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神社仏閣ラブ(弛め)

「敢國神社」(妄)

さて。

 

まずは、神社でいただける由緒書きから。

 

「当社敢國神社は、伊賀の神奈備山・南宮山(標高350メートル)を遥拝する形で鎮座し、もとは南宮山の頂上に祀られていました。その後、山麓に降ろしてお祭りするようになったのが敢國神社のはじまりです。大岩祭祀跡からは古墳時代の祭祀用土器が出土しており、神が宿る御神体山を仰ぎ奉るかのようにお祭りが行われた。
斉明天皇4年(658)には、社殿が現在地に創建され奈良時代には、この地に大きな勢力をもった安部氏(敢氏)の氏神敢國津神」をお祭りするようになります。『日本三代実録』には、「安部神」が「敢國津神」に神名を変え国家から神階を与えられる記事を見ることができます。また貞観15年(875)には、延喜式内大社に位置づけられ、伊賀国の一之宮へと神格が高められました。(『延喜式神名帳』)
江戸時代には藤堂高虎伊賀上野城の鬼門鎮護の神とし、慶長19年(1614)には107石の神領が寄進されました。
主祭神は、孝元天皇第一皇子の「大彦命」で崇神天皇の時代に北陸・東海平定に貢献した四道将軍の一人をお祀りしています。この他、医薬と酒造の神「少彦名命」と鉱山師や鍛治職人が信仰する「金山比咩命」をお祭りしています。」

 

ふむふむ……「安部の氏神」として祀っていたものが、「あへのくにつかみ」に名前を変えたと……で、どうやらその「安部の氏神」は「大彦命」だということのようです(前回参拝のときの記事にもつらっと書きましたけれども)。

岐阜県の「南宮大社」と共通する「南宮山」が気になります。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

式内社ということで、『神社覈録』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える/カタカナをひらがなにあらためた箇所あり)。

598ページです。

 

敢國神社 大
(略)◯祭神金山彦命、一宮記、頭注 ◯一宮村に在す ◯当国一宮也、一宮記、頭注等、南宮金山姫命、永万記、南宮、(略)◯残編風土記云、一宮山、中略 有神号敢國大明神、所祭金山比咩命也
速胤云、(略)残編風土記に、当郡南宮大明神、所祭少彦名神、とあるは同名にして別社と聞ゆるを、伊水温故に、國分云、人皇十四代円融院貞観二年二月修造の告の事ありて、此南宮明神を一宮敢國明神と同所に遷し奉る、さる故に南宮山も一宮の山と成侍ると云ふ、南宮山とは今の小富士山なり。
神位
文徳実録、嘉祥三年六月庚戌、伊賀国津神授従五位下、三代実録、貞観九年十月五日庚午、授伊賀国従五位下国津神従五位上、同十五年九月廿七日己丑、授伊賀国従五位上敢国津大社神正五位下、直指抄、冷泉院御宇安和二年八月三日、授正一位
速胤按るに、阿拝郡は国府にて、殊に一宮とも崇る社なれば、敢国津神、また敢国津大社神と称しし事然るべし、嘉祥三年に津神とあるは、恐らくは国津神とありし国の字重ぬるより、伝写の時脱したるならん、猶古本を得て訂すべし」

 

……あれ、御祭神が「金山彦命」になっていますが……こりゃもう「南宮山」に引っ張られている感じでしょうか。

後半の『文徳実録』『日本三代実録」の引用は、由緒書きでも触れられている部分ですね。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 古事類苑. 神祇部26

 

↑『古事類苑』を見ておきましょう。

299ページです。

 

敢國神社
(略)
神名帳考証 伊賀]敢國神社 在上寺村 大彦命 ◯中略 日本紀云、大彦命、阿倍臣、阿閉臣、伊賀臣之始祖也◯中略 今按敢興阿閉訓同、考姓氏録有安倍臣、而無敢臣、且伊賀名張、皆大彦命之後也、
(略)
日本書紀 四 孝元]七年二月丁卯、立欝色謎命、爲皇后、后生二男一女、第一曰大彦命、◯中略 大彦命、是阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣、凡七族之始祖也、
(略)
延喜式神名帳頭注]伊賀阿閉郡 敢國 南宮也、金山姫命也、
[伊賀名所記]敢國大明神 直指抄云、少彦名神者、伊賀國阿拝郡敢國明神也、冷泉御宇安和二年八月三日授正一位云々、國分に云、当國の一宮にてましませばありがたき事なり、延喜のみかどの修造などのために、おほく木工寮治部省のやからを下し給ふよし、此所の縁起に侍る事なり、南宮山金山明神 金山比咩のみことにてましますよし、直指抄に見えたり、國分に云、人皇十四代、円融院貞元二年二月、造営の事ありて、この南宮明神を、一宮の敢國明神と同所にうつしたてまつれり、さるゆゑに南宮山も一宮の山となり侍ると云々、
[伊水温故 阿拝郡]敢國神社 一ノ宮村、千歳村の内 本宮二座、少彦名の命、南宮金山日賣、当國の一宮にして一州の総鎮守、本社は少彦名、号正一位敢國角大明神、延喜式伊賀二十五座の大社なり、
[三國地誌 六十 阿拝郡]敢國神社
祭神二座、少彦名命、金山比咩命なり、敢國は社号、南宮は地名、分て云ときは、敢國津神少彦名命、南宮は金山比咩命也、風土記一本、神名を錯り挙ぐ
(略)
源平盛衰記 三十五]範頼義経京入事
拓殖里くらぶ山、風の森をも打過て、当國 ◯伊賀 の一の宮南宮大菩薩の御前をば、心計に再拝して、暫く新居川原に
磬たり、
社格篇一宮條に、此文を美濃國の下に掲ぐたるは誤なり、
(略)
[三國地誌 六十 阿拝郡]敢國神社
摂社 九社権現 本社の西瑞籬の内 祭神詳ならず、六所権現、本社の東瑞籬の内 是故郡司甲賀三郎兼家が霊を祀るとも云、観音大士の像を安す、又二尊日月神蛭兒素尊を祭とも云、是非をしらず、花園離宮、佐那具村にあり 若宮八幡祠 三處あり、一は佐那具村、一は千歳村野添宮即是なり、一は本社の南にあり、 大石明神祠 本社の西南、丘陵の上大石あり、俗黒巌と称す、 結神祠、本社の西にあり、 神明祠 宮谷にあり今廃す 小観宮弁財天祠、牛頭天王祠、二祠、一は本邑、一は佐那具村にあり、 峯伏神祠、櫻木明神祠、巳上二祠、千歳村にあり、 春日神祠 佐那具村にあり、 諏訪明神祠、 外山村にあり、神祇秘抄、諏訪を以て南宮とす、蓋兼家、生土神を以て此に遷祀ることを謬伝る歟、
[伊賀史 下]光仁天皇御宇、宝亀辛亥正月、藤原永手病焉、其臣阿閉包衡、祈於阿閉神无験、二月永手薨焉、包衡帰於阿閉、登松樹縊死、後爲鬼横惑人、国司所有命、以其子在阿閉称鬼子、子太慚訴歟於彼松、於此霊休焉、」

というわけで、いろいろな文献からの引用ですが、

 

「拓殖里くらぶ山、風の森をも打過て、当國 ◯伊賀 の一の宮南宮大菩薩の御前をば、心計に再拝して、暫く新居川原に
磬たり、」

 

源平盛衰記』に出てくる「南宮大菩薩」が「敢國神社」のことだとすれば、なんらかの意味での軍神だった、と考えられます。

それから、「甲賀三郎」が出てきましたね。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 三重県神社誌. 第2

 

↑『三重県神社誌』の第2巻に、考証も含めたたっぷりの記事が掲載されていますので、興味のあるかたは全文を。

13ページより。

 

「(略)又「伊賀國誌」には少彦名命及南宮金山日賣二座となし且相殿に甲賀三郎兼家の霊を祀るとし 「敢國社 (略)本社者少彦名命正一位敢國角大明神。中略 少彦名命の神体仙人影像也。 註文略す 金山比咩の身体蛇形の蟠る形ち美濃國垂井の南宮に同相殿に甲賀三郎兼家霊儀十一面観音の座像 兼家は信濃國望月源左衛門尉重頼三男也承平二年相馬将門逆謀の節有軍功江州◼︎◼︎の守護と成又伊陽國守となる千歳佐那具の辺に造舘閣住之天正九年信長下知当國寺社及回禄当社神体散乱す其行方を不知一乱落居の後当國愛宕の小天狗新に造一殿敢國と南宮の玉像を奉◼︎して兼家霊儀は此三十年以後山城伏見在番侍洛陽三条寺町賣家にて求め出し藤堂高虎え奉りり程再興ありし也」と記したり 「伊水温故」に云ふ所も大体以上に同し但甲賀三郎のことに就ては「温故」述る所最も詳なり 即ち左に掲く

「六十一代醍醐天王の御宇に信濃國の大主に諏訪源左衛門源重頼と號し武将有て朝家に仕奉たり其子三人有嫡男太郎は号望月信濃守重宗 次郎は望月美濃守貞頼と號す 三郎は望月隠岐守兼家と號す 皆源左衛門重頼子にして源姓也 其先をいへは大己貴命第二の子建御名方命 諏訪明神也 其苗裔の末葉也 源左衛門子三人共に人皇六十代仕醍醐天皇延喜三年八月三郎兼家舎兄太郎次郎共に國山にあそふ 兼家若狭國高懸山の窟に入て鬼輪王を射殺す 于時太郎次郎二人として兼家をたはかり龍穴につき落す 漸々窟中をしのき出江州甲賀郡に徘徊し六十一代朱雀院御宇承平二年に以往日之事天聴に達す 故に太郎重宗次郎貞頼者兼家か威力を恐て自害す 兼家は同年平将門謀逆によつて有軍功爲甲賀郡主称甲賀近江守被任刑部卿太郎重宗次郎貞頼か子孫は号諏訪と或望月号然後当國の太守成 当郡に住して世を去彌威甚光を増に依て敢國にあはせ奉勧請則正体として十一面観音を奉納す。(略)」
(以下略)」

 

 

↑というわけで、

 

◯こちら===>>>

kotobank.jp

 

↑「コトバンク」の『朝日日本歴史人物事典』によると、

 

甲賀三郎

信州諏訪明神として祭られた伝説上の人物。中世唱導物の典型である『神道集』の「諏訪縁起」で説かれている。近江国(滋賀県)甲賀郡の出身。その地の地頭で甲賀三郎訪方のこと。妻春日姫を天狗にさらわれたため,そのあとを追いかけるが,2人の兄のはかりごとにより蓼科山の人穴に突き落とされ,地底の国々を遍歴する。地底の国々には,農業を営む村々が多くあり,甲賀三郎は各村でもてなされる。最後に維縵国にたどりついた。そこは毎日,鹿狩りを日課とする狩猟民の村で,維摩姫から手厚く遇されて月日を過ごすが,春日姫のもとに戻る気持ちが高じて,ふたたび地上へ脱出をはかる。その間さまざまの試練に遭遇したが,やっと浅間岳に出ることができた。そして本国の近江国甲賀郡の釈迦堂にきて,自分の姿が蛇身になっていることに気づいて,わが身を恥じ隠れたが,蛇身を逃れる方法として,石菖の植えられている池に入るとよいことを知り,それを試みて元の姿に戻り,春日姫と再会することができた。甲賀三郎は,地上から異界である地底国を訪れた人物であり,地底の人々からみると,地上からやってきた異人とみなされている。ふたたび現世に戻ったときは異界の姿すなわち蛇身となっていたが,その地底国は,あまり地上界とは変わっていない。農業と狩猟が主たる生業となっており,のちに甲賀三郎が,狩猟神と農耕神をかねる諏訪明神の性格を反映しているといえる。」

 

とあり、中世以降、「諏訪大社」の縁起を説く上で駆り出された伝説上の人物が「甲賀三郎」なわけですが、『伊賀國誌』では「少彦名命」が仙人の姿、「金山比咩命」が蛇体だとしており、何といいますか、いろいろと混ざり過ぎていてよくわかりません。

ただ、諏訪の伝説である「甲賀三郎」をここに登場させたのには、

 

 

梁塵秘抄 (岩波文庫 黄 22-1)

梁塵秘抄 (岩波文庫 黄 22-1)

 

 

梁塵秘抄』の、

 

「南宮の本山は、信濃の國とぞ承る、さぞ申す、美濃の國は中の宮、伊賀の國は幼き兒の宮」

 

↑という記述との共通性をうかがわせます。

「南宮」の本山が信濃(諏訪)で、美濃の「南宮」が中の宮(中宮という意味なのか、中間という意味なのか……)、伊賀の「南宮」は御子神、という解釈がされていた、ということだとすると……諏訪ー美濃ー伊賀、というなんらかのルートがあったということで、そうすると、これは蛇体の神の流れなのか、あるいは鉄に関する神の流れなのか……とりあえず、諏訪ー美濃ー伊賀というラインに何か意味があったのだろう、と思います。

そういえば、

 

 

風土記 (平凡社ライブラリー328)

風土記 (平凡社ライブラリー328)

 

 

風土記』によれば、伊勢の国号は、「天日別命」に追い出された「伊勢津彦」という神にちなんでいるのですが、このかた、信濃に行ってます(『万葉集註釈』)。

また、別の伝説として、伊勢にいた「伊勢津彦」を追い出そうとしてやってきたのが「阿倍志彦の神」なのですが、結局追い出せなかったというのも残っていて、しかも何故か「伊勢津彦」は、「伊賀の安志(あなし)の社」にいる神だ、とされています(『日本書紀私見聞』)。

とすると、「諏訪ー美濃ー伊賀ー伊勢」というラインが本来で、何なら伊賀国はそもそも伊勢国の一部だったとされていますから、「諏訪ー美濃ー伊勢」というラインに帰着する、と。

 

……で?

 

 

 

 

 

 

いや、よくわかりませんけれども。

伊賀の国号は、「伊賀津姫」とか「吾娥津媛」(「猿田彦大神」の娘だったりします)に由来する、と書かれたりもしています(『日本総国風土記』『風土記残篇』)。

猿田彦大神」が、現在の三重県(伊勢、伊賀)辺りの神格で、ひょっとすると「伊勢津彦」とも共通する背景があるかもしれない……と妄想が果てしなく進んでいきますが、後の朝廷勢力が、何度かに渡り「諏訪ー美濃ー伊勢」ラインを越えよう(攻略しよう)とした、その記憶が複数の伝説になったのではないか、と思えたりもします。

 

◯こちら===>>>

「猿投神社」(妄) - べにーのGinger Booker Club

 

↑過去の「猿投神社」の記事でも引用した、

 

◯こちら===>>>

www.maibun.com

 

↑に掲載の「古墳時代の鉄鐸について」から、最後の「付・鉄鐸、鉄製祭祀具の儀礼的背景」を、再度引用してみます。

 

「祭祀具としての鉄鐸と、鉄器製作との接点を記す記述が、『古語拾遺』、天石屋戸段の「令天目一筒神作雑刀・斧及鉄鐸(古語、 佐那伎)」の記述である。また、『延喜式四時祭式』鎮魂祭条には「大刀一口 弓一張 箭二隻 鈴廿口 佐奈伎廿口(下略)」 とあることから、鉄鐸(サナギ)は鎮魂に用いられた祭祀具とされている。 『梁塵秘抄』巻二、二六二番歌、「南宮の本山は 信濃国とぞ承る さぞ申す 美濃国には中の宮 伊賀国には稚き児の宮」の 歌は、信濃国諏訪社、美濃国仲山金山彦神社(南宮大社)、伊賀国敢国神社が「南宮」と称せられたことを示すもので、八木意 知男は、諏訪大社が、先の『古語拾遺』所伝の「天目一箇神」、あるいはその系統に連なる神、仲山金山彦神社(南宮大社)が 金山彦神、敢国神社が金山毘売神(金屋子神か)を祀り、三社が三位一体の製鉄神を祀っていたことを背景とすることを洞察し た(八木意知男 1977「南宮考―『梁塵秘抄』二六二番歌を中心として―」『古代文化』第 29 巻第 11 号 財団法人古代学協会)。 これに関連して、諏訪大社などに祭具として、「神代鉾(鉄鉾)」に付属する「鉄鐸」が伝世されていることについては、すで に大場磐雄や真弓常忠による考証がある(大場磐雄 1972「続鉄鐸考」『信濃』第 24 巻第4号 信濃史学会、真弓常忠 1981『日 本古代祭祀と鉄』学生社)。また、敢国神社の近隣には、「鐸」に関係するとされる「佐那具」の地名が残る。南宮と称されるこ ともあったという美作国一宮中山神社については、先の西吉田北1号墳、長畝山・長畝山北古墳群、河辺上原古墳群との関係が 想起される。」

 

ということで、「諏訪ー美濃ー伊勢」ラインと、「美濃ー尾張三河」ライン、という製鉄に関係するラインがあった……のか、「猿投神社」の主祭神大碓命」は美濃の支配者でもありましたから、単に尾張三河に追いやられただけなのか。

「諏訪ー美濃ー伊勢」ラインが攻略されていった過程が、諏訪の主祭神建御名方神」の伝説、四道将軍の伝説、「大碓命」と「日本武尊」の伝説、というように、いくつかに分断されて残されたのではないか、と妄想したりすると、また楽しいです。

で、「敢國神社」の祭神が「大彦命」ということはまあよくて、「金山比咩命」も元々の製鉄系の神だとすれば残っていてもおかしくなくて、ところで「少彦名命」はなんなのよ、と。

大彦命」を「大己貴命」と考えての配祀かな、とも思ったのですが、多分これは、『古事記』での「大毘古命」の弟である「少名日子建猪心命(すくなひこたけいごころのみこと)」(『日本書紀」であれば「少彦男心命(すくなひこおごころのみこと)」)のことではないかな、と思います。

大彦命」は「孝元天皇」の皇子ですが長兄で、末弟が後の「開化天皇」です。

末子相続を表しているわけですが、ここに「大碓命」と「小碓尊日本武尊)」の伝説を重ねることもできますし(「日本武尊」は結局天皇(大王)にはなっていませんが、『風土記」伝承には「倭建天皇」と書かれていたりします)、「甲賀三郎」伝説はこの辺りからもネタを引っ張ってきている気がします。

中世になって、古代に封じられた諏訪の神が息を吹き返すために、かつての朝廷が使った末子相続(末っ子最強)を持ち出してきたのは、鬱屈とした中で生まれた意趣返し、のように思えてなりません。

で、「大彦命」と「少名日子建猪心命」が「敢國神社」で祀られたのは、土着の神である「伊勢津彦」(「猿田彦大神」、あるいは製鉄系の神としての「金山比咩命」、ひいては諏訪の「建御名方神」)を封印するため、なんでしょうかね……。

うーん、丁寧さに欠ける妄想でした(まあ、妄想なので丁寧もくそもないのですが)。

でも、久々に楽しく妄想できました(○)。

 

あ、神社でいただける由緒には、服部氏との関係についても書かれていて、これがまた面白いです(古代の「秦氏」、さらに「敢国服部」と「建御名方神」の関係なんかも……)。