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神社仏閣ラブ(弛め)

「厳島神社」(補)(横浜市中区)

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 横浜市史稿. 神社編

 

もうずっと『横浜市史稿』の神社編に頼りきり(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

182ページです。

 

「一七 厳島神社
厳島神社は、中区羽衣町一丁目十二番地に鎮座。(略)関内及び羽衣町の鎮守である。
当社は元、弁天社と称して、洲干島(洲乾、或は宗閑、又は秀暇とも書かれた。)一に茗荷島とも呼ばれた出洲にあつた。 今の弁天通六丁目及び本町通六丁目に跨る一万二千余坪は旧神域にあたり、社殿は弁天通6丁目百九番地のあたりにあつたと云う。 当時の尊体は、元伊豆国土肥の杉山に鎮座したものを、治承年中、源頼朝が宿願成就の報賽の為めに、勝地を当所に選んで新殿を造営し、奉遷したところであると言はれる。依つて杉山弁財天とも称し、又境内に七つの池があつて、清水が湧き出づるために清水弁天とも号した。其後は歴代武将の崇敬も浅からず、特に関東管領足利氏満に至つては、紺紙金泥の般若心経を奉納し、また太田道灌は、社殿を再建したと言はれて居る。此尊体は江之島弁天と同木同材であると言ひ、一説には弘法大師が七躯の弁財天を刻んで、江之島に安置したものを、頼朝が七所に祠を建てて、これを奉遷した中の、則ち当社が其一であるとも言はれる。故に、古人は時に、畫島 一に繪島又は江島 弁財天と称したかとも思はれるのである。但し、萬里の望畫島の詩は、当社を刺すものか、又は誤解であるか、一考を要すべきものである。(略)」

 

ううむ、『横浜市史稿』を見ていると、「杉山神社」がやたら多かったのですが、ひょっとするとこの「源頼朝」の話が元なんでしょうか。

 

「慶安二年八月二十四日、徳川三代将軍から、先規によつて社領六石一斗余の朱印地を寄せられた。その当時の別当は増徳院であつた。
新編武蔵風土記稿の、正保中の郷帳の項に、六石一斗五合秀閑領と見ゆることが載せてある。口碑に據れば、秀閑寺は当時、当社の別当寺であつたが、其後廃絶したと云ふのである。思ふに、此際は、増徳院が代つて之に当つたもので、即ち先規により改めて此寄進があつた訳のものであらうか。元禄年中、増徳院境内に仮殿を造成して、これを上之宮杉山弁天と唱え、平日は神体を此処に奉安して置き、本社には前立の神体のみを置いて下之宮清水弁天と称することとなし来り、爾来年々十一月十七日に、上之宮に於て祭典を行ひ、其夜に神体を下之宮に遷し、また翌十八日に、本社に於て神事を行ふことを例としたといふ時代もあり、嘉永二年の再建当時は、八月十五日を例祭日とし、万延元年六月二日の開港満一年の記念日には、神奈川奉行の命によつて、特に大祭を行ひ、以来此日を以て例祭日に改めたといふこともあつた。明治維新神仏分離の際は、厳島神社と改称し、増徳院の別当を停め、仏体は同院に付属したと云ふ。明治二年六月三日、官命によつて現在の境内に遷座し、翌三年六月二十七日に新殿の造立、明治四年神社の社格を定めらてから、後に村社に列せられたのである。明治二十年八月再建。同三十二年八月十二日、市中の大火に類焼して、一時仮殿に奉祀。同四十年四月三十日、神饌幣帛量供進社に指定され同四十二年、開港五十年記念祝典挙行の際、例祭を七月一日に改めた。大正五年、社殿再建。同六年六月二十日、鳥居再建。大正十二年九月一日、不幸大震火災に遭遇消失。同十五年五月二十八日、仮殿の造営を遂げた。
祭神は、市杵島姫命多紀理姫命多岐都姫命の三柱である。
(略)」

 

昔、別当だったっぽい「秀閑寺」は、「洲乾」に通じていますね(どっちが新しいのかはさておき)。

この御神体の移動の起源はなんなんでしょうね……。

いや、御神体を移動させる、ということ自体は珍しくなく(まあ、神輿を出すような祭りはほぼそれなんですが)、起源的に何があるのかはわかりませんが、例えば本宮は山の上、麓に別宮とか里宮がある場合は、祭りのときだけ降りてきていただくことはあり得るでしょう。

逆に、普段は別のところにいていただかなくてはならない(祟るから)けれど、ときに解放して差し上げないといけないパターンもあるでしょうか。

他に……単純に順番ね、っていうこともあるのか(「善光寺」の御本尊のようなもの……かな)。

まあどうしても理由が必要なわけでもないんですが。

前立本尊っぽいのは、当時の神仏習合のせいだと思います(というか、「弁天様」ですからね、ほぼ仏教側)。

 

「境内神社は左の如くである。

三社稲荷神社。太田屋新田の開墾者、太田屋源左衛門が江戸浅草の三社稲荷を当社境内に勧請し、草創する所であつたと云ふ。明治二年、本社と共に現境内に遷つた。祭神は御年神・大市比賣神・素盞嗚命の三柱である。
駒形神社。元横浜村駒形水神森に鎮座。慶応元年本社境内に遷座。明治二年、本社と共に現境内に移る。祭神は水波之賣神・底筒男神・中筒男神・上筒男神の四柱で、社は小祠である。
(略)
境内には、明治三十七八年戦捷記念の為めに建設した獅子岩象一対、及び大正天皇御即位奉祝記念建設の石灯籠一対がある。
(略)」

 

獅子山(岩)はなかったかな……あったのは、「中村八幡宮」か。

 

「[横浜湊惣鎮守 杉山弁財天略縁起]
当山杉山大弁財天の尊像は、弘法大師の彫刻にて、原は豆州土肥の杉山に鎮座ましましける所、治承四年八月、頼朝卿義兵を挙給ふ砌、深く御祈願ありけるに、霊験著しければ、四海一統の後、其冥加を報謝成給はんとて、諸々に勝地を撰まれけるところ、幸ひ当所を茗荷島劔ヶ淵といふを聞し召され、佳名といひ佳景といひ、末年萬民の機縁発すべき弁財天鎮座相応の勝地、茲に過ぎずと新に社殿を造営ありて、彼地の尊体を遷し勧請成したまふが故に、杉山弁財天と號し奉る。
此尊体は江之島弁天と同木といふ。劔ヶ淵とは劔の形なるを以て名づく。又琵琶島ともいふ。また七つの池ありて、清水わき出る故に清水弁天ともいふ。すべて此地は松多く偃蓋凌宵、根を結び枝を接へて淵にのぞみ、四時蒼々として風景斜めたらざれば、袖ヶ浦八景のうち洲乾の帰帆と唱美せし詩歌数多あり。むかし当初は風浪の難しばしばありて、陸地常に乾かざりしが、此弁天を安置してより、その患さらに無きゆえ、地名を洲乾とよぶ。誠に稀有の神変なり。江之島も神託によつて、建保四年五月十五日、大海忽通路となりし奇瑞に同じ。
然るが故、代々の武将も御尊敬あり、就中、足利氏満朝臣一宇三体に般若心経を紺紙金泥に書写して奉納あり。太田道灌は社殿の荒廃を再建せられ、忝くも当御代に至りては、大猷院殿尊君、社領竝に別当の院中、山林・竹木諸役免除の御朱印を下し賜ふ。依之彌々丹精を抽、天下泰平五穀豊穣の祈念怠慢なきところ、去安政六年、当所御開港になりて、海外より萬貨輻湊するが故、四民甍を竝べし繁昌の地と成ければ、諸人鎮守の神徳を仰ぎ、且、夫々の立願に利益を蒙る者数多なれば、日々に参詣の者群集して昼夜に絶えず、御祭礼は毎年六月朔日・十一月十七日いと賑はへり。そもそも当御神の功徳広大無量なる事は、三部の御経

頓得阿羅尼経 貧轉成就経 宇賀神王圓満陀羅尼経
その外にも、専ら智恵弁財天の大徳を司り、三世諸仏の化儀を助けて、一切衆生の貧苦を救、五穀成就を守りたまふ感得を説が故、禁中にも四月初巳の日、十月上の亥の日、御園祭あるなり。御名を或は宇賀神王、また如意珠王とも號し奉るは、深意ある事にて、則ち宇賀は食物にて、人間第一の寶、殊に大日本国は八大龍王の海蔵なれば、和光同塵の利益を垂たまふ事多し。先土の神を祈念する事を思はば、白月一日より十五日に至るべし。就中一日・三日・十三日最吉、又、八日・十四日・十五日勝れたり。
若、白月に祭らざる者は、毎月巳の日・亥の日に供養すれば、もろもろの芸術に妙逹して、あらゆる苦患を消滅し、貧窮を転じて財宝を豊ならしめ、親族和合して妙弁財の智慧を授り、利得を得、加之、悪夢・悪神・厭魅・蠱毒・星宿障難・呪詛鬼屍等、闘諍・王難・賊難・怨敵・疾疫・厄難等皆悉除滅、得延寿、安穏乃至速證、無上菩提との金文あれば、諸人太らに家内安全・子孫繁栄・福智円満を祈りて、此福神の加護にあづかり、大功徳を蒙るべき者なり。」

 

万能……。

 

「[新編武蔵風土記稿]弁天者。(略)洲乾ノ出洲ニアリ。土人清水弁天ト呼ブ。(略)村ノ鎮守ナリ。社中ニハ前立ノ像ノミヲ置。神体ハ元禄中ヨリ別当増徳院仮殿ニ安ジ、彼所ニテハ杉山弁天ト唱フ。坐像長二尺程、弘法大師ノ作、此社地ハ海面ニ望、勝景ノ地ナレバ、遊客神奈川駅ヨリ乗船シテ至ル者多シ。
(略)」

 

なるほど、遊興の先としても有名だったようです。

 

「[開港側面史]
私共、子供の時、年寄達の話に聞きましたには、弘法大師が江の島で護摩を修行して、七体の弁天様を刻んで納めて置かれたのを、頼朝公が七ヶ所に御社を建て、勧請されて、御朱印地を附けられた、其七社の弁天の一つで、頼朝公以来徳川家でも代々の将軍様より、御維新迄は御朱印が附て居ました。此辺に御朱印の有つた御社は誠に少なかつたです。
御社地は元は、丁度今の弁天通六丁目辺にありまして、南の方、太田町五丁目辺、北は南仲通五丁目、東は弁天通五丁目、今の正金銀行の辺に一の鳥居がありました。西は海岸で、寄洲になつて、社地一万余坪と言はれた広弘としたもので、砂地に松の大樹が沢山有て、所謂白砂青松と云ふ御社地であつた。西北には野毛浦、保土ヶ谷、神奈川から遥かに大師河原・羽根田の岬を眺め、遠く富士・筥根・大山を見て、景色のよさ、絵も及ばないと云て時々異人さんが此所へ来て、油画を書て居ました。夏などは松の蔭へ海風が吹て来る其涼しさ、今なら手も入れずに公園地にされるものをと、時々愚痴を申すことです。
御社と申すは五間四面の茅屋根で、彫物も有て立派な物でした。其前に瓢箪形の池が有て、潮入に成て居ました。潮が満て来ますと、魚が一ぱい這入て来ますが、此池の魚は誰もとりません。御別当が元町の増徳院の法印さんで、別に神主は有りませんでした。
開港一周年祭と云ふのが万延元年の六月二日に、此弁天様にありました。何でも金をかけて精一杯に賑かにして、外国人を驚かせと云ふ、上よりの内意ではあり、其頃は金の沢山儲かる時だから、我勝ちに立派にして、中には緋呉呂服の股引を穿て出て、股も陰嚢も赤肌にして医者にかかつたと云ふ滑稽も有つた位で、其前後今に(五十年)彼の位な大祭は有りません。此時から開港の記念として古来の八月十五日の大祭を改めて、六月二日に弁天様の祭りをする事に成たのです。(略)」

 

↑この部分が面白いです。
「何でも金をかけて精一杯に賑かにして、外国人を驚かせと云ふ、上よりの内意ではあり、」って感じで、祭りの日取りを変えてしまうという……まあ是非はともかく、ハマっ子の気っぷみたいなものが現れているのかもしれません(よく知りませんけれど、ハマっ子のこと)。

 

「[江戸名所図会]洲乾弁天祠。芒新田横浜村にあり。故に土人、横浜弁天とも称せり。別当真言宗にして、同所増徳院奉祀す。祭礼は十一月十六日なり。安置する処の弁財天の像は、弘法大師の作にして、江の島と同木也。此地は洲崎に左右共に海に臨み、海岸の松風は波濤に響をかはす、尤、佳景の地なり。海中姥島など称する奇巌ありて、眺望はなはだ秀美なり。(略)」

 

……え、『江戸名所図会』か……当たろうとも思ってなかったな……資料探しの時間が結構ないもので……。
現在と比べると、昔はもっと栄えた神社だったのだろうな(いえ、現在でも結構敷地は広いし、参拝客も多かったのですけれど……)、ということが記事の量から伺えます。

そうか、神奈川だしな、「源頼朝」まで遡っておかないといけないか……横浜を侮っていましたよ……。

まだまだ続きます横浜ほにゃらら紀行〜。