べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「徳王稲荷金刀比羅社」(補)

さて。

体調不良が続いて、寝込んだりしていたので、こちらはほったらかしでしたが。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 岡崎市史. 第7巻

 

岡崎市史』の第7巻です(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

96コマ。

 

「徳王稲荷社
徳王稲荷社は、両町(七十三 七十七)番地に鎮座、境内三百八十七坪を有す、もとは稲熊町字石山十六番地にありしが、其創立年代は明でない。(現今、旧社地に幟立二基(銘安政七年)及石燈籠二基(石山社元治乙丑春)を存す。(石山稲荷社の條参照))。
明治二十六年一月三日現今の地に移転し、同月二十五日徳王稲荷社と改称、同四十二年三月拝殿改築幣殿新築の工成る、同四十四年十月五日神殿拝殿炎上に依て御霊代は一時仮遷座あり、同年十二月二十六日愛知県管内に於いて神社再建寄付金募集三ヶ年許可、同四十五年四月八日神殿を再建す、大正三年十二月九日神社再建寄付金募集二ヶ年延期許可、同五年九月二十二日拝殿を再建す、同六年五月二十三日会計法適用神社に指定、同九年四月十二日村社に列せられ、同年七月九日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。祭神は豊受姫命、現今の殿宇には、神殿、拝殿、幣殿、神饌所、社務所、物置、倉庫、講社集合所等があり、例祭は四月十日、十一日。八月六日七日の両夜七夕額祭を行ふ。
(略)
附記
徳王稲荷社の隆盛を来せし起因は、伊勢国の人中川つね子、常に敬神信仰の念厚く、殊に徳王稲荷大神を尊崇し、明治十一年岡崎両町に来り、諸人をして神助加護を仰かしむ、茲に於て遠近より参拝祈願する者日に月に其数を増加するに至つた。明治四十三年二月二日許可を得、神社付属徳盛講社を集結し、今も之れを継続して居る。」

 

うむ……よくわからない状況ですが、とりあえず「石山稲荷社」も見ておきましょうか。

125コマです。

 

「第五節 附記 石山稲荷社
祭神倉稲魂神
文久三年記の石山稲荷由来書に據れば、後柏原天皇の御宇永正三年二月に、今川修理大夫氏親が、吉田城を初めて築く検分を兼ね、西三河を巡視したる時、此の石山に登り四方を眺望していへらく、此山は福貴の備はりし地相がある、よろしく此處へ稲荷社を勧請すべしと下知した、村民等乃ちこの山の頂上に稲荷の小社を建立した、これが当社の創建あると。
若しこの説の如くに、氏親の西三河に来れる時が、吉田築城の際とせば、永正二年であるが、これは甚だ疑問である、第一巻にも記したる如く、氏親が永正三年十一月三日に吉田城(城主は牧野成時入道古白)を陥れ、つづいて西三河に侵入したる時の事を誤り伝へたものであらう、而して石山稲荷社が事実氏親の下知により創建せられたるものとせば永正三年の十一月中旬頃の事と推測せらるるのである。なほまた由来書に、天文十年に至り、吉田城主伊藤左衛門尉が参詣しその破損せらるを修復したりとあれど、これも岡崎城松平広忠(家康の父)の歿後、即ち天文十八年以後、今川氏が岡崎城に代官を置きたる際の事と思はるる。要するに創立は永正三年、修復が天文の末か、弘治か永禄の初期のことと見るべきであらう。
其後、田中兵部大輔吉政が、岡崎城主たりし頃より、次第に大破して久しく修理を行はなかつたが、元禄年中に至り、伝馬町の小野氏が、この山地を買求め荒廃せる社殿を改築し、社地を清浄ならしめてより、遠近の信仰厚く、参詣者相踵ぐに至つた、然るに明治の初年再び頽廃したるにより、明治二十三年に小野氏邸内に社殿を移遷したるが、昭和二年二月に至つて再び旧地に再興したのである。」

 

……あれ、結局「石山稲荷社」は「徳王稲荷社」なのかどうなのか……。
神社の由緒書を見ると、そのように読めますが、今も「石山稲荷社」があるかどうかは確認していませんから……うん、まあ、ここでそっとしておきましょうか……。

中川つね子なる人物が伊勢から流れてきて、神道系の新宗派(講社レベルだと宗派とまでは言わないのかもしれないです)を作った……というのは、時代的なものだったのかもしれませんね(中山みきや出口ナオからはちょっと遅れているのかな……)。

 

一方の「金刀比羅社」ですが、122コマにある「事比羅社」がそれだと思いますので。

 

「事比羅社
事比羅社は中町宇野添十八番に鎮座、もとは両町伴孫太郎地内に属し、境内百七坪を有す、文化九年十月の創立にして、明治までは代々伴氏の支配であつた。文政十二年正月十六日、岡崎城主本多侯父子が参詣せられた。
明治十一年六月十四日据置公許となる、大正六年五月二十日会計法適用神社に指定せらる。
祭神は、猿田彦命金山彦命須佐之男命、大穴牟遅命崇徳天皇の五柱である。現在の建物には、神殿、幣殿、拝殿、矢場、石灯籠、石鳥居、木鳥居、手水鉢等があり、右の内、木鳥居、手水鉢を除くの外は、皆近年の建造である。
例祭は十月九日十日。
尚境内に、金山彦命、軻具土命合祭の社ありて、玉垣、石灯籠(大正七年一月造立)、石鳥居(同上)、社標(金山神社秋葉神社)等が建てられてある。
(略)
伴氏は、本間三郎重光の臣、伴隼人の子孫にして、建保年中より世々此地に住し、北野天神の社司であつた。永禄年中、伴孫太郎の時に至り、度々徳川家康公に弓弦を献じたるを以て、其屋敷を除地とせられ、其後家康公上洛の節も目見仕り、孫太郎も言葉掛けられし由申伝ふ。(以下略)」

 

……うん、こちらも由緒書と変わらないですね……比較的新しい神社なもので、妄想に入るのが難しいです……。

他の資料も当たるべきなんでしょうが、その辺りは岡崎の郷土史家の方にお任せしまして、短いですがこんなところで。