べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「菅田神社」(名古屋市天白区)

10/30。
野波の「八劔社」の参拝を終えまして、そのままうろうろして、うまい具合に発見した「菅田神社」へ。

 

○こちら===>>>

www.city.nagoya.jp

 

久々に史跡散策路……名古屋市、いいホームページを作っているんですが、もうちょっと詳しいとありがたいです。

 

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鳥居。
これは、駐車場側ですね……多分(わりと、駐めるにぎりぎりな駐車場でした)。

 

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で、いきなり本殿ですが……あれ、拝殿の脇あたりに出てきたんだったか……。
摂社末社もいくつか見えます。

 

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狛犬さん。

 

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表参道まで出てきました。
向かって左手に手水舎があるのですが、駐車場からはその辺りに出た、と思います。

 

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社標。

 

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鳥居の下からこんにちは。

 

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拝殿。

シンプル……。

 

さて。
先ほどの史跡散策路のHPから、

 

「祭神は仁徳天皇を主とし、ほかに天照大神応神天皇など9祭神を祀る。創建不詳。明治5年7月28日村社となった。古来若宮八幡社と称していたが、明治42年3月16日島田の熊野社と合祀し、島田神社と改称。そして大正12年11月15日現在の菅田神社に改称された。」

 

とのことで、

 

○こちら===>>>

尾張志. 5 愛知郡 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

尾張志』5の16コマを見てみますと(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)、

 

「熊野社
嶋田村にあり熊野櫲樟日命事解之男神速玉之男神三坐を祭るといふ当村上郷下郷の本居神也境内に末社秋葉のやしろあり
神明社 支邑池場島の氏神也境内に秋葉の社あり 天神社 神明社より南の方にあり少彦名命を祭るといへり 若宮八幡社 仁徳天皇をまつれり 山神社 三所
この六社も同村にあり」

 

とあります。
記事の取り上げ方を見ても、当時は明らかに「熊野社」が嶋田村でも大きな社だったようで、「若宮八幡社」はそうでもなさそう……その後の合祀→改称の過程でいかなる力学が働いたのか……ちょっとよくわかりません。

 

○こちら===>>>

「島田神社」(名古屋市天白区)〜高速初詣その2 - べにーのGinger Booker Club

 

で、こちらが現在の「島田神社」なのです。
かつての嶋田村の神社が合祀されることになり、一旦は「島田神社」で落ち着いたところを、大正になって分裂した、ということでしょうか。
明治時代は、神社が整理された時代だ、というのは見聞きするのですが、大正になると分離とか許されるようになったのでしょうか……この辺りの近代神社史は、神仏分離廃仏毀釈もそうですが、地域差が大きいので、その土地その土地で情報を集めないことにはなんとも……ちゃんと情報が残っているのかもわかりませんし……って、地元のことなんですけどね。
というわけで、謎は謎のままで、宿題ということで。

「野並八劔社」(名古屋市天白区)

10/30。
引き続きうろうろしてみました。
天白区の野並八劔社」へ。

 

○こちら>>>

https://www.nonamihakkensha.jp/

 

(↑2022/3/2修正)

 

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社標と鳥居。

 

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拝殿。

 

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拝殿横から。

 

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本殿と狛犬さん。

 

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狛犬さん……あまり近づけないのが惜しい。

 

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近づいてみましたけども。

 

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アップにしてみましたけども。

 

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反対側に向かって、本殿。

 

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まだ真新しい摂社。
ううむ、神社名が遠くて見えませんでしたね……「山神社」「田神社」はあるか……。

 

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社殿向かって左手にくだったところ。

 

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そちら側の鳥居。

御朱印はいただいておりません(ネットの情報によると、あるらしいです)。
神社で頒布されているパンフレットによれば、御祭神は「日本武尊」「宮簀媛命」「伊弉諾尊」「伊弉冉尊」「天照大神」「月読尊」「素盞嗚尊」「建稲種尊」「蛭子神」となっています。

 

さて(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

○こちら===>>>

尾張志. 5 愛知郡 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

尾張志』をちらっと見てみます。
16コマです。

 

「八劔社 当社を村の氏神とす 末社六所社 秋葉社 神明社 八劔社より北の方にあり 山神社 田神社 氏神より南の方にあり
以上ともに野並村にあり」

 

境内の摂社の中には、「秋葉社」はあったのかな……「山神社」と「田神社」は、写真を拡大するとちらっと見えるので、おそらくあったのですが、明治の頃でしょうか、こちらに合祀された、ということなんでしょうか……。

 

○こちら===>>>

尾張国地名考 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

尾張国地名考』(津田正生著)によれば(64コマ)、

 

野並村 鳴海野に並ぶゆへに野並といふなり 【近藤利昌曰】熱田大宮司の采地の村也 墳墓の山もあり 小松生なり 小祠もあり(以下略)」

 

ということで、野並村はどうやら「熱田神宮」の大宮司家の所領だったようです……そういえば、神社自体のことはいろいろ調べたりしてますが、大宮司家の人々のことなんてほとんど調べたことがないな……これは今後の宿題にしておきます(「熱田神宮」の神職といったら、「源頼朝」の母親だった人、くらいしかぱっと浮かんでこない……)。
郷土史家にはなれないなぁ……。

 

「(梅森)八幡社」(日進市)

10/30。
なんとなく、ぶらっとしてみましょうと思いまして、とはいえ遠くへはあまりいけない、名古屋近郊の小さな神社を巡っているものの、駐車場がね……あまりなかったり……御朱印集めもそれほど重要ではなくなってしまったので(自分的に)、のんびりふらふら……日進市「八幡社」へ。

 

○こちら===>>>

日進市・梅森 八幡社 | 富士浅間神社

 

なぜか東郷町の富士浅間神社のHPがヒットしたのですが、こちらの神職さんが管理されているのでしょうか。

 

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鳥居と社標。
村社です(村としては、梅森村になるようです)。

 

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境内。
この辺り、名古屋と日進市の境付近で、昔からの村の風情と新興住宅街のせめぎ合いという感じですが、なかなか広い境内が維持されていて、大変かと思います。

 

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拝殿。

 

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狛犬さん。
新しめでも、苔がうっすらとあるのがなかなか良い風情かと。

 

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こちら、「金比羅社」「御鍬社」「富士社」「山神社」の合祀殿。

 

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本殿を横から……一番奥が本殿で、手前は幣殿ということになるのでしょうか、一番手前が拝殿……そこだけ瓦葺きなのが、ちょっと違和感。

 

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こちらは……あ、上の合祀されている社の本殿ですね。
普通、拝殿がどん、とあったら、瑞垣なんかでしっかり囲われて本殿には近づけない印象ですが、横から近づけてしまいました。

 

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最近はめっきり狛犬さんの写真を撮ることがメインになりつつありまして……。
小ぶりながらもよい造形かと。

 

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御伊勢様。
神明社」ということか。

 

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「忠霊社」。

 

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再びの遠景。

 

御朱印はありません(確認しておりません)。

 

さて、↑の「富士浅間神社」のHPでも紹介されていますが、『尾張志』には、

 

○こちら===>>>

尾張志. 5 愛知郡 - 国立国会図書館デジタルコレクション


(↑の15コマ/引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)

 

「八幡八劔天神相殿社 是を村の本居神とす (略) この四社梅もり村にあり」

 

とあります。
これ以上のことは調べておりません(『尾張国地名考』には、梅森村の記事がほぼなかったし……)。
そろそろ『尾張徇行記』を手に入れておくべきか……。

というわけで、単にお参りしただけの記録です(まあ、ずっとそうなんですが)。

「大須界隈」(名古屋市中区)

8/10。

飛びましたな……それだけ神社仏閣巡りができていない証拠です。

最近(※202009現在)では、月参りも滞るようになった大須「三輪神社」へ。

いえ、参拝はしているんですが、御朱印をいただくだけの時間的余裕がなく……メディアにも取り上げられるようになって、時間が……。

 

○こちら===>>>

miwajinnjya.com

 

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夏だったなぁ……屋根の吹き替えの工事をしておられました。

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御朱印

 

あと、こっそりと、「万松寺」狛犬さんを。

 

○こちら===>>>

www.banshoji.or.jp

 

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「万松寺ビル」という商業ビル兼駐車場がありまして、その大通り沿いの入り口にいらっしゃいます。

一応、その店舗が入っているビル内を通り抜けるのが参道ってことなのか……。

 

9/7。

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「三輪神社」月参。

 

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御朱印

本当に、たくさんの種類の御朱印があります。

氏子さんのいらっしゃらない、ということを以前宮司さんに伺ったことがありますので、神社の維持のためにもみなさん参拝していただきたいと思います。

私は、単に「大神神社」と三輪鳥居が好きなだけでして……はい。

氏神様にお参りしましょうねみなさん。

 

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「万松寺」もたくさんの御朱印が……前回は限定御朱印があって混んでたのかスルーしたんですが、今回は人出もそれほどではなかったのでいただきました。

どんなお寺なのか、というと、「織田信長」公が、親父さんの葬儀で抹香を叩きつけた、という逸話の残るところです。

ほど近いところには、「政秀寺」もありますよ〜(「平手政秀」を弔うために「織田信長」公が建てたお寺ですね……「平手政秀」は「信長」公の教育係です……あ、「政秀寺」、確か、小牧・長久手の戦いで一度焼け落ちたんでしたっけ)。

お城に興味を持ったことで、戦国時代にも興味を持ち始めております。

まずは地元・愛知県の勉強を、と思うのですが、「松永久秀」に興味がね……。

 

一年前の九月の記事がやっと書けました。

これからは、より一層、神社仏閣城巡りができなくなっておりますし、今年はコロナでもうね……なので、更新頻度は上がっても、ネタがなくなるのが先かもしれないので、まあ、のんびり参ります。

 

「岩村城趾」(岐阜県恵那市)

6/20。
そう、城です(?)。
前回、「苗木城」に行ってみて、「あら、城もいいんじゃないの?」と思い始めた構造物好き。
今回は、美濃の山城の中の「岩村城趾」に行ってみましたよ。

 

○こちら===>>>

onna-jyoushu.iwamura.jp

 

美濃に向かっているので、愛知県から通る道は変わらず、なんとなくのデジャブに陥りながら、駐車場を目指したのですが、結構な細い道を車で登った気がします……向かわれる方はお気をつけて。

 

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なんか、いきなり出丸ですが……写真の順番をよく覚えていない……。

 

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あ、こっちだこっち。
駐車場のところにあった案内図です。
そう、根性なしなので、本丸近くの駐車場まで登ったのです……麓から歩けよ、という話なのですが。

 

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ちょっと歩いて、すぐ石垣。

 

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うーん、中南米感……この、石垣沿いの細い山道が……行ったことのない中南米感。

 

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とにかく景色、というか石垣、というか構造物を楽しんできましたので、こんな写真ばっかりです。

 

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こんな。

 

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これは道なのか……。

 

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上の方が、まだ角が綺麗……石垣に疎いので理由はわかりません。

 

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こんなのとか。

 

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埋門。

 

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櫓か、門の礎石でしょうか。

 

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こんなのとか。

 

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野面ですか?(まだよくわかっていない)。

 

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先ほどの埋門から入ってきて、振り返ったところです。
クランクのある通路、ですね。

 

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クランク。

 

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野面ですか?

 

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本丸のあったフロア(?)に到着。

 

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景色。

 

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本丸案内板。


岩村城
岩村城は別名を霧ケ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、標高七一七mに位置し、江戸諸藩の府城の中で最も高所にあり日本三大山城の一つである。
城の創建は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝重臣加藤景康が、文治元年(一一八五年)に遠山荘地頭に補せられたのに始まると伝わる。景康の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に改め、以来遠山氏が代々居城し、東濃地方から信州の一部まで勢力下とした。
戦国動乱の時代に入り、天正元年(一五七三年)武田信玄の臣秋山虎繁(信友)が岩村城を奪取して入城したが、同三年に織田信長の軍に攻略されて、河尻秀隆が城主となった。その後は森長可森忠政、田丸直昌と城主は目まぐるしく交代した。
慶長五年(一六〇六年)の関ヶ原合戦以後は、大給松平家松平家乗が城主となり二代、丹羽氏五代のあと大給松平家分家の松平氏七代を経て明治維新を迎えた。
城郭は中世城郭を近代城郭へと修築し、本丸二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等が設けられ、丸と曲輪は石垣や堀切をもって区画され、要所に櫓、門は構えられた。
山城の建造物は明治六年(一八七三年)の廃城令を受けて競売に付され、すべて取り壊された。」

 

森長可」……知っていますよ、「攻めの三佐」と言われた、織田家臣団初期からの猛将「森可成」の息子ですよね(「森蘭丸」のお兄さん)。
ありがとう重野先生!(戦国時代の知識は、すべて『信長の忍び』で入手しています……ほら、三国時代の知識をみんな横山光輝先生の『三国志演義』で手に入れたようなものですよ)。

 

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鬱蒼……建物があったころは、こんなに木は生えてなかったんでしょうか。

 

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角。

 

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角と花。

 

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見上げれば、角と花。
なんでこんな写真が多いのか、といえば、地元と思われる団体さんがスケッチに勤しんでおられたので、邪魔しないようにとアングルを探ってたら……だったと思います。

 

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角、角、角。

 

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長局埋門。

 

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あそこの、切れているところが門だった、ということですか。

 

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おお……石垣の上に石垣……なんか、自分が作ったわけではないのに、よい画だ、と思ってしまいます。

 

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六段壁。
これが噂の……。

 

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とその前に、角。

 

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うーん、なんだろう、なんとも言えない味わい……。

 

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角。
ちょっと、手前の影と、奥の日向の対比が面白かったので。

 

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野面ですか?

 

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そして、六段壁です。
……中南米感……。

 

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かっこいいですなぁ……。

 

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これなんかまさに、という感じで……晴れててよかった。

 

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ちょっと離れたところから。

 

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で、麓に降りていきます(結局歩いて降りるんだったら、麓から登ってこればよかった……と思ったのは内緒です)。

 

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「菱櫓と俄坂
山の地形にあわせて石垣を積んだので、菱形になった。山城特有のものである。この上にあった建物も菱形であったので、菱櫓と呼ばれた。菱櫓は全国城郭にもその例はあまりなく、中世期の山城を近世城郭に改築した城郭の貴重な歴史的遺構である。菱櫓の前に俄坂門(櫓門)があり、番所、多門があって、大円寺、水晶山方面を遠望監視した。
中世の頃はここが大手門(正門)で、大円寺城下町説もあり、大円寺へ通ずる険しい急坂も残っている。
実際は裏手の門で、普段は使わないが、落城等の非常口として用いられた。俄坂もその意味がある。俄坂の途中に中世城の遺構である東曲輪があるが、天然の峻険を利用し敵の来襲に備えていた。」

 

ふうむ……初耳のことばかり。
自分の降っている道が、「大円寺」に通じているのでしょうか……「大円寺」って今もあるのかな……。

 

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六段壁を振り返る。

 

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麓に行く途中の、角。

 

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八幡神社……え、神社あったっけ?
お参りしてないけど……結構広い空間だな……なんで写真がないのかな……。

 

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霧ヶ井。

 

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こちらがそう、らしいです。

「城に秘蔵の蛇骨を投げ入れると、忽ち霧が立ちこめ」るとな……「蛇骨」ってなんでしょうね……水と反応して煙が出るなら、石灰とかかな……。

 

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角。

 

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角でもない。

 

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追手門・三重櫓。
結構降りましたよ。

 

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中南米感はないな……。

 

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あ、こっちの角は反り返ってる。

 

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角は綺麗に揃えるんですよね……なんて言いましたっけ……いい造詣。

 

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ちょっと、なんでしょう、光の加減と緑の色合いにジ○リテイストを感じたようです。

 

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同じような構図ばっかだな……。

 

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紅葉がすごい……秋は美しいのでしょう……行ってみたい……(コロナ……)。

 

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麓までいかずに戻ってきましたよ、六段壁。

 

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さっきも見たな。

 

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また本丸のほうへ参ります。
うん、この見上げる感じは中南米っぽいちょっとだけ。

 

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ラマ歩いてないかな、ラマ……。

 

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角。

 

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これは、最初に入ってきた埋門のところでしょうか。

 

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このクランクが敵を防ぐ……んでしたっけ。

 

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このクランク(略

 

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ごつごつ。

 

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垂直と水平。

 

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傾斜。

 

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右奥にあるのが駐車場です。

 

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傾斜。

 

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野面……かなぁ……。

 

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ちょっと滑らかな角。

 

 

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さて、麓まで降りて行って、御城印をゲットしました。
観光案内所だったかな……。
その行き帰りで、風情ある町並みをふらふらと歩いてみると、いかん、ここでしばらく過ごしたくなってきた……『半分、青い』というドラマのロケも行われたのですね(テレビ観ないからわかんない)。

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で、「岩村神社」を発見。

 

岐阜県指定史跡 一条宰相中将信能終焉の地
承久三年(一二二一)後鳥羽上皇鎌倉幕府打倒の兵をあげたが、幕府によって鎮圧された事件を「承久の乱」という。承久の乱頭目とみられたのが承久殉難五忠臣といわれる五人の公卿で、一条信能はその一人である。彼は官軍の一将として宇治川の芋洗で幕府軍と戦ったが敗れ、捕らえられた。信能は幕府軍として出陣した岩村城主遠山景朝に伴われて鎌倉へ護送される途中、幕命により同年八月十四日、ここ遠山荘岩村の相原で処刑された。享年三十二歳であった。承久記では処刑を悼み、その模様を美文で綴っている。処刑の日を吾妻鏡では七月五日としているが、公卿補任では八月十四日とされ、他の四忠臣との関連から後者の説が正しい。村人はこれを哀れみ、処刑地にて小祠を建てて霊を弔い、若宮社と称してささやかな供養を続けてきた。
其の後、六百数十年を経て明治の王政復古となり、明治十三年(一八八〇)六月、明治天皇中山道御巡幸の折、承久の乱にあたって殉じた一条信能の英魂を御追認され、特旨をもって岩村へ勅使を派遣、祭粢料を賜った。
同十四年三月に社号改称の沙汰があって岩村神社と称することになった。昭和三年(一九二八)十一月、正三位贈位の恩命があった。
現在は岩村夏祭りとして毎年八月に全町をあげて祭礼を行っている。
(以下略)」

 

承久の乱」……全くピンとこない……この間源平の本を読んだんだけどもなぁ……。

岩村歴史資料館も訪れました……と思うのですが、なぜか写真がありません……なんでだろう……。

 

恵那地方はかつて遠山と呼ばれていたそうで。
岩村城のパンフレット(よいものだ、みなさん買おう)によれば、「源頼朝」の忠臣「加藤景廉(かげかど)」が始祖とされていて(親友は「梶原景時」らしいです)、その子「景朝」が初めて「遠山」を名乗ったそうで。
吾妻鏡」に記されている(承久元年七月九日条)には、「遠山左衛門尉」とあると……あれ?
えっと、ひょっとすると……『遠山の金さん』って……と思ってウィキペディアを見てみると、やっぱり「明知遠山氏」の分家の五代目となっていて、その「明知遠山氏」は「岩村遠山氏」の分家……以前に訪れた「苗木城」も「苗木遠山氏」、ううむ……これは、時代劇大流行りだった頃に、もっとコマーシャルしたほうがよかったんではないでしょうか……いや、したのかな?
まあ、分家の五代目とかになっちゃうと、縁が遠すぎるのかもしれないですが。
長篠の合戦」前に、「武田勝頼」が行った東美濃攻めで、ほとんどの城が落ちちゃった、けれども、その後もたくましく生き残る遠山氏……岩村では大給松平家が封ぜられたようですが……。
戦国から江戸、明治に至る歴史のロマンは、実はどこにでもあるのですね……勉強したくなってきちゃった……。


というわけで、山城を見に行こう、の企画、今後も山城かどうかはわかりませんが、城はまだ見にいきます。
石垣がなくても、中南米感がなくても。
とりあえず「名古屋城」に行け、と(子供の頃に何度となく登りましたよエレベーターで……ただ、今は登れないんです、木造天守復元するのかどうなのか、っていう話なので……「本丸御殿」は人数制限で入れたんだっけ)。

「菊名神社」(横浜市港北区)

6/16。
よんどころない事情により横浜に出かけまして、さて要件も済み、どこかへ……ということで行ってみました菊名神社」

 

○こちら===>>>

www.kikunajinja.jp

 

いや、めったに乗らない横浜線なんか乗りまして(20数年前はよく乗った)、菊名駅で降りたのは初めてかな……もっぱら新横浜と町田、相模原の行ったり来たりだったからなぁ……昔厚木に住んでました。

 

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鳥居。
思っているよりもずっとこじんまりとした敷地でちょっと驚きました。

 

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ええと……「菊名総鎮守 菊名神社」ですね。
御祭神は「誉田別命」「天照皇大神」「日本武尊」「木花咲耶姫命」「武内宿禰命」……八幡、神明社浅間神社、あとはなんでしょうね……。
由緒が読めない……。
↑のHPより、

 

「ここ菊名の地には、昭和の初期まで神明社(天照皇大神)、杉山神社(日本武尊)、浅間神社(木花咲耶姫命)、八幡神社(譽田別命)、阿府神社(武内宿禰命)の5社が村社として地域の人々の信仰を集めて参りました。中でも記録に残るものとして最も古くからあるのが、阿府(あぶ)神社であり、その歴史は任和元年(885年)に遡るといわれております。時の天皇光孝天皇が師岡に勅使を遣わされ熊野神社を創建なされた時、勅使がその途上、馬具の鎧をお納めになったことからその名が付いたと史書には書かれております。
 この5社が昭和10年、現在は菊名町公園となっている杉山神社の地に合祀され、名も「菊名神社」と改められました。その後、太平洋戦争の戦火を逃れてからは、同所を保健所建設用地として提供するため、当時の八幡神社の地(現菊名神社の地)に社殿を移設、以降この地で菊名の総鎮守として地域の人々とともに歩み、またその生活を見守り続けて参りました。
 この間、氏子崇敬者の厚いご協力の下、昭和32年には社殿の改修および社務所・神楽殿が建設され、信仰の対象としてだけでなく、地域住民の交流と青少年の研修の場としても大きな役割を担うこととなりました。そしてこの度平成23年には、50年ぶりの大々的な社殿改修工事を終え、21世紀に相応しい姿となって生まれ変わりました。
 新たに完成した拝殿の天井には、中心に「菊」の花を配し、四方にはがまんさまによって守られる24枚の天井画が飾られております。テーマは「菊名の絆」です。これは社殿は新しくなっても、菊名の総鎮守として以前と同様、変わらずこの地の人々とともにあることを示しているのです。拝殿には、24枚の天井画、輪になって咲く菊の花が中心に描かれ、四方は開運招福を呼ぶ四季を背景にしたがまんさまで守られています。」

 

だそうです。
そうか、「杉山神社」は「日本武尊」が御祭神でしたか……横浜、多いんですよね、「杉山神社」。

 

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木鼻……構造的なものではなく、飾りだけになっております……でも残っていてくれるだけでもありがたいか。

 

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「がまんさま」……読めない……ここは、神社で購入した「港北区神社誌」という素敵滅法な冊子(発行は港北区神社氏子総代会さん)のp32より、

 

「がまんさまとは、鳥居をくぐり左手側、手水鉢の四方を支えている四体の「鬼の石像」のことで、寛政年間(一七八九〜一八〇一)に築かれたといわれている。がまんさまは、苦難なことに耐え、同じ仕事に飽きることなく、不平も言わずにじっと忍耐して、長い年月にわたって手水鉢を守り通している。そのがまん強いお姿は、人の進むべき道を諭しているとして、昔より人々の親と尊敬を集め、今に至っている。」

 

とのことです。

 

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拝殿遠景。

 

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狛犬さん。
今まで、岡崎型(というんでしたか)の狛犬さんで、彩色されているものは「おいおい」な感じに思うことがありましたが、こちらはよい具合に塗装されているのではないかと思います。

 

 

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こちらが「がまんさま」です。
鬼……なんですかね……何か、もうちょっと意図のある意匠にも思えます……力士とか……あ、鬼か……ううむ、不思議な造形。

 

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神明社」。

 

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おっと、こちらに「がまんさま」の由来がありました。

ふうむ、残っているのは一体だけですか。

 

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御朱印

「がまんさま」大人気。
すでに結構な暑さだったように記憶していますが、御朱印を待つ人も多く、涼しい社務所の中で待つことができました(今は、コロナで難しそうですね……)。

 

さて。

 

○こちら===>>>

横浜市史稿. 神社編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

久しぶりの『横浜市史稿』の神社編から。
205コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
まず、社格は村社の「八幡神社」から。

 

八幡神社は、神奈川区菊名町字和田前七百十六番地に鎮座。境内は百四十三坪。同町の鎮守である。
由緒は不詳で、維新前は、大豆戸村の本乗院が別当であった。明治六年、村社に列せられた。
祭神は応神天皇
社殿は入母屋造。本殿(略)は草葺、向拝附。
附属建物には、石鳥居(明神形)一基、手水鉢一箇、玉垣がある。
(以下略)」

 

続いて、無格社の「神明神社」。

 

神奈川区菊名町字籠久保二百九十五番地に在る。境内は五百十七坪(略)。
由緒は不詳。維新の前は、諸岡の法華寺で進退した。
祭神は天照大神
社殿(略)は亜鉛葺、外に石鳥居(神明形)一基、手水鉢一個がある。
(以下略)」

 

そして「阿府神社」。

 

「阿府神社は、神奈川区菊名町字宮谷六百五番地に在る。境内は百六十五坪。同所宮谷で奉祀して居る。
由緒は詳でない。往古は鐙明神社と云つたものと伝へ、武蔵風土記稿には「鎧明神社。村の艮にあり。土人の伝へに云、往古貴人のここを過ぎる時、乗たる馬の鐙をここへ落せしかば、其鐙をもてかく崇めたりと。篠原、長福寺持。」とある。享保七年、元文四年、安政三年、明治三十一年の四度に、社殿の造営をし、最近は大正九年に社殿の修築と家根の葺換とを行つた。明治初年に無格社に列せられ、阿府神社と改称したものである。(略)
祭神は武内宿禰
社殿(略)は亜鉛葺。
例祭は無し。
(略)」

 

そして、「杉山神社」。

 

杉山神社は、神奈川区菊名町字宮田に四百八十六番地に在る。境内は一千十三坪。(略)同所宮谷で奉祀する。
由緒は不詳。維新の前は、諸岡村の法華寺別当して居たといふ。
祭神は日本武尊
社殿(略)は亜鉛葺。外に石鳥居(明神形)一基がある。
祭礼は無し。」

 

浅間神社」は載ってなかったです……安易にこういう便利な本を頼っては、と思って、『新編武蔵風土記稿』も見てみましたが、引用されている以上のものはなく、でした。
境内地の広さを見てもわかりますが、最初「杉山神社」に合祀されたときは広大だったんでしょうね……「八幡神社」では、境内地が9分の1くらいですから(官有地もあったりしますので、一概に「杉山神社」が土地を持っていた、というわけではないのかもしれません)。
で、思ったんですが……「がまんさま」は、五社のうち、どの神社にあったんでしょう?
この流れで行くと、「八幡神社」にあったと見るべきでしょうか……「手水鉢」がある、とわざわざ書いているくらいだし。
でも、「神明神社」にも「手水鉢」は書かれているんですよね。
……みなさん気にならないのかな……よそ者の私が気にすることではない、ということにしておきましょう(そこまで案内してくださるとありがたいですが)。


港北区の神社、全部巡ってみたいな、また横浜に行くことがあればそれも……と思っていたらこのコロナですから……。


地元と東京以外であまり神社巡りをしていなかったので、一箇所とはいえ楽しかったです〜(時間がもう少しあれば、いくつか巡ってみたかったです)。

「金王八幡宮」(東京都渋谷区)

5/19。
というわけで、東京在住中の頃から前を何度も素通りしてきた金王八幡宮へ。

 

○こちら===>>>

金王八幡宮 ご祈願 ご参拝 東京都渋谷区

 

渋谷のど真ん中にこんな神社が、とか思っても見なかったもので……さすが江戸やで。

 

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狛犬さん。
凛々しい。

 

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あれ……鳥居に戻ったんだっけ。

 

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金王八幡宮
御祭神 応神天皇品陀和気命
(略)
由緒
金王八幡宮は、寛治六年(皇紀一七五二年、西暦一〇九二年)渋谷氏の祖 河崎基家により鎮祭され、基家の子重家が鎌倉街道沿いの要所であるこの地に館を構えて居城として以来、渋谷氏の氏神として尊崇されました。
渋谷重家には嫡子がなく当神社に祈願したところ、大神の御神徳により渋谷金王丸常光のちの土佐坊昌俊を授かりました。金王丸の活躍は平治物語吾妻鏡などにみられる通りであります。当神社は当初「渋谷八幡宮」と申しておりましたのを、金王丸の名声に因み「金王八幡宮」と称するようになりました。
また、境内の金王桜(渋谷区指定天然記念物)は、頼朝が金王丸を偲び植えたもので、一重と八重が混じって咲く珍しい桜で、江戸三名桜に数えられました。
江戸時代には、竹千代(徳川家光)の教育役の青山伯耆守忠俊と乳母の春日局が三代将軍就任を当神社に祈願し、その願いが成就したのは大神の神慮によることと、現在の社殿及び神門(渋谷区指定文化財)を寄進されました。
時代は変わりましたが、現在も青山・渋谷の氏神として数多の崇敬を集めております。
(以下略)」

 

……いかん、全く知らないぞ「金王丸」……。

 

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木鼻。
寄進したのが「青山忠俊」と「春日局」ということで、「日光東照宮」に通じるものがある、と考えていいのでしょうかね。

 

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虎。

 

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龍……と鷹かな。

 

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木鼻。

 

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象……か、獏か……。

 

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金王桜」の解説。

 

源頼朝の父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節をしのび、頼朝が金王丸の名を構成に残そうとして、鎌倉亀ヶ谷の館から金王丸ゆかりのこの地に移植したものとされています」

 

抜粋。
そうか、「源義朝」時代の……余計にわからん……。

 

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狛犬さん再び。
よい。

 

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都心の神社は、こういう違和感が魅力だったりしますよね。

 

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渋谷のど真ん中で、境内が広くて、こちらは「玉造稲荷神社」。

 

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お狐さま。

 

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狛犬さん。
小ぶりながら存在感。

 

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御嶽神社」。
武州の「御嶽神社」は行ったことないな……。

 

○こちら===>>>

musashimitakejinja.jp

 

青梅か……おっと、神使は「大口真神」ですか、関東っぽい。

 

「社前の狛犬一対と西参道の鳥居はかつて実践女子学園の校内にあった香雪神社より大東亜戦争後移設したものです。」

 

抜粋。

 

○こちら===>>>

www.izumotaisya-tokyobunshi.com

 

社殿は「出雲大社東京分詞」に移設されたようです。
素通りしたことあるなぁ……いかんいかん。

 

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「金王丸御影堂」。

 

「金王丸十七歳の時、源義朝に従い保元の乱に出陣。平治の乱ののち出家し、土佐坊昌俊と称し義朝の御霊を弔いました。
また、頼朝とも親交が深く鎌倉開幕にも尽力。義経追討の命を受け、文治元年(一一八五)十月二十三日夜、心ならずも義経の館に討ち入り勇ましい最期を遂げました。
この御影堂には、保元の乱出陣の折、自分の姿を彫刻し母に遺した木像が納められています。更に金王丸が所持していた「毒蛇長太刀」も当八幡宮に保存されています。」

 

抜粋。
「毒蛇長太刀」……なんて厨二病心をそそりそうでそそらない名前なんだ……。

 

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狛犬さん。
小鬼系。

 

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「御影堂」。
小規模ながら、独特の雰囲気があります。

 

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拝殿遠景。
陽も落ちかけて、よい感じに。

 

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門。

 

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鳥居。
こちらが正面でした。

 

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社標。

 

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そのお隣に、「豊栄稲荷神社」という神社がありました。

 

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ちょっと面白い構図になった。

 

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拝殿。

 

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神社の由来がほられていますが……読めない……。

とりあえず、「当社は渋谷八幡宮を創建せる河崎土佐守基家の曾孫渋谷高重の創祀」と伝えられていて、「堀の外稲荷」「田中稲荷」「川端稲荷」と呼ばれていたようです。

 

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こちらは、庚申塔の由来。

 

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いや、庚申塔パラダイスだったのです。
青面金剛」と「三猿」、日月が基本モチーフですが、これだけ揃っていると見ていて飽きませんよね。

 

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御朱印

 

さて。

 

○こちら===>>>

大日本名所図会. 第2輯第4編 江戸名所図会 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『江戸名所図会』です。
90コマより(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「渋谷八幡宮 同所中渋谷にあり。此所の産土神とす。祭礼は八月十五日なり。
本社祭神 応神天皇一座。社記に云く、此神像は上古弘法大師豊前国宇佐八幡宮の告あるにより、しばらく山城国鞍馬寺に安置し奉りしを渋谷次郎高重護持して当社の神体とあがむると云々。本地仏阿弥陀如来の像は、慈覚大師の作なり。圓證阿闍梨東福寺創建の時、行脚の僧来りて授与せしとなり。
矢拾観世音 社前にあり。本尊は慈覚大師の作にして、金王麿尊信の霊像なりといへり。社伝に保元年間の戦に、此本尊軍卒に化現し、敵の弓矢を多く拾ひあつめて、味方の陣中へ入り給ひしより、かく称したてまつると云々。
子安薬師如来 同所にあり、龍宮出現の尊像なりとぞ。義朝誕生の時、龍宮より出現し、又頼朝尾張国幡屋において出生の時も守護たりしとぞ、仏礼に念珠をかえたり。世俗是を安産守護の念珠と唱へ大に崇信せり。
金王桜 一名憂忘桜とも號けたりしとぞ。伝へ云ふ、往古久寿の頃、源義朝鎌倉亀ヶ谷の館に植えおかれしを、金王丸に賜ふの後、此地に移し、氏神八幡宮の瑞籬にううるとなり。或は社記に云ふ、文治五年七月、頼朝公奥州泰衡退治凱陣の頃、当社に詣で給ひ、太刀一振を納め給ひ、又金王丸の影堂に立寄り、其誠忠を感じ給ひ、鎌倉亀が谷より桜一株を栽えられて、金王桜と號けられけるともあり。又[むらさきの一本]といへる冊子に、紀州亜相頼宣卿の御母堂養珠院殿、此桜の実を御庭に植えさせられ、やや生立ちて花も開かんとせし頃、八幡の社内なりける元木の桜既に枯れたりしかば、御家臣渋谷善入という人は金王丸の遠裔なれば、他の人の植えたらんよりは、祖先への孝養にもなるべしとて、件の実生の桜を善入に下し給ふ。善入恭しく是を拝受して、其枯株の跡へ植え継ぎける。今の桜是なりとしるせり。
(略)
什宝 月輪御籏一流 社記に云く、後一条帝の長元元年五月、平忠常北総に兵乱を起し、近国を掠む。源頼信朝臣、忠常追討の祈願として、秩父の峯に八流の籏を納め給ふ。其内日月の二流は武基に賜はり、大宮の妙見山に収め、八幡宮とあがむ。其後河崎土佐守基家に白籏一流賜はり、独仙北金沢城を攻落せり。依て義家朝臣基家を召され、此軍勝利ありしは、全く正八幡の加護たるべき事を示し、寛治六年正月義家朝臣凱陣の時、谷盛荘へ立寄らせたまひ、月の御籏をば当社にとどめ給ふ。されども、此御籏をみだりに拝する者ある時は、かならず祟ありといふをもつて、能證阿闍梨深く社壇にひめ置きて、写を出し置けりといふ。開帳の時節諸人に拝せしむるは其模なり。
(略)
獅子丸太刀 河崎土佐守仙北金沢にして猛威を振ひ、城を攻め破る。其頃勤賞として義家朝臣より賜ふといへり。
毒蛇長刀 金王丸長田が館、野間の内海にて勢を振ひしも、ひとへに此薙刀の威徳なりとぞ。
(略)
社記に曰く、当社は高望王より五代の後裔、村岡五郎良文が曾孫、秩父別当武基の一子に、同十郎武綱といへる英雄あり。寛治三年六月、清原武衛・同家衛が猛威を摧き、奥羽の間に勢を揮ひ、名誉を天下に輝かしぬ。故に将軍義家朝臣是に感じ、勤賞として其子六郎基家(略)に武蔵国谷盛荘を賜ふ。(略)依て基家勝地を撰び、同六年正月始て采邑の地に当社を営建し、金王麿迄代々氏神と称し、尊重厳なりけるとぞ。別当天台宗にして、渋谷山東福寺と號す。相伝ふ、六孫王経基の開創にして、昔は親王院と呼びしとなり。開山は圓鎮僧正と號す。養和元年百十一歳にして化寂ありしと云々。」

 

ふう……中世〜戦国の知識がすっぽりないもので、登場人物があんまりわかりませんな……これは勉強せねば。
文中に「野間の内海」とあるのは、愛知県の知多半島の話、でしょうかね(最近ちょっと勉強したんだけどなんだったっけなぁ……今の「野間大坊」と関係があったような……)。
「金王丸」のこともよく知らないと……だめだめですな。

 

「金王麿影堂 同所向側、叢林の中にあり。[八幡宮社記]に云く、金王麿十七歳の時、主君義朝の命により、鎌倉に赴く頃、其母別れを惜み、悲嘆の涙に沈む。依て金王麿自ら姿を造りて、母堂の許に残しとどめけると云々。其像は鎧衣二刀を帯する容姿なり。
(略)[保元物語]を以て考ふるに、金王麿は左馬頭源義朝に仕へし童にして、度々手がらをあらはし、頗る大功の者なり。義朝平時元年に大納言藤原信頼にくみしてむほんを起し、待賢門の軍に打負け、尾張国野間の内海にありし御家人、長田庄司忠宗がもとに落ち伸びたまひしを、長田心がはりして、浴室に義朝を弑し奉る。金王麿くちをしく思ひ、走り廻り、むかふ者共をきりふせて、其後都に登り、義朝の妾常盤がもとに参り、其ありさまをかたりて後、義朝の跡をとぶらひまいらせんが為、出家して諸国を修行し、其終る所しらずとなり。金王丸より渋谷と唱ふる歟。縁起には、重家寛治六年渋谷の姓をたまはると見ゆれども違へり。系図を見るに、重家の子重国、其子高重、其子金王丸とあり。社記には、重家一子なきをうれへ、八幡宮へ祈り授かる所、金王丸といふ。高重は金王丸より後にして、文治年中頼朝時代の人なりと云ふこと違へり。」

 

……ああそうか、高田先生の小説を読んだから、野間の話を覚えていたのか……その小説の内容をほとんど覚えていないのは自分でも難儀です……『源平の怨霊』なんですけども。

 

 

源平の怨霊 小余綾俊輔の最終講義

源平の怨霊 小余綾俊輔の最終講義

  • 作者:高田 崇史
  • 発売日: 2019/06/27
  • メディア: 新書
 

 

 

「金王丸」の話は出てこなかったなぁ……毒蛇長刀、どうなったんだろう……。
平治物語』『保元物語』のような軍記物(というのか)、あるいは『吾妻鏡』にしても、ぎりぎり歴史書と言えるかどうか、みたいな扱いですが、江戸期と違ってそこまで書簡なんかも伝わっていないわけで、資料として尊重せざるを得ないと(公家なんかの日記はもちろんあるのでしょうが、個人でそこまではなかなか追えませんし、中世史は興味ありでもメインターゲットじゃないからなぁ……)。
いずれにしろ、「渋谷」「金王丸」の名前が今も残されていること、何かしらの意図を感じたり、地域に根付いたものなんだろうなぁと素直に感心したり……地名を変えることは否定しませんが、元の地名は残しておいてほしいですね。
さて、いい旅だった……あんまり旅してないな、この年の後半は……。