べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「名古屋東照宮」(再)(名古屋市中区)

1/22。

大須を後にして、最近お参りしていなかった「名古屋東照宮へ。

 

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「名古屋東照宮」 - べにーのGinger Booker Club

 

以前の記事です。

 

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拝殿。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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「福神社」。

 

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御朱印は、「名古屋東照宮」と「福神社」、見開きで押していただけます。

 

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑前回の記事ではまだ引用などはしていなかったので、『尾張名所図会』から参りましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

20ページです。

 

東照宮御宮
御郭内の三の丸に御鎮座。国祖源敬公、大僧正天海(号南光坊)を請待し給ひ、元和五年己未九月十七日、此御宮を創建し給ひて、中央に贈太政大臣正一位朝臣家康公の御神像を安置し奉り、左に山王権現、右に日光権現を配享し給へり。

御本社(南向)・祭文殿・渡殿・中門・瑞垣・御供所・鐘楼・神輿殿・御宝蔵・御井・鳥居・楼門、何れも善美を盡し、或は朱粉丹青を施し、又は金銀銅鉄を鏤め、荘厳の美麗いふばかりなし。
御本地堂 薬師及び脇士・三菩薩・十二神将・四天王の像を安置す。
護摩堂 不動及び四天の木像・十二天の画像を安置す。
御神宝 御太刀三口、国行・正恒・宗近。又歌仙の色紙三十六枚は、青蓮院法親王の御筆なり。又牛玉一顆あり。其外数多あれども枚挙に遑あらねばここに略す。(略)」

 

遷宮前、三の丸にあった頃の記事ですので、今の様子とはまったく異なっています。

「牛玉一顆」が何かよくわからず、「牛王宝印」のことかとも思いましたが、「顆」って首飾りなんかを数えるときの単位ですよね……何かしら、勾玉的なものなのか。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑『尾張志』も見ておきましょうか。

2巻の「名古屋」編です。

 

東照宮
太政大臣正一位源家康公の霊を御曲輪のうち三の丸に御鎮座なし奉れる御社なり 元和五年己未九月十七日義直卿大僧正天海を(号南光坊)請してともに議し給ひ日光山御鎮座の儀式に準じ此御社を創建し中央に東照宮の神像を安置し奉り左に日吉大神(山王権現と申す)右に日光権現を配せ享り給へり (別当神宮寺記に東照三所大権現同殿三坐中東照宮山王権現摩多羅神也云々元和三年丁巳二月廿一日詔賜東照大権現神号同年三月九日贈正一位四月十七日遷尊骸於日光山新殿大僧正天海以山王一実神道両部習合規則神霊鎮坐此時勧請山王権現摩多羅神同殿鎮坐号東照三所権現云々と記してかく東照三所大権現なと連称して此三座をすべて東照宮と申奉るよしに書しはひが事也 御当家御草創の御事蹟を書るふみともにみな元和三年二月廿一日家康公尊霊に東照大権現の神号を勅賜し給ひ正保二年十一月三日宮号を贈り給ひしよし記して日吉摩多羅神等に東照の号を勅許したまひし事さらにある事なし 天海僧正両部習合を主とし日吉社神道秘密記等のこころにより両神を同殿に合せ祭れるのみなれは御合殿の神と稱すべくかく東照三所権現なとは連称しかたし まして正保に宮号勅許のうへは権現と称すべき儀はあるへからす 此神宮寺記は元和御鎮坐の年より百年はかりの後 元禄十二年十二月書るものなる故かく伝へあやまりしなるへし 又同記に云或説に山王権現右日吉権現云々謹按此説敢而難信用凡東照宮鎮坐以日光爲根本然日光山御宮嘗慈眼大師奉大樹鈞命以山王権現摩多羅神鎮坐于東照宮左右云々武州紅葉山東叡山駿州久能山参州瀧山寺鳳来寺山門坂本金地院等皆御神体同日光山御宮而所以日光権現無安于右と見えて日光山を◼︎しめ諸国の御宮御合殿の右の方はみな摩多羅神なるよしに■るせり さて摩多羅神の事は神社考詳節に伝教大師以天竺金毘羅神(一名摩多羅神)爲素盞嗚尊号曰山王以爲日吉神体と■るして金毘羅摩多羅同神なるよしに見え日吉社神道秘密記に山王者三国名山之守護故号山王天竺霊鷲山之鎮守山王権現云々鷲峯守護神金毘羅神(三輪明神此也)云々と見えて山王権現金毘羅神摩多羅神皆混一して同神なるよしに記せり しかれは御合殿には只日吉の一神を■けて左右に安置せしものか もしさあらはもとより一神ならむには山王摩多羅と二名を表し御祭礼の神輿も二基出し奉るへきよしは有へからす 天海僧正山王と摩多羅神とは別神の意にて左右に安置せしなるへし もしくは前にsるしし日吉社神道秘密記に山王者三国名山之守護云々鷲峯守護神金毘羅神云々とあるによりてすべて金毘羅神摩多羅神は名山の守護神なれは 此日光山の地主満願権現もやはり摩多羅神なりと天海僧正おもひ定めて右の御合殿とせしものなるへし 其證元寛日記の元和三年丁巳四月十七日日光御祭礼の次第に神輿(略)次に山王権現御輿(略)摩多羅神御輿云々と見えてまさしく摩多羅神御輿としるし扶桑拾葉集にのせし慶安元年日光山法華八講記には十七日は大権現の祭礼とて各皆多くいきののしる云々神輿三社前は大権現中は日光権現あとなるは山王権現とかや云々と見えてかのまだら神の事をここには日光権現と記せり ここをもて天海僧正摩多羅神と表せしも日光権現の事也と思ひ悟るへし まして此名古屋の御宮は義直卿思召所ありて 日光権現と表し給ひしなり 其故は延喜神名式に下野国河内郡二荒山神社と見え文徳実録三代実録ともに下野国荒神と記し性霊集沙門勝道◼︎山水◼︎玄球碑に有沙門勝道者下野芳賀人也云々有同州補陀落山云々建伽藍名曰神宮寺云々とも見え続古事談にも下野国二荒山のいたたきに湖水あり広さ千町はかり清くすめる事類なし又宇都宮は権現の別当なりなと記してかく往古よりふだらの神とて日光山にまします地主神なれは 此御宮の御合殿になし給はでは有ましき御神なれば右の方に安置し給ひしなり 此故に名古屋御宮にては一向摩多羅神の沙汰はなく御祭礼の節も東照宮山王の次に日光の神輿を行幸し奉り あるひは神劔三振のうち宗近は日光権現の太刀なるよしにてさらに摩多羅神と称する事なし)寛永四年天海僧正神宮寺と名つけ権僧正珍祐をもて別当とし山門の日増院また春日井郡野田村密蔵院と兼帯し上乗院僧正と名のれり其後世々僧正に任し尊寿院と通称とす将軍家御代々の御霊屋その西に並ひて此神宮寺別当掌れり神宮寺記に東照宮御在世の御伝系を記せりといへとも御年譜等の諸書にしるしてよく人の知れる事なれは爰に記しもらせり
本社(拝殿 中門 瑞籬 御供所 御井 鐘楼 神輿殿 御宝殿等あり) 本地堂(薬師脇侍二菩薩十二神将四天王像を安置す) 護摩堂(不動四天の木像十二天の画像を安置す)(以下略)」

 

なんか、途中から「摩多羅神」が出てきておろおろしましたが(何で?)、

 

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「日吉東照宮」(滋賀県大津市)〜滋賀巡り(再) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「日吉大社」近くにある「日吉東照宮」の祭神が、「徳川家康」「日吉権現」「摩多羅神」なんですよね……この辺りは「日吉大社」側(つまり天台宗)がそういうことにしておきたかったのか、それが名古屋に「東照宮」を創建する際にも導入されたのか、「南光坊天海」に何らかの意図があったのか……「東照大権現」「日吉権現」「日光権現」であれば太陽つながりでめでたい感じもするんですよね……うーむ、日光をまた調べないといけないのか……。

摩多羅神」については、

 

闇の摩多羅神

闇の摩多羅神

 

 

↑なんかがわりと詳しく書かれていますので、ご参考に〜(ちょっとすぐに取り出せない場所にあるもので……)。

あれ……「牛玉」って、ひょっとして「摩多羅神」=「牛頭天王」つながりなのか……いやいや徳川時代から、お隣には「天王社」があったので、わざわざ神宝にする必要もないかな……ううむ……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史』の「社寺編」にも、史料豊富に記事がありますのでご参考に。

227ページです。

 

「二 東照宮
東照宮は西区長島町一丁目の東側に在あり、那古野神社の西に接す、(略)元和五年、徳川義直、城内三之丸天王社の西地を下し、社殿を造営し(略)、九月十七日家康の神像を奉安し、成瀬正成、竹越正信を奉行として、神衣、甲冑、弓箭、太刀(宗近、正恒、国行)を納め、南光坊天海を導師、日増院権僧正珍祐を別当となす(略)
元禄元年、藩主光友(瑞龍院)重修して、三月正遷宮を行ふ、爾後屡々修営の事あり(略)明治八年十月二十日に至りて、もとの明倫堂跡即ち今の地に仮遷座す、九年十月五日正遷宮を行ふ、社格は明治五年五月、村社たりしが、八年八月県社に昇格す(略)
祭神は創建当時は中央徳川家康、左日吉の大神、右日光権現なり、明治八年義直の霊を合祀し、三十一年また慶勝の霊をも合祀す、(略)
張州府志には客神として摩多羅神を挙げたり、蓬州旧勝録に日光権現の事を「摩多羅神」となせるより考ふれば、客神とは誤ならん、摩多羅神は金毘羅神と同体にして、密部の経典に出て、唐の青龍寺の土地の神なる故、我国天台宗殊に是を崇め、三輪の神(略)又は日光権現にも配す、日光権現は二荒の神、即ち建御名方神と其父大己貴命との二柱神を指すこと、神祇宝典に見えたり、次に日吉大神は山王権現の事にして、唐の天台山の地主神なれば、台家は之を崇めて、大山咋神に配す、摩多羅神は俗に源頼朝と云ふ、又日光、日吉の両神を信長、秀吉なりと云ふものあれど、皆據證なければ論ずるに足らず、社伝によれば、此二神体は明治維新に除去したりと云へど、未だ明證を得ず(略)
大祭は毎年四月十六日、十七日に行はれ、(略)神輿三基、若宮八幡社に幸す(徳川時代には御旅所に幸す)、古より名古屋祭と称して、有名なる祭礼なり、十五日に祭文殿に神輿を徒し、翌日早朝に舞楽あり、其夜神前に論議を行ひ、十七日暁に供御を調進し、罪人の赦を行ふの儀あり、(以下略)」

 

また「摩多羅神」を挙げてますね……廃仏毀釈では、日本中で大流行りだった「牛頭天王」は結構な感じで槍玉に挙げられていましたので、関係のあると思われる「摩多羅神」(まあ、「比叡山常行三昧堂の守護神でもあるので、がっつり仏教の神が神社にあるのは何事かってな話でしょうけれども)の存在もいろいろと物議を醸したのかもですね。

ところで、「摩多羅神」=「日光権現」=「二荒神」=「建御名方神大己貴命」ということが書かれていますが、「名古屋東照宮」の「福神社」の御祭神は「大国主命」「事代主命」なんですよね……何かありそうですか?

 

 

 

 

ま、まだまだ疑問は疑問のままで……。