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さて、「北野神社」のほど近く、「新井山梅照院」、通称「新井薬師」へ。
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桜がですね、やっぱり咲いておりまして、花見客でわりと混雑していたもので……のんびりすることもできず(卒業式に間に合わなくなってしまう)、。
本堂。
本堂横から。
桜……?
本堂遠景。
入り口より。
入り口脇の、「豊川稲荷」さん。
……うん、人がたくさん写ってしまって……こりゃダメだ……。
御朱印……あれ、ご本尊は「薬師如来」で、「瑠璃殿」とか「瑠璃光殿」と書かれていないんですね……珍しい気がします。
◯こちら===>>>
大日本地誌大系. 第1 第6冊 新編武蔵国風土記稿六 - 国立国会図書館デジタルコレクション
↑『新編武蔵風土記稿』です……結構著名な寺院なのに、検索にあまり引っかからなかったんですよね……多分探し方が悪いんでしょうけれども(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
157コマです。
「寺院
梅照院 (略)当村と上高田村との接地にあり、松高山と號す、新義真言宗にて、当郡中野村宝仙寺末、客殿六間四方南向、本尊薬師坐像の石仏にて、長一寸八分、逗子に入、開山を快儀と云、正保三年四月五日示寂す、又云天正年中行春と云僧開基せしと、其後第六世朝曇を中興とす、此僧の頃より本尊の霊験世にあらはる、子育薬師と称して遠近こぞつて歩を運ぶ者多し、就中近き此江戸日本橋辺の商売願をかけしに、速に霊効を蒙ふりしかば、渇仰斜ならず、その後同志参詣の者の便りせんとて、豊嶋郡下高田村馬場のほとりより、道の辻々に碑標をたてて方角を示す、これより次第に参詣の者多くなりて、今は新井の薬師とて其名隠れなきことにぞなりける、 門 柱間九尺、南向、梅照院の額をかかぐ、」
とのことです。
お寺でいただいたパンフレットによれば、
「梅照院の御本尊は、薬師如来と如意輪観音の二仏一体の御尊像です。
この御尊像は鎌倉時代の代表的な武将、新田家代々の守護仏でした。
しかし、鎌倉時代から南北朝にかけての戦乱のさなかに、消え失せてしまいました。
その後、相模国から行春(ぎょうしゅん)という沙門(僧)が、
新井の里を訪れて草庵を結びました。
不思議なことに、草庵の庭の梅の古木から光が出るという現象が夜毎に起こり、
天正十四年(一五八六年)三月二十一日、
その梅の木の穴のから新田家ゆかりのご尊像が発見されました。
この御尊像を安置するために、お堂を建立したのが、梅照院の始まりです。
不思議な出来事とともに出現した薬師如来は、その後「目の薬師」・「子育て薬師」と呼ばれ、
今日まで大変多くの方に、篤く信仰されております。
(略)」
ということです。
また、公式HPによれば、
「この草庵は、徳川初期頃になると廃寺同然の荒れ果て様でありましたが、庭に植わる梅の古木が夜毎に光るという現象が起こり、天正14年3月21日、梅の木を調べると薬師如来が現れました。
中野郷新井の郷士であり、元新田義興の臣 窪寺某が太田金山城に祀られていた尊像であることを確認し、薬師堂を建立したのが梅照院のはじまりです。」
「不思議な出来事とともに出現した薬師如来は、二代将軍秀忠公の第五子 和子の方(東福門院)が、患った悪質な眼病を祈願して快癒したことから「目の薬師」、また、第五世玄鏡が如来の啓示によって秀れた小児薬を調整したことから「子育て薬師」として、今日まで篤く信仰されております。」
とのことです。
『新編武蔵風土記稿』と、寺院の縁起に微妙な揺れがあるのはなぜでしょうね……。
ともかく、天正より正保のほうがあとなので、全ての記述が正しいとすると、順番的には、
『「行春」が草庵を編む>本尊発見>お堂が建つ(「快儀」が開山する)>「東福門院」の眼病を治し霊験が広がる>五世「玄鏡」が小児薬を調整>六世「朝曇」の時代に中興』
という感じでしょうか。
当初「松高山」だった山号は、いつから「新井山」になったのでしょうね……。
ううむ、寺伝などを読まないことには、「北野神社」との関係もよくわからず……。
そして、ご本尊は、両面一体だったのに、『新編武蔵風土記稿』にはそれは書かれていない……まあ、秘仏のようですから、住職以外はずっと知らなかったのかも知れませんが。
うむ……やはりもう、郷土史家の方にお願いするしかない感じですね。
もうちょっと勉強したい……けれど、ちょっと時間がない……。
というわけで、ぶらり中野旅を終えて、無事卒業式に参列してまいりました。