10/24。
「検見川神社」を後にしまして、どこへ……と迷っていたら、狛犬ラバーのみなさんからの怪電波を受信しまして、「菊田神社」へ。
◯こちら===>>>
津田沼駅で降り、ぶらぶらと歩いていくと、「ほんとにこっちかなぁ……」と思うような道に案内され……いえ、全く地理的なことがわからないもので。
とりあえず、無事到着。
習志野の守護神。
なんかかっこいい。
鳥居。
元鳥居、かな。
いきなり拝殿まで来ましたが、彫刻。
天水桶。
神紋は……ああ、「菊」に「田」なのか。
拝殿遠景。
シンプル。
本殿。
本殿の彫刻もまた、よき。
拝殿正面。
手水舎。
狛犬さん。
小さな獅子山……元々は、もっと大きかったのかな。
小祠と石祠と。
こちらはお稲荷さんですね(多分)。
こちらはなんだったか……。
小さな狛犬さんも。
やけに緑色に見えてしまう狛犬さん。
「御祭神 大己貴大神(大国主命) 藤原時平命
(略)
由緒
古伝によれば、当神社は久久田大明神と称して、弘仁年間(西暦八一〇年代)今より約一、二〇〇有余年前より御社として祭祀されてありました。当時は、この境内地は小嶋であって、この嶋を中心として東西両側は丘で、砂土堆積している入江でありました。住民の多くは西側の丘に住居を構えて生活して居りました。住民は嶋の上に鎮座されていた御社、即ち久久田大明神を産土神および氏神として奉斎信仰していました。なお、旧九月十九日を例祭の日と定めて、年毎に祭事を執行していました。また、住民は地内並びに周辺(近隣)の人と縁結びをしますと、これがまことに夫婦円満の家が多く出生児達もみんな丈夫に生長し、長命の人も多く、それ故に住民はこの久久田大明神を特に縁結びの神、厄難除の神、安産の神として崇敬し、商売繁昌の神(後年この地に商人が出来て、このお宮に祈願したところ何れも商売が繁昌した)としても崇敬しました。
治承四年、藤原師経、藤原師長卿の一族郎党当国に左遷の砌り、相模国より船に乗船し相模灘を経て袖ヶ浦にと来ましたところ、海上少し荒れていた為に何処か波静かな所はないかと探し求めていましたところが、たまたま久久田浦の入江と嶋を発見しましたので、一同はここに船を漕ぎ来たりてこの嶋に着船上陸しますと、住民達が崇敬しているお宮がありました。即ち久久田大明神のお宮で、師経卿、師長卿は無事に此処まで安着出来たことはこの祭神の御神徳によるものであるとして深く感銘されて、この御社を崇め奉りてこの地を安住の地と定めることとし、同時に祖先の人皇六十代醍醐天皇の御宇延喜左大臣藤原時平命を合せ祀り住民と共に奉斎崇敬しました。後に師経の一族は三山の郷(現在の二宮神社の鎮座の地)に移住したと伝えられています。
その後星移り年変りて入江も浅瀬となり、この嶋の土と東西の丘の土を採取した浅瀬に盛土して水田を拡げて氏神の社名に相応しく永く久しく栄える国として耕作するようになりました。またこの境内地が船の形をしているのは、師経一族郎党が着船したのを記念とするために浅瀬を盛土するときにこの形を造ったと伝えらえています。
御社号改名 宝暦年間桃園天皇の御代に社名を菊田大明神(古老の云伝えによれば、菊は吾が国の名花、菊文字は久久よりも御社名には相応しいとの所以によって改名されました)
(略)
合祀 大正元年十一月、区内各町(本郷、丸田、下宿、浜宿)に鎮座されていた八坂神社、金刀比羅神社、大山祇神社、水神社、稲荷社、雷神社の御祭神を合祀。」
「藤原師長」という人は、
◯こちら===>>>
↑コトバンクによれば、
「平安後期の政治家、音楽家。左大臣頼長(よりなが)の第2子で、1156年(保元1)父に連坐(れんざ)して土佐に流されたが、のち召還され、77年(治承1)に太政(だいじょう)大臣の位まで昇るが、79年には平清盛によって追放され、尾張(おわり)で出家した。法名理覚。世に妙音院(みょうおんいん)太政大臣という。源家(げんけ)と並ぶ郢(えい)曲の流派の一つ藤家(とうけ)の出身で、音楽的才能にも恵まれ、『十訓抄(じっきんしょう)』や『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には早くから管絃(かんげん)や歌曲に長じたことが記されている。箏(そう)と琵琶(びわ)の名手で、箏では『仁智要録(じんちようろく)』、琵琶では『三五要録(さんごようろく)』という各12巻からなる譜集を編纂(へんさん)し、抄出した『仁智要略』『三五要略』とともに後世に伝えられる。また今様(いまよう)は源資時(すけとき)と並ぶ後白河(ごしらかわ)法皇の後継者、声明(しょうみょう)と朗詠(ろうえい)では新しく妙音院流をおこした。」
「藤原師経」は、
◯こちら===>>>
「没年:正元1.1.15(1259.2.8)
生年:安元2(1176)
鎌倉前中期の公卿。左大臣経宗の次男で,兄頼実の子となる。母は橘政光の娘。大炊御門と号す。元久2(1205)年に権中納言,承元1(1207)年に守成親王(順徳天皇)の春宮権大夫となる。承久の乱(1221)後右大臣に上った。」
だそうですので……うん、まあ、伝説なのでしょうか。
何しろ、全く詳しくない時代のことなので……実際に左遷された「藤原師長」はともかく、そういった逸話が辞書の類に掲載されていない「藤原師経」……いや、何かあるのかもしれません(陰謀論)。
狛犬さん新しめ。
そして、「菊田神社」といえば、と狛犬ラバー界隈でもっぱらの噂な、狛犬さん。
確かによい。
これだけで飯が何杯もいける狛犬ラバーさんもいらっしゃることでしょう。
これは……三峯か古峯か……。
参道、狛犬さんはこんな感じ。
こちら「琴平神社」と狛犬さん。
小さいながら、造形に面白さあり……もちょっとホラー……。
あらためて、参道。
御朱印は、金泥のものをいただきました。
狛犬さんのもあります。
御朱印帳が、またこの狛犬さんデザインで素晴らしかったのですが、今回は手を出せず……。
さて。
◯こちら===>>>
↑「検見川神社」のときは引用しませんでしたが、『千葉県千葉郡誌』をちらっと。
393コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「菊田神社
津田沼町久々田に鎮座す。大己貴命を祀る。(略)境内の全形は舟形をなせり。こは昔よりの伝説により由緒深きものなりと云ふ。(略)」
……まあ、HPとか案内板の方が詳しいという(詳しいからといって、正確なわけではないですが)。
「藤原師経」「藤原師長」に関する伝説についてはともかく、それ以前から神社としては存在しており、そのときの御祭神が「大己貴命」だったかどうかは不明ながら、地名の「ククタ」は、「ククノチ」に通じるのかもしれません。
しかし、もともと嶋だったところに祀られていたお宮だとすると……何かもうちょっと面白い妄想が浮かぶかな、と思ったのですが、残念、何も浮かびませんでした。
基本、島に隔離されているような神というのは、祟り神だと思われます(とはいえ、日本の神で祟らない神はあんまりいないので……)。
最初から島にいたのか、島に追いやられたのか、で祟りのベクトルが違ってはいるでしょうけれども、「六部殺し」みたいに、何らかの危害を加えて島に追いやった(出てこられなくした)のだとしたら、かなりの祟りだったことでしょう……そんな伝説、「菊田神社」にはないと思いますので、無視してください妄想です。
千葉道中ラストで、狛犬さんを愛でられてよかったよかった。