べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

不定期「熱田」考(5)

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 3 熱田

 

今回は『尾張志』を見てみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

なんと、「熱田」で1分冊されているという……どんだけの情報量なのか。

9ページです。

 

「楠木御前社
左王御前社の西の方にあり 祭神詳には辨へしかたしされを延久記には楠御前は上野国中梁田明神とあり 今の社説に伊邪那岐伊邪那美二神を祭るといへるもいと近世よりの事にもあらじか 神名帳頭注にいはゆる西伊弉並尊と云るは全く此神をさせるやうにも聞◼︎ 扨此神は社はなくていと旧たる楠一本を神霊として廻りに瑞垣結り熱田社四至九町の中央なりと伝へ云て俗人は子安神といひ安産の祈祷するならはしあり 永徳の比は林重弘といふか開◼︎職を兼て此社の禰宜職になれりき 下楠木御前禰宜職事開◼︎重弘右於禰宜職者去任観応三年六月十五日御書下之旨如元所被宛下也至于御神事以下者守先例可致其沙汰仍執達如件永徳三年八月十五日と大宮司蔵書補任の文書に見えたり」

 

「楠御前社」については、「伊弉諾尊」「伊弉冊尊」を御祭神というのは、どうも近世のことではないか、と江戸時代からいわれていると。

そうすると、「楠」と「子安」とがどこで結びついたのか……何か忘れられた説話があるのか、あるいは「いや、パワースポットなんでっせ」と言い出した人がいたとか(今も昔も、人間なんてそう変わらないですから)。

 

10ページより、

 

「孫若御子神
乙子神社の西の方に坐す 延喜神名式に愛智郡孫若御子神社(名神大)本国帳に同郡従三位孫若御子大名神とある是也 はやく神名帳頭注に尾張国年魚市郡孫若御子日本武第七男稚武彦王也といひ社説には瓊々杵尊応神天皇稚武彦王三坐を祭とも又吾勝尊をあはせ祭りて四坐也ともいふはみな中世以後のさだなり(略)さて稚武彦王と称るはもと書紀に據れる御名にて孝霊天皇の御子稚武彦命にまがひつるなり こは古事記に若建王とあるぞ正しき 古事記に此倭建命娶伊玖米天皇之女布多遅能伊理毘売命生御子帯中津日子命(略)又娶其入海弟橘比賣命生御子若建王(略)とあるを申せる也 さるを書紀には初日本武尊娶両道入姫皇女為妃生稲依別王次足仲彦天皇次布忍入姫命次稚武王とあるは異なる伝へ也上にいへる 稚武彦王は正しき御名は若建王にて倭建命の御子神なるをかの神名式に孫若御子とのせらるへきよしなきやうにおぼゆ 故いかにとなれは孫といふ語は子の子を呼号にて真子(まなこ)を然いふへくもあらす 和名抄の孫を挙たる條に爾雅云子之子爲孫(略)一云々比古といふ例聞およはす されは上に挙たる社説の三座の中坐に載奉れる応神天皇日本武尊の御孫にましませは是そよく此孫若御子といふ社号にあたれる祭神なるへき さてこの社は中世己後此本處のすたれて後この處本所のごとくなり給へるなれと旧は遥拝所か又は移し祀奉れる御社にて本處は当郡の中別所に坐るものなるへしその精しき考記は別録したれはここには畧きつ

 

今の御祭神は「天火明命」ですが、どうやら「日本武尊」の王子である「稚武彦王」だと考えられていた、と。

それがまたどうして「天火明命」まで遡っちゃったんでしょうね……。

 

「さてこの社は中世己後此本處のすたれて後この處本所のごとくなり給へるなれと旧は遥拝所か又は移し祀奉れる御社にて本處は当郡の中別所に坐るものなるへしその精しき考記は別録したれはここには畧きつ」

 

ええ……そうなの?

どこだろう……ああ、探すのが大変だから私も略します(をい)。

このあと、11ページからも摂社について掲載されているのですが、「籠守社」「角宮社」「油部屋社」などの面白そうな神社について、御祭神はやっぱりわからず、だそうです(江戸時代でもすでに……)。

13ページより、

 

「八劔神社
大宮の南に南面に坐す 延喜神名式に愛智郡八劔神社本国帳貞治元亀二本ともに正一位八劔名神とあるこれ也 元明天皇の観よ和銅元年九月九日勅命によりあらたに宝剣を斎蔵奉りて多治比真人池守安部朝臣宿奈麻呂等勅使として参向てことさらにかく八劔神とたたへて祭り給へりといへり こは既◼︎の草薙の神劔の御事ありしによりて深くおもほしめす大御意ありし也と伝へいへり また慶長四年八月五日拝殿及廻廊築地まて家康公御修造したまへるとき神殿は浅野長政朝臣の造進なりと尊命記にいへり(略)
摂社(略)徹御前社 八子社の南に東面にあり建御名方神を祭るといへり此神は大国主神の御子にて延喜神名式に信濃国水内郡建御名方富命彦神別神社(名神大)とある同神なり(略)されは延久記には信濃国水内明神とかけり尊命記に日吉八王子宮も此神也といへり」

 

うーん、やっぱり新しく宝剣を作って収めた、というのは広く知られていたようですが……例えば「伊勢神宮」のように遷宮をするとか、「諏訪大社」のように季節によって動座するとか、そういったことのために別宮があるのはわかるのですが、その場合でもご神体は変わらないです。

変わったら、ありがたみがないわけで。

となると、なんなんでしょう……これはひょっとすると、かつての摂社「徹御前社」の御祭神「建御名方神」あたりから探っていくと何かわかるのかも……といっても、水内郡の「建御名方富命彦神別神社」には、「建御名方神」だけでなく、その御子神である「彦神別命」も祀られているのですよね……これに「日吉八王子社」も同じ、ということは「三十番神」における「八王子=建御名方神」説をとっているということになりまして……そういえば「日吉大社」の「早尾社」は熱田の「源太夫社」(「上知我麻神社」)と同体、なんて説もありましてねぇ……もうわけわかりませんが、掘れば何か出てくるのか……。

 

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善光寺(4) - べにーのGinger Booker Club

「日吉大社」(考)〜その1 - べにーのGinger Booker Club


お次は15ページより、

 

「日割御子神
熱田本宮の南の方八劔神社の東の方に坐す 日割は比左畿と訓へし 此處の地名也 さるを中世より巳来比和利と非訓して日破とかかるは古伝を訛れり されとこはいと近世の事にもあらす 延久記にも今のことく日破と書り 比左畿はもと干崎の意なるへし 此地形を見るに今の曾夫久免町といふあたりより東南は凡て入江の水際ありなむ事すりして土地一際卑しこの社地はその水際へさし対て張出たるいにしへの洲崎のなごりいまも存りてまことに干崎といひつへき地形也 火高氷上日長日崎なといふはみな此年魚市海より知多浦へ続ける浜辺にありて熱田神に由縁ある社地なり永久三年十二月二十日左衛門府生内蔵経則か考へたる着駄勘文の中に日前金里年十九尾張国人云々といふ事朝野群載に見ゆ この金里か姓の日前も即比左畿と訓てこの地名を負るにて此郷人にもやあらむ されと日前は比の久末とも訓て大和紀伊にある地名なるに姓氏録左京神別に檜前舎人連といふ姓もあれは日前も其同氏にて比乃久末ならむも知へからねどさる地名も当国に昔も聞えす今もある事なしかかれはこの地に據れる姓にて比左畿ならむか さて当社は倭建命御子建貝兒王命を祭れる也 建貝兒王は古事記倭建命の皇子等をしるせる條に又娶吉備臣建日子之妹大吉備建比賣生御子建貝兒王(略)又建貝兒王者讃岐綾君伊豫之別君(略)登袁之別(略)麻佐首宮道之別(略)等之祖と見え書紀には又妃吉備武彦之女吉備穴戸武媛生武穀王(略)與十城別王其兄武卵王是讃岐綾君之始祖也弟十城別王是伊豫別君之始祖也とあり旧事紀も此におなし されと旧事紀に武卵王と(略)武養蠶命と別に挙て別腹の皇子ととしたるは御名の字の異より混れつるにて別人にはあらす 当社を此命なりといふははやく神名帳頭註に尾張国年魚市郡日割御子日本武五男武鼓王也(略)とあるに據り(略)しかるをかの熱田鎮座記に日割御子宮四座日前饒穂命手栗彦命已上御霊形御筥而座一云燧而座秋津島宮御宇祭之(四坐とあるに二神挙たるも意得かたく日前饒穂命と云もいかなる神にかものに見えす)といひ延久記に日破宮の下には伊勢大神宮より熱田大神宮へ賜へる火打有之云々又熱田の社記に日破宮火徳神と挙て日本武尊東夷征伐時倭姫命授劔嚢其一斎火徹燧号日破宮といへる類は並古伝をうしなへる後のさた也 又本国帳集説に稲依別王と充たるは何によれるにかものに見えたる明証なけれは猶強言とやいふへからむ尊命記集説には祭神軻遇突智命云々猶神跡に深秘あることなりといへるを府志にも是によりて同しく軻遇突智神として謹按続日本後紀当社日本武尊御子今失其神名徒以火霊名耳と書るは続後紀に承和二年十二月辛未朔壬午尾張国日割御子神孫若御子神高座結御子神惣三前奉預名神熱田大神御兒神也とあるを按るにまことにいはれたり されともまた社伝云日本武尊東征之日倭姫命所授之燧也号天火徹燧即蔵以爲当祠之爾私云天火徹燧者当社和魂之表歟云々私曰倭姫命所授神劔既蔵本宮又以同時所授燧蔵当祠社伝固有燧據矣哉とかけるは延久記已後の新説のゆゑありけなるにひかれて神名式及続後紀なる御子神といふ神名を忘れたるもの也 神名式に日割とかけるは借字なるをもおもはす比和利と非訓し遂に日破とも作ならひ又日と火の義として火之迦具土神あるひは天火徹燧ぞなといふはみな後の強言也と知へし此神は世にいはゆる熱田の七社といふうちの其一社也(略)」

 

もう長い……ですが、とりあえずよくわかりません。

考え方として、「日本武尊」の王子とか、東征関係者が祀られている、というのは納得がしやすいのですが、以前にも書きましたが、文献上は「宮簀媛」との間に子供がいらっしゃいませんでした

それなのに、お祀りするかなぁ……まあ伝説ですし、自分の子供のように可愛がる的なこともあったかもしれません(でも、「日本武尊」の王子のうち、少なくとも一人は天皇になっておいでなのですよね……うーむ)。

「倭姫」から授けられた火打ち石が祀られている〜、というのは、「圓通寺」の「秋葉権現」に通じる話のような気がします。

まだまだ、18ページには、

 

「南新宮社
劔神社の東の方に西面にあり須佐之男命をまつる俗に天王といふ毎年六月五日の祭式は此社のなるよし府志にいへることし この社号は永享三年六月うける守部宿禰宗政か譲状にも見えたり(略)」

 

さらっと。

次いで、20ページに、

 

「松姤社
そぶくめ町にあり祭神詳ならす府志に祀宮簀姫命一説建稲種命云々伝云日本武尊東征之間宮簀姫命居于此地云々といひ又熱田のある書に倭建命東征し給へるほど美夜受比賣命のたく門戸を閉て諸人の出入をとどめ親しき御属縁人の聲たに聞給はすふ◼︎く天神地祇を祈りてひたすらに尊の御帰陣を待戀給ひき今俗人釘及底ぬけたる柄杓を献して此社の拝殿と敲き耳の聲えぬ病といのれはすみやかに感応ありこは門戸をとぢて人聲を聞給はざりし遺風也この故に俗に聾神也といふはいみじき誤也といへり◼︎◼︎る説あるはいかなるよしにか心得かたし又尊命記に旧説に十握劔を祭るといふ俗に御塚宮といふをもて考ふれは是蓋建稲種命の御塚にして後に社を建たるかといへるもおほつかなき説なり此地さるへき古墳のさまにあらす按に熱田を松子島といふ称あるは此社号より出たるなるへし(略)」

 

あら、「建稲種命」の陵墓説はばっさり、でしたか。

でも「十握剣」というのもよくわからんし……「松子島」と呼ばれたのが先か、「松姤社」と呼ばれたのが先か……「待つ子」だったら面白いんですが、それじゃ「宮簀媛」が待っているわけではなくなっちゃいますしね……ああ、「建稲種命」の母である「真敷刀俾」が待っていることにすればいいのか……。

続いて、

 

「鈴御前社
精進川の辺にあり俗に此處を鈴の宮といふ祭神詳ならず府志に天鈿女命を祭といへるも一伝説なから猶決めかたし此社もとは東脇村にありしをいつはかりにかありけむここにうつし祭れる也とそ徇行記に富江町の内伊助といふもののうらに往古よりささの宮といへる小祠あり是は鈴の宮の旧址のよし申伝たり此地はむかし東脇村の内なるゆゑ東脇浦にて頭立たる家筋師人と唱るともがら例年正月十九日鈴宮の神事武射を勤む其次第は祭日早朝に祠官磯部孫太夫鈴の宮の神前へ供御調進せし上にて大さ六尺の的桑の木の弓紙の羽の矢一筋師人当番の者の方へ持ゆき饗応すみてささの宮の南にあたりて例の場所に的を立孫太夫禮射をつとむ是古より断絶なく古式を勤むる事也とあり年ことに郷補頭人此河水を汲て身そき潔斎し六月晦日社家一統ここに集ひてみなづきはらひを行ふ也(略)」

 

こちらも「天鈿女命」祭神説については「伝説だしなぁ」という感じ。

今度は51コマですが、

 

姥堂
伝馬町の東裁断橋のこなたにあり当所圓福寺に属す長八尺余の奪衣婆の像を安置す永禄年中紹巴が富士見道記には丈六乃姥の像を安置すと云り古雅にして其面相おそろしき事限なし仏工運慶の作ともいひあるひは安阿弥の作ともいふいづれをよしとも定めがたし俗に三途川のおうばといふ永禄の頃幸順僧都といふ法師この川にて溺死せしを此辺の欲心ふかき老婆かの衣をはぎとりし故川を僧都川と名つけ姥の霊魂を橋詰にまつりしよし熱田旧記といふものにいへるは尤附会の説とるにたらす」

 

相変わらず「奪衣婆」説には首肯し難いという感じですね。

「橋の神」から「宇治の橋姫」が連想されますし、そこから「恐女」が連想される、ということであれば、こうした伝説もわからないではないです……それよりは、何故に「橋の神」が「女神」なのか、というほうが面白いんですけれども(こっちも掘ったら掘ったで際限なさそうで……)。

ラストに49コマより、

 

「圓通寺
田島小路にあり補陀山といひて遠江国浜松普済寺の末寺也明徳二年権宮司田島家建立して普済寺の誓海和尚(府志には普済寺二祖大明禅師とす)を開山とす世に曹洞の法王派と称す禅堂の本尊薬師の像は霊仏也塔頭二員ありて陽谷軒瑞用軒といひしが今廃す鎮守弁才天秋葉社あり秋葉は殊に大社にて羽休の秋葉と称し世人尊崇す例祭十一月十六日十七日也籠堂もありて十六日の夜諸人籠て通夜す参詣尤多し又当社にて鉄火打を請れは火災の恐れなしとて人競て乞求む其火うちに羽休の文字を記せり」

 

やっぱり、火打の伝説は、「倭姫」から引っ張ってきたんじゃないかな、と思います。

 

 

 

まあ、とにかく情報が多いですわ……。

次は、どうしましょうか……。