参道。
立派な境内を持つ立派な神社。

 

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「ええじゃないか発祥の地の由来
略史
慶応三年(一八六七)七月十四日牟呂村の大西(※牟呂大西町)の多仁郎屋敷に外宮のお札が降って、翌日には近くの天王社に伊雑宮のお札が降った。
牟呂村では相談の結果文政十三年(一八三〇)に行われたお鍬祭にならって二夜三日の祭礼を行うこととなった。大西の総代が箱の中に入れたお札を捧げ持ち牟呂八幡宮へ向かった。村の人たちはお揃いの衣装で「三百年は大豊年」の古歌を歌いながら踊りたわむれた行列は所々で手踊りがあった。牟呂八幡宮ではお鍬様をお祭りし、神事を行った。
社前に幟を立て人々に樽酒をふるまった。集まった大群集(衆)の「三百年は大豊年」の声はお宮の森にこだました。
その後、牟呂村では各社でお札が降ったこれを機に、お札降りにともなうええじゃないか〜のから騒ぎは次第に各地に広がっていった。」

 

「ええじゃないか」……空からいろいろ降ってくるのは、各時代にあったようで、理由もそれぞれ(都市伝説的なものはともかく)あるんだと思いますが、騒擾のきっかけというのは様々ですから、こんなきっかけもあっていい、あ、ええじゃないか、と思います。
思っている「ええじゃないか」とちょっと違いますけれども、最初はちゃんと神事だったのですね。

 

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龍。

 

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狛犬さん。
これは、何系なんでしょうね……正面からと横からで顔の印象が全然違うな、と思います。
撮影角度によるんでしょうが。

 

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小さい狛犬さん。

 

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拝殿を向かって左手から。

 

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「牟呂御霊社」……かな、こちらの狛犬さんでした。
何か、催し物だったかな……テントが張られていますね。

 

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拝殿向かって左手前から。
重厚な造り。

 

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「水神社」。
緑ぃ。

 

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「伊雑社」。
赤ぁ。
奥は「天満宮」。

 

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「牟呂稲荷神社」。
赤だな……朱じゃなくて。

 

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拝殿正面。

 

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拝殿向かって右手の、「砥鹿神社」と「素戔嗚社」。
さすが三河ですね、「砥鹿神社」。

 

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再び参道。
後ろに背負った森もいい感じです。

 

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御朱印

 

さて。

◯こちら===>>>

渥美郡史. 正編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

↑『渥美郡史』をのぞいておきましょうか(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
145コマです。

 

「牟呂八幡社 郡内に残存せる八幡社中、斯かる変遷を現はして居ると思はれるものは、牟呂八幡社である。(略)社伝に、

祭神は誉田和気尊、息気長足姫尊の二柱で、文武天皇元年始めて之れを祀り、文治二年八月佐々木某(一説に佐々木左衛門尉)の知行所たるに依りて社頭営繕を加へられ、貞応元年、鎌倉将軍の命に依り、相州鶴ヶ岡八幡宮の境内を模し、三方大門に三ツ池を掘り、市杵嶋姫尊社、若宮八幡宮、建内社等を勧請し、庄園を寄せらる。

とある。文武天皇に奉祀したと云ふ社伝を事実とすれば、夫れは三河国内神明帳に見えて居る所の牟留天神であるかと思はれる。牟呂は、東海道の所謂旧街道が貫通して、交通の要路に当り、天産も豊富で奈良朝時代より、住民の群棲して居た事は、当時の人の築造した牟呂の大貝塚によつても知る事が出来る。尚奈良朝時代のことではあるが、続日本記、聖武天皇天平十二年六月の條に、牟礼の大野と云ふものと、飽海の古良比と云ふものが共に罪を犯した事が記載してある。斯く早く開けた土地であるから神社の創建も亦早く行はれ、国内神明帳の出来る以前に立派な社殿等も出来、奉祀する住民にも権威あるものがあつたので牟留天神として掲載せられたのであるが、鎌倉時代に至り佐々木氏と云ふ武家の所領となるに及んで、此の牟呂天神の境内に武神として八幡大菩薩を並記するに及び、武家の尊崇する八幡宮が次第に厚き信仰を得る様に傾き、遂に貞応元年には鎌倉鶴ヶ岡八幡宮に模して改造し、祭神にも変化を来す様になつたものではないかと思はれる。当時の遺物として残つて居るものに木彫の懸佛がある(略)。当懸佛は直径一尺三寸の圓板に高さ八寸の阿弥陀如来が蓮座の上に坐し、金色燦爛として眼も眩き程美しい作である。斯かる見事な御正体を奉納した神社であることから考へても其の繁栄を察することは難くないが、尚この外に境内に神宮寺のあつたことも考へられる。現今も神宮寺の址が残存して居り、其の所に古い井戸もある。位置は移転せられてはゐるが神宮寺の鐘楼とも思はるるものが境内に現存してゐる。而し鐘は明治維新頃紛失して今は残つてゐない。
(略)
牟呂八幡宮の神宮寺が何時建てられて何宗の僧が居たかといふやうなことは明かにする資料がないので、今はわからぬが、神宮寺のあつたことだけは遺跡として伝へられてゐる寺址や、鐘楼を以ても察することが出来る。而して神宮寺のあつたといふことは、大きな神社であつたことを考へる資料となるのである。
この外三大門のあつたことや、三つの大鳥居のあつたことも伝へられて居る。今も八幡社から東西南の三大門に通ずる道路が存して居り、幾分原形を破壊せられた部分もあるが、其の両脇には年古りし松の並木が千代の緑をたたへて茂生し、古を語る資料となつて居る。大門のあつた地点も口碑には伝へられて居り、西大門より東大門迄三百十六間を有する。
鳥居に就ては、一の鳥居は海中と称する所に、二の鳥居は宮澤と称する所に、三の鳥居は正面の橋の北詰に建つて居たといふ元禄時代の記録も存して居る。是等の記録遺跡口碑から考へて信を置くに足るべき者と思はれる。
(略)」

 

昔から神社はあったけど、鎌倉時代の「八幡」様大流行りに伴って、「八幡社」になったのではないかな、というお話です。
そんな気がします……が、それでも千年近く前ですからね、しっかり地域に根付いた神社なのだな、と思います。

「吉田神社」(愛知県豊橋市)〜豊橋ちょっとぶらり旅〜

2/24。
続きまして、本命というか本番というか、の吉田神社です。

 

◯こちら===>>>

toyohashi-yoshida.com

 

吉田神道あっちの「吉田神社ではありません。

 

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鳥居と社標。

 

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扁額(青銅)。

 

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豊川を望む感じですね。

 

吉田神社に残る記録「吉田神社略記」に「花火ノ創祀ハ吉田綜録ニ、1558
年<永禄元年>今川義元公吉田城城代大原肥前守知尚公花火ヲ始ムトアリ、云々」・・・・とあります。」

 

そうか、火祭り、というか花火が有名でしたね。

 

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参道。

 

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「影降石(天降石)
社史に「延宝元年(一六七三)六月九日吉田城主小笠原長矩鳥居を建つ寛永十七年(一六四〇)水野忠清が建つる所のもの 風災に罹りたるを以てなり 今回従前の木造を改めて石造とし其位置を南方六間に移す」とあります。その際、木鳥居附近の地中深く埋まる巨石が発見されました。御䦰による神託を受け、巨石はそのまま、石鳥居は位置を移して建立されました。石廻りには竹柵を設け注連をおろし、以後影向石として大切にしたと伝わります(影向とは神仏が一時応現するとの意です)。

延宝七年(一六七九)六月八日城主小笠原長祐は影向石の竹柵を修め、又貞享四年(一六八七)六月六日には影向石の竹柵を回収して石垣を造ると伝わります。また天降石との呼び名もあったようです。

それより百五十年以上を経て、豊橋上伝馬の金物商夏目可敬が編著した三河国名所図絵には「鳥居より本社の方十歩許にあり実に奇石にして諸人愛弄すへき面影あり いつの頃にや空かき曇りて霹靂雨雹と共に天より降りしかば影降石と号す」と記されています。」

 

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参道続き。

 

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「手筒花火発祥之地」でございます。

 

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う〜ん、字が小さい……祇園祭、天王祭、にて手筒花火が奉納されるようです……テレビでは何度も見たことがあります。

 

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参道続き続き。

 

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吉田神社 
御祭神 素盞嗚尊
双剣については諸説あるが旧社家の文書には天治元年(一一二四)当地で疫病が流行した際牛頭天王を勧請し疫病退散を祈願したのに始まるとある。源頼朝の崇敬殊の外篤かったとされ治承二年頼朝雲谷普門寺に在宿の折 御祈願の為名代鈴木新十郎元利をして参拝せしめ 後 文治二年石田次郎為久また代参とあり 其の時二日市に天王社(後に御輿休天王社 今の新本町素盞嗚神社)を建立したとある
牧野古白の今橋城(吉田城)築城後は 御城内天王社 吉田天王社と称し 今川義元 酒井忠次 池田輝政 又徳川幕府成立後も歴代の吉田城主により社殿の造営や修補がなされ 鳥居や手水盤等の寄付にかかるものも多く残る 室町時代には田畠十貫文を領し今川義元は六貫百文の畠を加増 徳川家康は改めて三十石を寄進し明治に至るまで之を領有した
天保六年十月正一位の神階を賜り 明治二年三月吉田神社と改称 明治四年七月郷社 大正十一年十月には縣社に昇格せられた(略)」

 

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狛犬さん。

 

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垂木の連続体。

 

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「金柑丸稲荷社 御祭神 宇迦之魂命
永正二年(一五〇五)牧野古白が今橋城を築いた当時の本丸であったとされ 後の吉田城本丸の東側の細長い地形を金柑丸という 社伝には「金柑丸稲荷社は古白今橋城を築くの日勧請する所にして云々」とあり 正徳四年(一七一四)吉田城主松平信高(信祝)は社殿を再興 此時正一位の神階を賜るとある 以後社殿の修補は城主によって四度なされ明治を迎える 明治十一年には大河内信古が城内五ヶ所の稲荷社を金柑丸に合祀し吉田神社境内に移した 明治三十九年日露戦役記念として新しく社殿が建立され明治四十二年には城守護稲荷社が合祀された 城守護稲荷社は正徳三年信高が城内三之丸に勧請したとされ 明治以後は旧藩士によって維持されるが それも信徒の減少により困難となったことから末社として移転をしたいとの願いを受けて合祀されたものである 歴代の吉田城主は名君として知られる松平信明をはじめ幕府の要職を務めた事から 出世開運の稲荷神として広く信仰される」

 

まさかの地名……一之丸、二之丸、金柑丸ってことか……よくわかりません。

 

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古地図。
豊川に背を向けた形ですね……金柑丸の場所もわかります。
金柑が植わっていたんでしょうか。

 

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こちら「伊雑社」。

 

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こちらが「金柑丸稲荷社」です。

 

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神輿庫かな。
これらは、拝殿向かって左手奥にありました。

 

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松。

 

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拝殿。
向拝っぽいところだけ銅板葺なのは、明治以後かな……江戸期は全部瓦屋根だったのではないかと思います。

 

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飛び狛。

 

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木鼻。
よい造形。

 

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御朱印

 

さて。

 

◯こちら===>>>

大日本名所図会. 第1輯 第7編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『東海道名所図会』より……そうだ、本で持ってるんだったっけ……。
231コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

牛頭天王
神明八幡宮共に御城内にあり。天王祭、例年六月十五日。
放花炮 六月十四日夜、吉田本町上伝馬町の両町にて揚ぐる。高さ十三間、幅三間、これを立物といふ。これ過ぎて大花炮あり。火の移らぬやうに大釜を覆にす。これに火をうつす時は、屋上に群る見物の人々、濡筵を被く事多し。其外町々の花炮数百ありて、群衆夥し。
翌十五日祭式 吉田五箇の寺院より飾山を出す。至て鄙びて古雅なる行粧なり。十四五歳の童、頼朝の出立とて、金の立烏帽子・直衣・太刀を佩いで、馬上なり。頼朝の乳母てふ者あり。綿帽子を被り、緋のかいどり、馬上。又十六人の殿原とて、十六人柿の素袍にかけ烏帽子を冠り、城内にて走馬あり。中に畠山重忠と名乗るものあり。騎射笠に錦の陣羽織を着て、背に幣を挿す。同じく馬上なり。此左右に編笠・湯衣を着し、笹に饅頭を数百入れし袋を結び付くる。かの重忠てふもの、領主の棧鋪の前に至り、馬上より礼をなし、袋の饅頭を多く投ぐる。これに当るを吉事とす。又笹踊、大太鼓一人、小太鼓二人、同衣裳に塗笠被り、覆面し、錦の陣羽織・小手・脚当など着し、至て古雅の体相なり。囃子方は編笠・湯衣を着し、笹に提燈をゆひ付けて、数十人同音に謳ふ、其唱歌にいはく、

天王といふ人は何仏にてまします、日本一の荒神
あらゐ・橋本・鹽見坂、名所名所の花を見さいな。

これをくりかへしくりかへし謳ふなり。都て夏の末の月に、素盞嗚尊を祭る事は、京師祇園会に據りて、委しくは[公事根源]に見えたり。[神代巻]に、諸の神達罪を素尊に帰せて、千座の置戸をもつて促懲り。髪を抜き爪を抜き給うて、はらへの具とし給ふゆゑ、身をそそぐといふ心にてみそぎといひ、御祓川ともいふ。又除とは、伊弉諾尊檍が原にて修し給ふを、祓の始と申すなり。人の形を作りて興ずるは、形代撫物より出でたり。此事は[源氏]東屋の巻にも見ゆるなり。」

 

……ちっとも、「吉田神社」のことはわかりませんね……。
祭りのことは、少し見えたような気がします。
神仏習合で、「牛頭天王」と「素盞嗚尊」が同一視される思想がいつからなのか、はいろいろな本で解説されています。
牛頭天王」というのは、ざっくり言うと。
蘇民将来伝説」というものがありまして。
外来神と思われる「武塔神」に、宿を貸さなかった「巨旦将来」の家系はその後疫病で滅亡、一方宿を貸した「蘇民将来」の一族は、目印をかかげることで疫病から逃れることができるようになりました。
武塔神」が疫病神そのものだったのか、という疑問はあるにしろ、外来神〜放浪する神ではありました。
これと、記紀神話の「素盞嗚尊」の神逐いのイメージが重なったわけです。
で、本来「武塔神」とは別だったはずの「牛頭天王」、こちらも元々疫病神ではないのですが(というか、元々どこの神なのかもわからず……祇園精舎の守護神らしいですが……)、非常に強力な疫病神と考えられるようになりました。
ここに加えて「摩多羅神」という天台宗における「後戸の神」が絡んできて、もはや何のことかはよくわからなくなります。
禊ぎ(川で体を清める)のイメージと、天罪国罪を背負ってボロボロの姿で放逐された「素盞嗚尊」のイメージから、おそらく「人形」を川に流す、という祭が生まれたものと思われます(そんな単純でもないですが)。
「人形」「撫物」というのは、「触る」呪術の代表で、人形等を自分の体の悪いところに触れさせて(体の同じ部分という場合もあり)、「肩代わり」させて川に流す、というやつです。
神様代表でそれをやらされたのが「素盞嗚尊」なので、疫病払いにぴったり、と思われたのでしょう。
湿気が増し、虫が大量に湧き、疫病の流行やすい季節(夏の終わり)に行なう祇園祭の元々の意味合いは疫病払いだとされています。
同じ「牛頭天王」系で、今の「八坂神社」と並ぶのが、「津島神社」で、その祭にも似たようなところがあるのですが、いつの頃からか、花火が疫病退散に効くと思われるようになったのか……隅田の大花火は、疫病払いとか死者を慰撫するためとか、いろいろな理由がある……とされているようです(実際にはそうではない、というのが定説のようで)。
吉田神社」の花火はどう考えても街中で行われており、濡れ筵を被ったりいろいろ対策はしていたようですが、江戸時代によくもまあこんな祭りが許されたものだ、と個人的には思います(火薬は使いやすかっただろうけれども……三州は松平・徳川発祥の地ですから)。

 

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東参河資料叢書. 第1編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑26コマです。

 

「天王社 城内 神主 石田式部 祢宜 鈴木日向
相殿八王子或八将軍。
牛頭天王或祭持統天皇。社頭及破損則自城主造営之。上伝馬町為氏子。
伝曰、右大将頼朝卿之時、石田次郎為久来于当国、使鎌倉相馬天王於三州渥美郡二日市之北古江岸入道淵西方勧請之。其時御正体奉上小浜村云々。然無可援据之旧記。暫随伝聞連記之。
此社者為吉田城鎮守。故代々城主尊信異他之。当社頭者松平伊豆守信祝君営造之。石華表松平豊後守資則君被建焉。祭礼之日代々城主躬出而拝礼焉。其式嚴重也。」

 

牛頭天王」はともかく「持統天皇」はどこから出てきたのか……。
豊橋美術博物館では、『吉田天王社と神主石田家』という、同名展覧会の図録が購入できますので、もっと知りたい方は、まずこちらを手に入れられるとよいかと思います。
花火の作り方が、びっちり解説されていて、これはこれで面白いです。

 

昔から、神社の建てられる場所にはある程度の法則がありまして(多分)、いろいろある中に、「川の近く」があります。
外来神も疫病も、境界の外からやってくるものなので、川(境界)の近くに疫病封じの「天王社」があるのは、偶然ではないと思われます(建立年代にもよりますけれども)。
最前線にあってこその神社、というものもあったのです。

 

まとまりのない記事(いつも)ですが、このあたりで〜。
まだ豊橋が続きます。

「安久美神戸神明社」(愛知県豊橋市)〜豊橋ちょっとぶらり旅〜

2/24。
さて、「吉田城趾」を後にして、続いて向かったのは「安久美神戸神明社」。

 

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onimatsuri.jimdofree.com

 

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「あくみかんべしんめいしゃ」と読みまする。

 

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社標。

 

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どうやら、「鬼祭り」が有名なようです。

 

「安久美神戸神明社は、天慶三年(940)の創建です。
平将門の乱」鎮定を祈願した調整は、伊勢神宮へのお礼として三河国飽海郷を神領として寄進しました。これを飽海新神戸といい、この時に当社が創建されたと伝えられています。この神領の安泰と繁栄を祈願して始まったのが鬼祭りの起源です。
神事は多岐に渡りますが、主なものは神楽・田楽・御的神事・御玉引の年占・御神幸の5つで、有名な赤鬼と天狗のからかいは田楽のうちの一部です。鬼祭神事は、江戸時代初期に従来の田楽中心の農村的祭礼からにぎやかな、からかい中心の都市的祭礼に変化していったと考えられていますが、田楽の一種が豊年を祈る特殊神事として古式を崩さずに継承され、さらに神楽と田楽の混融の度合いが著しいところに特徴があります。神楽の中に日の出神楽・天狗の神楽・笹良児神楽・御幸神楽、田楽には赤鬼と天狗のからかい・司天師田楽・ポンテンザラの田楽などがあります。
鬼祭神事は毎年2月10・11日の両日にわたって奉納されます。」

 

ふむ……「平将門」討伐を由来としているのであれば、鬼は荒胡ということでしょうか……天狗とからかいあるのはなんでしょう、大魔縁たる天狗……ところで「ポンテンザラ」ってなんでしょう。

 

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参道。

 

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第二の鳥居、かな。

 

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猿田彦社」。
天狗は「猿田彦大神」なのかな、解釈として。

 

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松、は「徳川家康」腰掛けの松でした。

 

「社伝によれば徳川家康公は天文二十三年、未だ竹千代君と称し吉田城内に居られた折、正月十四日の祭礼(鬼祭)に当神明社を御参拝になり、御社前の松樹の下に腰を掛けて鬼祭を興味深く御覧になられた。その後慶長八年家康公は征夷大将軍に任ぜられ、伏見城に当社神主司守信を召され、御朱印を以て神領を御寄進になられた。その時家康公は「久敷うおじゃる今も神式にちんばの真似をするか」と御下問があり、それ以来例祭鬼祭の司天師田楽を俗に「ちんば踊り」と云う。
現在松は時代を経て新たな松が植えられ、根元の大石は旧社地より神明社へと移された。」

 

ををう……「当時の表現を尊重する」ということでご勘弁願いたいものですが、旧社地ということは、以前はどちらにあったのか。

 

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こちら「稲荷社」と「三峯社」。

 

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本殿を横から。
新しめ、で神明造ですね。

 

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「稲荷社」「三峯社」の鳥居。

 

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拝殿。
立派な間口、平入りの屋根はこうしてみると美しいです。

 

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ご祭神は「天照皇大神」、配祀として「八幡大神」「秋葉大神」「菅原道真命」。
「八幡」「秋葉」「天神」、と揃っているということは、明治にぎゅっとされた感じでしょうか。

 

「(略)
明応六年今川氏親の命により牧野古白この地に築城の際御社殿を改築し城内鎮守の神崇め今川義元徳川家康公より三十石の社領を御寄進せらる。
(略)」

 

なるほど、「吉田城」を建てた「牧野古白」が改築した、と。
今の社殿は昭和五年から……それでも十分、立派に保っていると思います。

 

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「外宮社」「伊雑社」「高宮社」。
「外宮」「伊雑」は、「神明社」ですから(ただ、「伊雑宮」が江戸時代なのか、ちょっと流行っていた理由がよくわかっていません……御師が頑張ったのかな……)、わからないでもないですが、「伊吹戸主神」か……。

 

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狛犬さん。

 

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小さめひっそり「外宮社「伊雑社」「高宮社」。

 

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護国神社」。

 

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こちら神楽殿
これも昭和の再建かな……なんで瓦にしたのか……。

 

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社殿の案内板。
なるほど、鎮座地が軍用地になったので、お遷りになったようです。
おっと、神楽殿だけ、明治のものだったようです。

 

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お面が新調されるようですね。
「天狗」と「天鈿女」か……「猿田彦大神」でないところに、何かあるのかな。
「青鬼」、かっこいいな……。

 

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御朱印
面の新調のため、特別な御朱印が頒布されていました。

 

おまけ。
豊橋ハリストス正教会聖使徒福音者馬太聖堂」。

 

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「木造銅板葺1階建 建築面積 182.03㎡
この聖堂は、豊橋ハリストス正教昇天教会が大正2年に建築したものです。
西を正面とし、吹き出しのポーチをおき、続く玄関はその上に八角形の鐘楼をのせ、階段室を兼ねています。東西方向を軸線として、ポーチに続いて玄関、啓蒙所、聖所の三つの部屋を、規模を拡大させながら東に向かって一列に配置しており、聖堂の東端に至聖所を配置する形式となっています。さらに、聖所の南北にもポーチが配置されています。
設計者は河村伊織(知多郡内海村出身)で、聖堂建築のために地元の大工は、京都まで赴き京都正教会を手本にして西洋風のドームを建築したといわれています。
この聖堂は装飾の少ない質素な建築ですが、保存状態は良好で、明治大正期の木造形式による代表的なハリストス正教会聖堂として高い評価を受けています。」

 

……この時期(※執筆は2022年3月1日※)正教会の紹介というのも、何とも……ですが、西方教会東方教会は、根は同じでもずいぶん違うものになってしまっていますから、欧州でくくるのはなかなか難しいようです……建築物としては、質素な正教会は魅力的なんですけれども(ゴシックもバロックも好きですけども)。
おまけでした。

 

さて。

 

◯こちら===>>>

豊橋市市制施行二十年誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

豊橋市市制施行二十年誌』を見ておきます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
199コマです。

 

「縣社神明社
中八町中央北側にあり。天照大神を祀る、境域千餘坪、元は今の第十八聯隊練兵場の中央にありしが、明治十七年二月豊橋分営の設置と共に茲に遷座せられたるものなり。当社は由緒極めて深く飽海神戸以来の名社として、此地方最古のものの一にして、明応六年牧野古白が社殿営繕の棟札を存す、例祭は舞年二月十四、十五日の両日にして、俗に鬼祭と称し、士烏帽子小具足に身を固め、天狗の面をつけたる武者が赤鬼を追ひ払ふ最も珍らしき儀式にして、全国にその例を見ること稀なりといふ社殿、拝殿、神楽殿、神庫、社務所等ありて社宝亦少からず。」

 

ふむ……昭和3年刊行の本では、このくらいか……。

 

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東参河資料叢書. 第1編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

ちょっと『東参河資料叢書』も見てみようかと。
27コマです。

 

御朱印三十石 神明社 城内 神主 司権頭
例格亘廿一年則社頭自城主造替之。
祭正月十四日。自札木町清洲屋今新町、隅迠為氏子。
社地之内大日堂一宇。」

 

ん〜……何もわからず、に近い……「大日堂」というのが、神仏習合期の「神明社」っぽいといえばぽいのですが。
「鬼祭」、機会があったら調べてみたいと思います。

 

まだぶらぶらします。