べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「豊国神社」(京都府)

8/30。

大阪のsilver foxを終えて、

 

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近況 - べにーのGinger Booker Club

 

ぶらりと京都へ寄りまして、「蓮華王院」から徒歩で「豊国神社」へ移動。

 

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京都観光Navi:豊国神社

 

公式HPはないのか……。

 

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社標がそびえ立つ。

 

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鳥居は修理中。

 

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手水舎。

葺き直しの最中でしょうか。

 

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五七の桐。

豊臣秀吉」の家紋……家紋なのか馬印なのか(よくわかっていない)。

 

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豊国大明神」の扁額。

 

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入れません……。

 

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唐門の扉が素晴らしかったので。

 

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「豊国神社
豊臣秀吉を祀る神社で、一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。
慶長三年(一五九八)に六十三歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峯の中腹に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦)には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長九年(一六〇四)八月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。
豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃◼︎されたが、明治十三年(一八八〇)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また、明治三十一年(一八九八)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された。
正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。また、その両脇の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである。」

 

なるほど、徳川幕府が一度は壊したわけですね。

明治以後、徳川時代の否定もあったのでしょう、名古屋でも「豊国神社」が建立される機運が高まりました。

明治維新関ヶ原の意趣返し、なんて見方もありますから……とはいえ、一度は天下をとりながら、ここまでの扱いをされたのに、怨霊にはなっていないと思われる「豊臣秀吉」、どうしてなんでしょうね……やっぱり徳川が強かったからなのか……。

 

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唐門。

むう、破風の様子なんかが勇壮。

 

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噂の石灯籠……だと思います。

 

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境内社のお稲荷さん。

おキツネさまが何か可愛い。

 

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唐門遠景。

 

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境内、広い。

 

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近くには「耳塚」があります。

「半島における人々の根強い抵抗」……でしたっけ。

まあ、歴史認識の違い、というやつでしょうか……その辺りあまり詳しくないもので。

首を斬るほうが、耳や鼻を削ぐよりまだまし、という風にも読めますね……あんまり違わないと思いますが。

 

御朱印

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さて。

引用するものがね……『都名所図会』というのがあるのですが、

 

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大日本名所図会. 第1輯第1編都名所図会 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑何しろ、成立は江戸末期なので、「方広寺」「耳塚」はあっても、「豊国神社」はないのです。

一応、それらを引用してみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

122コマです。

 

「大仏殿方広寺 は後陽成院御宇天正六年、豊臣秀吉公の御建立なり。本尊は盧舎那仏の坐像、御丈六丈三尺。仏殿は西向きにして、東西二十七間、南北は四十五間なり。楼門には金剛力士の大像を置く、長は一丈四尺なり。門の内には高麗犬あり。金色にして長七尺。 これは豊国のやしろにありしといふ。 廻廊は南北百二十間、東西百間なり。堂前に建つる石灯籠には、列国諸侯の名を刻む。仏殿の敷石、又正面石垣の大石には、国々出所の名、或は諸侯の紋所等あり。廻廊の外には、桜、紅葉を交へて植ゑたり。
慶長七年十二月四日には、仏殿回禄す。同十五年、右大臣秀頼公ことごとく再営あり。寛文二年、本尊銅像を改めて木像とし給ふ。太閤秀吉公の石塔婆は、仏殿の南にあり。豊国崩れて後これを営みしといふ。塔前の石灯籠には、慶長十年九月とあり。
撞鐘堂は南廻廊の外にあり。四間四方にして、柱の数は十二本なり。鐘の高さ一丈四尺、指わたしは九尺二寸、厚さ一尺。

耳塚 は二王門の前にあり。文禄元年朝鮮征伐の時、小西摂津守、加藤肥後守を大将として、数万の軍兵を討取り、首を日本へわたさん事益なければ、◼︎(※「耳」に「刂」)劓して送り、此所に埋み、耳塚といふ。」

 

……ええ、一年が過ぎようとする今は気づいています、「あ、『方広寺』ってあの『方広寺』なんだよな……」って……。

参拝したときに気づいていたような記憶もあるんですけれども……「あの方広寺」というのは、「国家安康」因縁事件、です。

日本史上で一番有名な因縁づけじゃないでしょうか……『まんが日本の歴史』でこれを知った小学生の私は、「ひどいよ家康」と思ったものです……「口実はなんでもいいのだ」という実利主義の「徳川家康」の恐ろしさを垣間見ることのできるエピソードかと。

そんな因縁溢れる「方広寺」の鐘について、『都名所図会』では言及がない、と……まあ、当時の鐘ではないでしょうからな。

「耳」に「刂」という漢字は、なぜかうちのPCではでなかったのですが、「劓」は「はなきり」と読みますので、当然「みみきり」と読むのでしょう……なんだその使い道の一つしかない漢字……と思いつつ、多いですよねそういう感じ、実は。

 

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古事類苑. 神祇部24 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

『古事類苑』のほうが、いろいろと資料が載っております(が多すぎてね……)。

冒頭だけでも。

72コマです(カタカナをひらがなにしています)。

 

「豊国神社
豊国神社は、豊臣秀吉朝臣を祀る、秀吉の薨ずるや、之を京都阿弥陀峯に葬り、社を其麓に建て、豊国大明神の号を賜ひ、正一位を授けらる、爾来毎年大中納言を以て勅使と為し奉幣あり、秀吉の嗣子秀頼、一万石を納れて社領と為し、朝廷よりは吉田兼見をして、社務を総括せしめ、萩原兼従神主となり、神龍院梵舜は社僧となる、社殿宏壮にして四月八月両度の祭祀亦極て盛なりき、豊臣氏滅するに至り、徳川氏にて之を毀撤せんとせしが、秀吉室家の哀訴に由り、姑く其事み輟たりしかども、後終に神号を削り、妙法院中に一碑を建て、僅に遺跡を存するに過ぎず、而して社殿は修復を加へず、其頽圯に任することとなり、元和五年には之を妙法院に付し、神官社僧を逐ひ、永く祭祀を挙げず、然れども明暦万治の頃までは、尚ほ僅かに形跡を遺ししが、幾ばくもなくして全く泯滅に帰したり、然るに明治維新の初め、勅ありて更に祠宇を興し、尋て別格官幣社に列せらる。」

 

あー……この時代になると、吉田神道の勉強をしていないと、よくわからないことが多いんですよね……まあとにかく、「豊国大明神」の神号を得た、というのがそうそうないことなのだ、というのはわかります。

神仏混淆の時代、住み分けなのか、さすがに不遜と思うのか、「〜菩薩」という仏教的なものはほしがらないんですね……まあ、戒名はありますが……「八幡大菩薩」以降、歴史上の人物で「〜菩薩」と呼ばれる人はいないんじゃないか……ああ、「神変大菩薩」がいましたが、あの方はもう何だかよくわかりませんから……。

国土を守るのは神の力、なのでしょうかね……「勝軍地蔵」とかありますけれども……でも武家の時代になってからは、「八幡大菩薩」から、「香取大明神」「鹿島大明神」ですからね……純粋な武家ではない秀吉が、「大明神」号を望んだのかどうか、今の私の知識ではよくわかりませんけれども、「豊国大明神」にしろ「東照大権現」にしろ、神号なんだなぁ……というよくわからない感想です。

で、ここまでされても怨霊になっていない「豊臣秀吉」には、何が足らなかったのでしょうか……これが平安鎌倉なら大怨霊だと思うんですけれども……ええ、そうですね、豊臣家への扱いが、秀吉の死後に起こっている、というのがポイントです。

子孫への扱いを、残念ながら秀吉は知らず、本人の大願(それが天下人、だと仮定してですが)は叶ってしまっているので、怨霊になりづらいんでしょうね……「豊臣秀頼」なら資格十分なのですけれども……。

ちょっと淡白ですが、このあたりで。