べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「豊川進雄神社」(再)(豊川市)〜高速初詣三河編〜

1/9。

豊川稲荷」の近くの神社、ということで「豊川進雄神社」へご参拝。

 

◯こちら===>>>

豊川進雄神社のご案内

 

↑公式HP……なのかな。

 

◯こちら===>>>

「豊川進雄神社」「素戔嗚神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

このときは、「素盞嗚神社」にもお参りしています。

 

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鳥居。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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境内摂社。

 

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こちら「出雲神社」で、以前の記事ではやっつけ仕事ですな、なんて書いてありますが、開扉されていたので中に入ってみたら、

 

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きちんと大社造でした……あいすみませぬ……。

 

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御朱印

判子です。

「今では書ける人がいなくなって」と、神社の方がおっしゃっておられました。

残念。

 

さて、神社でいただいた由緒書きから。

 

「御祭神
当神社には本社(豊川西町一三四番地)と元宮(豊川町仁保通)の二つの社があり、本社の御祭神は進雄命です。元宮(稲田神社)には進雄命の妃稲田姫が祀られていましたが、大正十二年(一九二三)に本社へ合祀され、現在は御旅所となっています。
御由緒
当神社は、大宝元年(七〇一)現在の元宮の地に創建。その後、現在地に遷座したと伝えられています。古代から中世の頃には、平家の鎌倉追討使の戦勝祈願や鎌倉将軍上洛の参詣があったと伝承されています。
平安時代以後、進雄命は牛頭天王(天王)と称された祇園精舎の守護神で、薬師如来の仮の姿ともされ、厄除けの神とされてきました。鎌倉時代、津島牛頭天王社の鎮座する尾張海東郡の領主、大江一族が当地に入り、室町時代になって天王信仰が盛んになったといわれています。天正十八年(一五九〇)豊川村が吉田城主池田輝政の領地となり、輝政は深く当社を崇敬し、刀・鞍等を奉納したと伝えられています。
江戸時代には、領主の水野佐渡守や天領代官鈴木八右衛門、さらに小笠原壱岐守など多くの領主に保護されましたが、なかでも享保二十年(一七三五)名奉行で知られる大岡越前守忠相が当地を所領すると、刀や灯篭、本殿修理料などが献じられました。以後幕末まで大岡家から継続して代参があり、供物が献納されました。
明治時代になると、政府の神仏分離の方針に従って、神社名を「豊川牛頭天王社」から「進雄神社」と改めました。さらに大正十二年(一九二三)には「豊川進雄神社」と改称されました。そして、昭和四十年(一九六五)愛知県神社庁指定の四級社に昇格しました。」

 

とのことです。

順番的には、元宮から、なぜか「進雄命」だけが離されて「稲田姫」は残り、大正になってようやく合祀された、と。

「素盞嗚尊」→「牛頭天王」という流れについては、いろいろな本で解説されていると思いますので、そちらを確認ください。

いろいろあって、疫病除けの神となったために、「薬師如来」の垂迹、とされたようです。

そうか、「大岡忠相」はこの辺りを領地としていたんですね……だから「豊川稲荷」でも名前が出てきたのか。

 

「奉納綱火と手筒煙火
(略)
豊川進雄神社の花火の起こりについて、斎藤家所蔵の古文書には「寛文元年(一六六一)六月始まり申、花火其の他つるし提灯仕り、車と山へ縄を張り縄火大分の事也、大からくりもあり」と記録され、また、西本会所所蔵文書には、「花火初之年、万治三年(一六六〇)六月十九日古より有之候所、中頃中絶仕候を親中田四郎右衛門取立之申候也」と記されています。
宮座の一員である四郎右衛門義直は、二十一歳の時に花火を始めましたが、費用もかさみ運営がままならないため、若い者に呼びかけ権現堂わき(現東部中学校敷地内)にあった荒地を開墾し、花火畑(花火の費用を補助する収入を得るための畑)をつくりました。一方では、若い者に花火の製法を教え、若い者を東西二つに分けて花火を競わせました。これが現在の煙火の起源となっています。この花火畑は歴代領主より天王除地として年貢を免除され、祭礼の費用にされました。
古文書の記録に残る煙火の名称は、「綱火」「からくり」「花火」ですが、近年各所で盛んになってきた大筒や手筒は、この花火として一括記録されています。」


花火で有名なのですが、何故に花火だったのか、というのはよくわかりません。

祭りは陰暦六月十九日・二十日、ということなので、夏越の祭りだったのかとは思います。

川の近くに「牛頭天王社」があるのは、津島にならってのこと、なのかもしれませんが、疫病は水辺からやってくる、という発想があったものと思われます。

水を払うには火だ、という単純な連想(あるいは、五行に則ったもの)でしょうか。

疫病はともかく、弔いに火を焚くのは日本では当然のようなところですし、それが大人数になればなるほど火の規模も大きくなって、隅田川の花火大会みたいになっていく……んだったかどうかは覚えていませんが。

 

 

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

 

 

東海道名所図会』には、

 

牛頭天王
神明、八幡宮ともに御城内にあり。天王祭、例年六月十五日。

放花炮(はなび) 六月十四日夜、吉田本町、上伝馬町の両町にて揚ぐる。高さ十三間、幅三間、これを立物という。これ過ぎて大花炮あり。火の移らぬように大釜を覆いにす。これに火をうつすときは、屋上に群がる見物の人々、濡筵を被くこと多し。そのほか、町々の花炮数百ありて、群衆夥し。
(略)
また笹おどり、大太鼓一人、小太鼓二人、同じ衣装に塗笠被り、覆面し、錦の陣羽織、小手、脛当など着し、いたって古雅の体相なり。囃子方は編笠、湯衣を着し、笹に提灯をゆい付けて、数十人同音に諷う。その唱歌にいわく、

天皇といふ人は何仏にまします。
日本一の荒神
あらゐ、橋本、塩見坂、名所名所の花を見さいな。

これをくりかえしくりかえし謳うなり。
(略)」(p132)

 

とあります。

↑公式HPには、現在の笹踊りの神歌が記されていますが、『東海道名所図会」と一致する歌詞はありません。

ということは、『東海道名所図会』に掲載されている「牛頭天王祠」が、「豊川進雄神社」と同じかどうか、がわからないということですね(祭礼の日にちが違うしな……)。

さて、どんなものでしょうね……。

 

 

今回はこの辺りで〜。

 

 

三河、まだまだ見て回ります。