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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「太郎坊阿賀神社」(考)

さて。
文字だらけですので、苦手なかたは回避してください。

 

いつも通り『近江輿地志略』の目次をぐるぐる見ていたのですが……「阿賀神社」も「太郎坊」もどこにもないんですよね……これは何かあるな、と思って、ひとまず神社でいただいた御朱印の押さえ紙を。

 

「神社名 太郎坊・阿賀神社(通称太郎坊宮)
御祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(天照皇大神の第一皇子神・天孫瓊瓊杵尊の御父神)
御神徳 勝運授福
御社紋 輪宝
(以下略)」

 

うん、ヒントがない。
国会図書館デジタルコレクションで検索してみると、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 太郎坊阿賀神社神拝祝詞

 

↑そのものが見つかっちゃったもので……こちらから(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
2コマです。

 

「○御霊験
抑々近江八日市赤神山に鎮座まします太郎坊阿賀神社は太古天津神我朝の萬民の病患貧苦を憐み當山千丈巨巌に降臨し給ひて大神の神力を以て巨巌を左右に押開き此の間を通行して参拝するの輩は即座に病苦を除き諸願成就せざる事なし、
欽明天皇の御世聖徳太子霊威顕著なるを聞食し参籠し給ひ國家安泰風雨順次百穀成熟萬民快楽を大神に懇念し給ふ是に於て大神を阿賀霊神太郎坊大権現と奉稱し給えり桓武天皇の御宇傳教大師當山に参籠し廟社を建立し社坊成願寺を設け赤神山と號せり、古来霊験顕著にして其の御守護を蒙る者擧ぐるに遑あらず殊に近年信者著しく増加し大正拾参年以来本殿再築し其他諸設備に着手し本年十月當敬神會より荘厳無比なる社名石を献納するに至れり。」

 

……うーん、伝承はある程度わかりましたが、「太郎坊宮」「阿賀神社」と呼ばれた始まりが……おっと、

 

「社坊成願寺」

 

……なるほど、見逃すところでした。

社紋が「輪宝」という時点で、そのくらい思い至らないといけないですね……。


というわけで、「成願寺」に関する資料をデジタルコレクションで当たってみると、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近江蒲生郡志. 巻7

 

↑『近江蒲生郡志』巻7にありました「成願寺」。
299コマです。

 

「成願寺
成願寺は中野村大字小脇に在り天台宗なり本尊薬師如来なり、寺傳に延暦十八年傳教大師草創の古刹にして全盛五十餘坊の塔中あり、一旦兵火に罹り爾後行萬坊石垣坊の二院を存するに過ぎず太郎坊を以て有名なる所なり、天正蒲生氏郷制札を寄す(蒲生氏世代志参照)慶長八年十月幕府の寺社奉行は五ヶ條の掟書を下して寺規を定め京都町奉行板倉伊賀守勝重は寺領十七石に諸加役免除地の特典を附與す、元和三年六月延暦寺の執行天海僧正は三條の寺法を下して寺僧を戒飾すそれ等の史料は左に列記す、寛永十七年住僧寶壽院行承及び行萬坊の祐盛願主となり洪鐘を鋳造す、明治以後神仏分離令出でし時太郎坊社は阿賀神社と改稱し各別立す、境内に不動堂あり寛永中僧行承の再建せし所なり。(略)」

 

……なるほど。
この書き方だと、「太郎坊宮」は塔中の一つだったのかどうか、もよくわかりませんね。
ただ、江戸の頃にはすでに「太郎坊宮」で有名だった、と。
蒲生氏郷」については……ええ、戦国時代に疎い私はさっぱりですが、超有名人ですよね確か。
検索していただければわかると思いますが、近江は蒲生郡の出身だったようです。
ふむ……では『近江輿地志略』も見ておきましょう。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近江輿地志略 : 校定頭註

 

421コマです。

「[成願寺]成願寺村にあり。赤神山成願寺と號す。其記に曰く、夫當山は人皇五十代桓武天皇延暦十八乙卯年傳教大師草創の伽藍にして、本尊薬師如来十二神将御自作なり。鎮守は熊野権現、往古は五十餘坊あり、今漸く二坊を存す。行萬坊石垣坊是也。峯は金剛胎蔵の曼荼羅中央は不動明王垂迹、悪魔降伏の太郎坊、此處に十丈許の妙岩二行に立つ。これ阿吽の二字を表す云々と。杉谷善住坊は五十三家の侍也。娘を屋形義賢公へ出し妻となす。此腹に端三郎といふ子出生、之に依りて善住坊無二の忠を盡し、成願寺の峯に楯籠り、忍びて信長公をねらへども幸なければ空く過ぐる折節、千草越を尾張へ下り給ふと聞き、彼山中に忍び鐡砲を以て打つ、信長運強くはづる。杉谷深く隠れしが高島にて磯野丹波守、高島小川へ所替の節、堀川阿弥陀寺にて生捕られ生害す。

 

むむ……ほとんど何もわからないに等しいです……。

 

「中央は不動明王垂迹、悪魔降伏の太郎坊」

 

↑これって、つながっているんでしょうか?
だとしたら、「太郎坊」は「不動明王」の垂迹ということになります。
むむむ……。
普通、「太郎坊」ったら、明らかに天狗のことなのですが……。

 

 

日本妖怪異聞録 (講談社学術文庫)

日本妖怪異聞録 (講談社学術文庫)

 

 

小松和彦大天狗……じゃない大先生による『日本妖怪異聞録』を最近読んだので、そこから引用しますと、

 

「江戸も中期頃に作成されたとされている『天狗経』なる書がある。それによると、京都の北西の愛宕山には太郎坊という天狗、比良山(比叡山の奥)には次郎坊、鞍馬山には僧正坊、比叡山には法性坊、さらに横川(比叡山)覚海坊、富士山陀羅尼坊、日光山東光坊、羽黒山三光坊、妙義山日光坊、常陸筑波法印、彦山豊前坊、等々、霊山には合計四十八天狗がいる、と書かれている。

この天狗名、固有名詞であるかに見えるが、霊山に結びつけられている名であろうから、むしろ天狗の地域的集合名を考えた方がいい。愛宕山の太郎坊と称される地域的天狗集団があって、そのなかに、さらに個々の名前を持った天狗がいたというわけである。
『天狗経』の筆頭にあがっていた愛宕山の天狗が「太郎坊」つまり「長男」の天狗とされているように、愛宕山平安時代から天狗の拠点とされていた。前章で那須野の妖狐「玉藻前」の話を紹介したとき、左大臣藤原頼長近衛天皇を呪詛したという噂が流れた、という実話について少し述べたが、この頼長の、おそらく修験もしくは陰陽師を用いて行なった呪詛法は、愛宕山の天狗像に釘を打ち込むという方法であった。つまり、その当時から、愛宕山には天狗像が祀られていたのである。
鳥類タイプの天狗がしきりに活動していたのは、平安時代であった。この頃の天狗をめぐる伝承の多くは、仏教とりわけ比叡山、つまり天台宗の僧たちにかかわるかたちで語られている。」(p74)

 

「……こうした天狗伝承から明らかになってくるのは、比叡山密教僧たちは、この世のなかの「異常」を「天狗」によって説明しようとしていたかにみえる、ということである。大雑把ないい方をすると、陰陽師が「鬼」を想定することで、あるいは「妖狐」を想定することで、「異常」を説明しようとしたのに対し、天台の密教僧は「天狗」を想定することで「異常」の説明の独自性を主張したのだ。彼らは、天狗と戦い、これを退治することでその存在を主張し、かつ仏の教えを人びとの間に広めようとしたというわけなのである。」(p81)

 

「比良山の天狗が、是害坊(ブログ筆者注:『今昔物語集』を元にして作られた、鎌倉時代に大人気を博したらしい、大陸からやってきた天狗)をそそのかすために語った話のなかに、文徳天皇の女御染殿后の話があった。その話とは、「文徳天皇の女御染殿后は、石山の行者、紺青鬼となりて、悩ましたてまつりしを、智証大師、加持し給ひければ、その後は、近江の水海(琵琶湖)に隠れ侍りしかども、恥をかくことはなかりき」というものであった。石山の行者が紺青鬼という鬼になって、染殿に憑いて病気にしたが、智証大師の祈祷で退散させられた。退散した鬼は琵琶湖の底に隠れて出てこなかったので、恥をさらすことがなかった。それに引きかえ、あなたは一度ならず二度までも恥をさらしている、とさり気なく是害坊を責めていたのだ。
ここでは、石山の行者が鬼になったと表現されているが、ある書物によると、染殿を悩ました邪気が天狗で、しかも、もとは紀僧正という立派な僧であったという。つまり、僧が戒めを破って天狗になることもあったのである。染殿についた天狗は、柿本天狗という名の天狗であった。この柿本天狗を調査してみると、意外や意外、もと真言宗の僧で、知徳秀逸にして験徳無双の聖であったが、大法慢(慢心)して、日本第一の天狗になった、その大天狗が愛宕山の太郎坊だ、というのである。(略)」(p98)

 

↑といったことが書かれています。

他にも、大陸から渡ってきた「是害坊」はなぜか「不動明王」に深く帰依する僧侶にやられていることが多かったりして、「天狗」と「不動明王」の関係になにやらありそうな感じがします。

 

「天狗」の初出は……という話をすると長くなるのでやめますが、もっぱら修験者と同一視された、というのはよく知られた話だと思います。

山に「天狗」が住んでいるのは、山岳で修行する修験者とイメージを重ねているからですね。

で、おそらくですが、これが正式な仏教僧にとって、都合の悪いことがあったのでしょう。

正式な得度を受けていないのに、仏法を使役し、ときに祈祷もやってのける民間仏教者ですから、認めがたい部分が多かったのではないかと思います。

一方で仏教、特に密教は山と所縁が深いのも事実で、何しろ「秘密」な仏教ですから隠しておきたいことがあるでしょうし、修行も厳しくするために山が選択された、ということもあったのでしょう(大陸の仏教の影響は、もちろん巨大です)。

とすると、実は修験者と密教僧というのは、近しい存在でもあるのです。

天台宗の「千日回峰行」の話を読むと、特にそう感じます。

巨大勢力天台宗としては、ときと場合によって、「天狗」をいいように利用したのではないでしょうか。

全てではないでしょうが、↑であげた「柿本天狗」の話を見ていただくと、真言宗の高僧が「天狗」になった、と書かれています。

大きく争っていたわけではないにしろ、天台宗真言宗はライバル関係、であれば相手をそこはかとなくディスるために、真言宗の僧侶は「天狗」になることがあるんですよ、とネガティブキャンペーンを張る。

一方で、大陸からやってきた「是害坊」と退治して調伏するのは天台宗の高僧。

相手を落としつつ、自分をあげる、という基本戦略に基づき、しれっと「真言宗天台宗」を植え付ける。

その仲立ちを「天狗」がしているとなると、天台宗と「天狗」はほぼ共犯関係にありますね。

マッチポンプってやつです。

こうなってくると、天台宗の高僧が「不動明王」の加護で「天狗」を退治した、というのも怪しいもので……ああ、ひょっとすると、「中央は不動明王垂迹、悪魔降伏の太郎坊」ってそういう意味なんでしょうか。

 

「天狗」に堕ちる、あるいは「天狗道」という六道になぞらえた言い方もありますが、「天狗」が堕落したものである、という観念が結構定着しています(他の「天狗」もいるでしょうが)。

これが、キリスト教における「堕天使」の取り扱いと似ていたりします(「天狗」は仏法の敵なのですが、例えば「神の敵対者」と呼ばれる「サタン」とダブります)。

洋の東西を問わず、人間の考えることは似ているのかなぁ……とちょっと思ったり。

 

 

日本の霊山読み解き事典

日本の霊山読み解き事典

 

 

 

『日本の霊山読み解き事典』から、「愛宕山」の記事をちょっと引用してみましょう。

 

「中世になると神仏習合色が強まり、愛宕山を行場とする修験者や聖が現れたが、その一人に蔵算がいた。蔵算は、愛宕山から伯耆大山に行き、六年間にわたって修行を積み、伯耆大山で盛んであった地蔵信仰を愛宕山に持ち帰った。その結果、愛宕権現本地仏を勝軍地蔵とする説が生まれ、愛宕山本地垂迹説が完成した。そして、勝軍地蔵など五尊を祀る白雲寺が成立し、愛宕神社別当寺となった。白雲寺は、愛宕神社の祭礼に深く関与するとともに、天台宗の勝軍院長床坊・教学院尾崎坊・大善院上坊・威徳院西坊、真言宗の福寿院下坊の五つの院坊を擁した。
また、奥の院に著名な天狗である太郎坊など三座が祀られたのも中世のことで、浄瑠璃「あたごの本地」や祭文「愛宕地蔵之物語」などで天狗が活躍する物語が広く語られたのは、中世から近世にかけてのことであった。」(p410)

 

この事典には、赤神山の項目はありませんが、前回の最初の写真を見ていただければわかる通り、修行にはうってつけな感じですから、修験道も盛んだったでしょうし、それこそ「天狗」もたくさんいたのでしょう。

愛宕の「太郎坊」とは違う「太郎坊」がいたとしても不思議ではないのかもしれないです。

妖怪の勉強は、小松和彦氏とか多田克己氏にお任せしまして(?)。

 

杉谷善住坊は五十三家の侍也。娘を屋形義賢公へ出し妻となす。此腹に端三郎といふ子出生、之に依りて善住坊無二の忠を盡し、成願寺の峯に楯籠り、忍びて信長公をねらへども幸なければ空く過ぐる折節、千草越を尾張へ下り給ふと聞き、彼山中に忍び鐡砲を以て打つ、信長運強くはづる。杉谷深く隠れしが高島にて磯野丹波守、高島小川へ所替の節、堀川阿弥陀寺にて生捕られ生害す。」

 

↑『近江輿地志略』の中に、いきなり「戦国スナイパー」

 

戦国スナイパー 1 信長との遭遇篇 (講談社BOX)

戦国スナイパー 1 信長との遭遇篇 (講談社BOX)

 

 

が出てきたのでちょっと驚きましたが(あ、意味が違うのかな……すみません未読なもので)、「織田信長」を狙うために、どうやら赤神山に篭っていたようです。

 

……ところで、「成願寺」って今もあるんでしょうか。

グーグルマップで調べたら、普通にありました……これだから事前に調べないってのは……。

 

というわけで、今回の滋賀巡りはこれにて終了〜。
溜まりに溜まっている初詣の記事に……まだ突入できませんのです、はい……。