(通常営業です)。
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「星神社」の参拝を終え、まだまだイケる俺イケると時刻に勇気付けられ、ふと思い出した「味鋺神社」に向かってみました。
○こちら===>>>
「味鋺神社(北区)」 - べにーのGinger Booker Club
↑以前の記事です。
こちらも氏子さん、地域のみなさんで賑わっており、あまり写真を撮ることもできず、恐る恐るお願いしてみると、御朱印はいただけました。
御朱印。
さて、前回は『尾張名所図会』を引用していますので、今回は別ラインから。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 6 春日郡
↑『尾張志』の「春日郡」より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
52コマです。
「味鋺神社
味鋺村にありて今は六所権現と称す 大日孁尊日本武尊建角見命天児屋根命武甕槌命誉田天皇の六所也神名式に春日部郡味鋺神社尾張国神名帳に従三位味鋺天神と見えたり末社に神明社春日社天道社天神社山神社八幡社八龍社三狐神社あり」
おっと、わりとあっさりめでした。
○こちら===>>>
↑『神社覈録』はどうでしょうか。
400コマです。
「味鋺神社
味鋺は安智麻里と読り、(古點にミマリとあるは誤也) ○祭神味間見命歟 ○山田庄味鋺村 (府志云、鋺今俗作鏡者非也、されど集説に、味鏡と書てアチマと唱ふると云り) に在す。今六所明神と称す、○旧事紀、(天孫本紀)宇摩志麻治命、亦云味間見命、集説云、按、物部氏祖味間見命也、と云るは然るべし、張州府志に、祀大日孁尊、日本武尊、建角見命、天児屋命、武甕槌命、誉田天皇と云るは例の信がたし、伴信友云、宇摩志麻治命に対へて思ふに、味鋺も宇麻志麻里ならむか、されど村名の今の唱には叶はずと、(速胤)按るに、さることながら、是等こそ後世訛れるに違ふまじけれ、(以下略)」
物部氏の祖先「宇摩志麻治(うましまぢ)命」の父神は、古代史妄想で大人気の「饒速日命」です。
天神で、「長髄彦」と仲良くなったんですが、結局彼を裏切って「神武天皇」に降ったお方です。
その辺りの神話については、いろいろな方がいろいろな説を唱えておりますので、各々確認していただければ、と。
軍事を司ったらしき物部氏が、原大和朝廷において大きな勢力だったことは、疑いないところかと。
さらに、いつの頃かはわかりませんが、東国にも影響力を持っていたようで、当然尾張にも。
で、「延喜式神名帳」でも、「物部神社」というのが尾張国の式内社としていくつか掲載されている、と。
この辺りのことをいろいろ調べてみたいな、と思いながら、なかなかできておりませんで……もちろん記録はそれほど残っていませんので、もっぱら妄想になるのですが。
うーん……関裕二氏にまかせておけばいいような気もしてきました。
○こちら===>>>
『西春日井郡誌』も観ておきましょうか。
200コマです。
「味鋺神社(式内)楠村大字味鋺字堂前九百十一番にあり、宇麻志麻治命、大日孁尊、日本武尊、別雷尊、天児屋根尊、武甕槌命、品田別命を祀れる郷社にして、鎮座年代不詳と雖も、延喜式神名帳に山田郡味鋺神社、本国神名帳に従三位味鋺天神、尾張旧記類従に従二位上味鋺天神とある官社なり、記録湮滅して由緒分明ならざれども古昔は、護国院の住職兼て神に仕へ居たりと覚ゆ、造営につきても、享和三年宝暦、寛延三年等の棟札を蔵すれども其以前は明ならず、
(略)
境内社としては、神明社(祭神天照大神)、洲原社(祭神菊理姫尊)、熱田社(祭神日本武尊、倭姫、大山祇神)、金刀比羅社(祭神大物主尊)、秋葉社(祭神火具土尊)、津島社(祭神須佐之男尊)等あり。
例祭は十月九日にして、当日神事として、古は宇麻志麻治命御陵墓と言ひ伝ふる今の東春日井郡勝川町なる二子山へ、神輿の渡御ありしが今は其の東方なる東八龍神社(味鋺の南端にある御旅所へ)御幸あり、渡御の次第は、榊、獅子、頭、紅白数十旋の旗、鉾、弓等を持ちて行列を作り、子供伶人音楽を奏して、之に随ひ、神輿の前を進む、神輿の後方には、甲冑騎馬の武者数人、裃を着けたる者一人供奉す、之を御旅といふ、渡御の式終りて、流鏑馬数番あり、馬場にて騎射を行ふ、式頗る古風にして、其の名遠近に伝はれり。」
↑神社の案内は、この辺りを参考に書かれているような気がします(あ、逆ですね……『西春日井郡誌』が社伝を元に書かれている、と)。
どうやら二子山が、「宇摩志麻治命」の陵だと考えられていたようで、うーんどうなんでしょ……一度行ってみないことには、ですね。
それでは、『尾張国神社考』(原題「尾張神名帳集説本之訂考」、発行:ブックショップ「マイタウン」)より。
79ページ。
「従三位味鋺(うましまりの)神社天神 [集説云]味鋺村六所明神 [鹽尻記云]いせ、やはた、春日、加茂、鹿島、熱田の六所といふものは後也。社僧護国院(略)
[正生謹考]あしまのみやしろと読奉るべし。あじまの地名は、もとは神名に出たり。此地上古に美麻治命の領たまひしに歟。崇神天皇の御宇、その神を祭る宮代を立賜ひて、則うましまちの神の社といふ。其後春秋を経てウマシマリと訛る、(略)そのうましまぢの語自然に約りてあじまと成有なり。ウマの約阿、マリを下略す(但しあじまのしは、うましのし也。あぢのちにはあらず。)延喜式に味鋺の文字を下せるも正字にあらず、美味(うましうやし)は旧来の讃称也。鋺はまりにて、其頃祭器に玉椀、大鋺などあれば、取あへず塡たる物也。二宇連聲の熟語にはあらず、予始におもひしは、あじまは網島ならむ。(西園方に細曳(あびこ)村網干村などあれば)と思ひ詰たりしが、中々に神名の方まされり。集説本出口延経案。物部氏ノ祖、味間見命也(略)といふはいひざま迂遠し、(略)」
津田正生翁は結構独自の説が多いので、なかなか全部を信頼するわけにも参りませんが、「味鋺(あじま)」という難読地名の起源として、往時から共通認識として「うましまぢ」「うましまで」という物部氏の祖の名前なのではないかと考えられていたようです。
そもそも、「宇摩志麻治命」という名前自体が結構特異なもので、「ウマシ」はわかるとして、「マヂ」「マデ」ってのはなんだろう……「ニギハヤヒ」との繋がりもあまり感じられませんし。
とはいえ、記紀神話にも登場するので、大和朝廷的にはオフィシャルな「ウマシマヂ」。
オフィシャルとはそれが正しいというわけではなく、「正しいと決めた」というだけなので、何らかの作為があってもおかしくはないわけですが、記紀神話成立時期にはまだそれなりに勢力をもっていたと思われる物部氏も、その作為は飲み込んでいた、と。
後に『先代旧事本紀』という、物部系を重視した歴史書が登場しますが、ここでも「宇摩志麻治命」はそのまま登場しており、この時代になると物部氏(それに近い氏族)でも、祖先の名前が失われていたのではないか、と思われます。
『先代旧事本紀』では、尾張氏も同系統だ、ということになっています。
そうした認識がもともとあったもので、それを元にして『先代旧事本紀』が書かれたのか、あるいは『先代旧事本紀』の影響から物部氏と尾張氏が同根ということになったのか……「物部神社」が古くから尾張にあったことは疑いないようなので、『先代旧事本紀』の元ネタがこの認識だったのでしょう。
ただ、この「同じ氏族だ」、という主張が、高田崇史的に考えれば、「もともと同族だったわけではなく、ある時代に合流した別氏族だったのだろう。それも、平和的に好ましい合一がなされたかどうかはわからない」、要するに物部氏が尾張氏を征服したのではないか、とも考えられるわけです。
物部氏側の認識として登場する系譜で、尾張氏側にはそういった主張は残っていないようですから。
うん……これ以上は知識不足を露呈するだけなのでやめときます……もうちょっと掘ったら面白い妄想が浮かびそうなのですが……。
まだまだ続きますよ〜。