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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「日吉大社」(考)〜その8

さて。

前回の系譜を、自作してみました。

わかりづらいですが……何となく、こんな感じです(「大己貴神」は、一応「素盞嗚尊」の末裔だと考えておきました)。

 

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それはともかく。

日本の神話には様々な神様が登場され、それらが複数の名前を持っていることがあります。

元々、それらの神々は、氏族単位(血縁関係にあるか、ある一定の土地で共同体を作っているか、程度のものとお考えください)で信仰されていたものが多かったと思われます。

で、神の名前が複数ある理由を説明するのに、

 

(1)元々は一つの神格だったのに、何らかの理由でいくつもの名前で伝わることになってしまった

(2)元々は別々の神格だったが、何らかの理由で一つの名前で伝わることになってしまった

 

という二つの説が用いられることが多いでしょう。

(1)は、信仰が伝播していく段階で、その土地に根付いてしまうことで、本来の神格が失われ、土地のものとなった、ということが一つ。

神々に個別性の高い名前がつくようになるには、ある程度文化的な素地が必要なので、ムラやクニと呼ばれる集団が形成される頃のことなのかもしれません。

また、いわゆる<神社伝承学>などで(1)が用いられる場合には、いろいろな神を(現代において)習合させて、面白説やトンデモ説に結びつけることが多いかと思います。

これはこれで、真実の側面もあるのでしょうが、多用すると危険な技なので注意しましょう(?)。


(2)のほうは了解しやすいのではないかと思います。

「A」という神を信じる人たちと、「B」という神を信じる人たちがいて、彼らが一つの氏族集団を形成した場合、「A」を主な神とするか、「B」を主な神とするか、いっそのこと「C」という新しい名前の神を作り出すか、といった感じでしょうか。

歴史学的にも民俗学的にも、↑の話は超乱暴ですので勘弁願いたいですが、そうですね……西洋だと、ケルト神話とかゲルマン神話の神々が、似ている神格だからということでギリシャ神話の神々の名前で記録されてしまうことが結構あります(記録する側の都合なので、ということは大抵ローマ帝国文化のせいなのですが)ので、そんなイメージかな、と。

日本神話で一番名前を持っているのが「大国主神」、記紀神話で公式に「7つの名前を持つ神」ということになっています(『古事記』と『日本書紀』で扱いが違います)。

これは、その7つの名前を持つ神々がそれぞれにいて、それがどんな理由でかはわかりませんがきゅっと集められて、結果一柱の神、ということになったものだと考えられます(先にも書きましたが、もっぱら記録する側の都合、というのが大きかったと思いますので、『古事記』『日本書紀』の編纂者たち、あるいはそれ以前から存在していたとされる『旧辞』『帝紀』、各氏族の独自の伝承、などが残されるにあたってそうなったものかと)。

別の神ではないか、というのを端的に示すのが、「大己貴神」と「大物主神」の関係です。

なにせ『日本書紀』の国譲りの段の一書では、別の神として堂々と登場しちゃいますから。

 

と、いうようなことから考えて、前回の、

 

大山咋神」≠「山末之大主神」、

 

という話です。

大山咋神」と「山末之大主神」が同じ神である、という認識が強ければ、後世に「日吉大社」の二十一社について説明するための後付けの理屈だとしても、「山末之大主神」の「荒魂」だけを独自に祀る必要性はないと思うのです。

元々別の神格だという認識があり、そのため(人間側の)必要に応じて、様々な名前を使い分けているのではないか。

基本的に、「山末之大主神」が、元々の日枝の辺りの地主神だった……あるいは、八王子山に限定するべきでしょうか。

そこに、「大山咋神」(を戴く氏族)がやってきて、一帯を支配するに至った。

「山末之大主神」の「荒魂」だけを、改めて祀っているのは、おそらくあまり穏やかな形での支配権移行ではなかったのでしょう。

ともかく、「大山咋神」(とその妻神)は、八王子山の「金大巌」を依代として降り立った、ということになった、と。

さらに時代が下ると、その「大山咋神」(とその妻神)も、山の支配権を奪われることになったのか、あるいは一応は素直に恭順したのか。

大山咋神」(とその妻神)の「荒魂」は、そのまま「金大巌」に残され、里宮としての「東本宮」(「小比叡」)一帯が整備された。

「荒魂」を別にお祀りするのには様々な意味があると思いますが、一つには、「祟り」を分離させる機能があるのではないか。

本来、不可分であり、その表象の差異だったはずの「和魂」「荒魂」(加えての「幸魂」「奇魂」)は、分離できるようになっていたのですね、いつの間にか。

古事記』『日本書紀』成立の頃にはそういった解釈がなされています。

これを、日本古来からの独自のものと考えるのか、大陸由来の陰陽思想などに根元を見るのか、これまた一つには決められませんが。

とりあえず、仏教側にはうってつけ、な感じがしますよね。

仏の輪身(如来、菩薩、明王が一つの仏なんだよ〜的な考え方)、あるいは本地垂跡のきっかけは、この辺りにあったりするのかもしれないです(だから、本地垂跡なんていうなかなか突拍子もない考え方も受け入れられやすかったのかも)。

神格から「荒魂」だけ取り出したら、残るのは理論的には「和魂」になるはずなんですが、「大山咋神」(とその妻神)にはそこまでの説明はない、と……いえ、そういった説もあったようですが、まあそんなこといちいち言わんでもわかるだろう、くらいのノリかもしれません。

「祟る」系の「荒魂」は、今も「金大巌」に鎮座ましましておられるのです。

で、多分どこかの段階では、この「大山咋神」(とその妻神)の一党が、「牛頭天王」と習合したんでしょうかね……いえ、「八王子山」っていう呼称がどの程度古いのかわかりませんが、「八王子」ったら「牛頭天王」ですから(?)。

だから「牛尾宮」なのかと。

この辺りはもう、さっぱりわかりません。

 

地主神を祀っているくらいですので、「東本宮」のほうが歴史的には古いようなのですが、実際に周辺に社が整備されたのがいつなのかは不明です。

整備している人たちに、賀茂氏系の人たちがいたことは確かなようですが(宇志麻呂さんも、そうではないか、と伝わっているようですし)。

「素盞嗚尊」→「大年神」→「大山咋神」という、国津神の系譜に、「八咫烏」として「神武天皇」東征を導いた「鴨建角身命」の系譜が接続されているのは、記紀神話的にも公式なものなので、あんまり文句をつけても仕方ないところです。

で、昔の呼び方で、「鴨建角身命」を祀る「氏神神社」は「山末社」だったのですが、だからといってこちらが短絡的に「山末之大主神」だったのかというと……あれ、別にそれでもいいのか……いや、どうなんだろう。

神話の世界の話なので何とも、ですが、賀茂氏は今の京都(山城)辺りに勢力を展開していたようなので、比叡山辺りも抑えていたのかもしれないですね。

だからこそ、「神武天皇」が最初に入れなかった大和への誘導ができたのかも。

そうすると、「鴨建角身命」の本拠地の一つを、「大山咋神」が奪い取ってしまった、ということになりますか……うーん、そりゃ「鴨建角身命」も祟る気がしますね。

で、結果、娘は「大山咋神」と結婚しちゃうと……それがそろって「荒魂」として祀られているのもちょっと不気味な感じがします……その御子神(「鴨別雷神」)はどこか飛んでいっちゃいますし、何か踏んだり蹴ったりな感じがします。

まあ、その後に都となる山城は依然として賀茂氏勢力下だったと考えれば、案外その祟りも弱かったのかもしれません。

 

で、「西本宮」です。

こちら、基本的には「天智天皇」の御代、近江遷都に前後して、やってきた神様が祀られていると考えられています。

 

○こちら===>>>

「三井寺」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「三井寺」の記事でも触れましたが、この近江遷都、なかなかに人気がなかったようです(が、書かれているのが『日本書紀』であることを考えると、表面上は「天智天皇」の持ち上げつつも、「天武天皇」をさらに持ち上げるために書かれている部分が大きいともされますので、少なくとも『日本書紀』編纂者の頭にはそうした記事を入れておきたい願望や正当性があったもの、と思われます)。

 

 

 

吉野裕子氏の『日本古代呪術』には、この近江遷都を呪術的に考察した説が掲載されており、非常に面白いのですが、妄想するには専門的すぎて私にはついていけません。

ですのでここは「日吉大社」の伝承に従って、「西本宮」には「三輪山の神」を勧請した、ということにしましょう。

それは当然のことながら、「大物主神」のはずなのですが、誰が勧請したのかというと、「天智天皇」自身だったのではないか。

大和の地主神としての「大物主神」の祟りの力は絶大で、それをうまいこと収めたからこそ、大和には都が長く存続することになったわけです。

その力、さすがに「天智天皇」の御代には薄らいでいたものと思われますが、朝廷内でも劣勢に立たされていた「天智天皇」が勢力挽回するための奇策が近江遷都で、その正当性を認めさせるためにも、「大物主神」ごと遷都しようとした、と。

で、実際に遷宮しちゃった。

分霊を勧請、というよりは、まるっと遷宮しちゃった、くらいの勢いだったのではないでしょうか。

その先が、「日吉大社」の「西本宮」だった。

それを受け入れるだけの余地が「日吉大社」(当時は、「大山咋神」を祀っている地主のお宮でしょうか)にあったのか、というとこれがあったりするわけです。

何しろ「大山咋神」、出自は「素盞嗚尊」系ではありますが、おそらく蛇神であり、雷神でもあります。

山城国風土記逸文」でも書かれているように、「丹塗矢」神話の主神であり、「大物主神」と属性が非常に似ています。

ひょっとすると、「大山咋神」と「大物主神」は、古代には同じ神だったのかもしれません(というくらい似ているのです)。

そうしますと、日枝の辺りの賀茂氏系氏族は「天智天皇」の味方になるかもしれないですし、遷都前後に百済からの亡命者を近江近辺に住まわせていたりして、「天智天皇」としては自分の政権の足場固めをしているようにも思われます。

 

ところが、「天智天皇」とその皇子「大友皇子(「弘文天皇」)」側は、「天武天皇」方に敗北します。

歴史は勝者が作るものですが、「天智天皇」の業績を無しにできるほど朝廷は歴史を軽んじることができない時期にあったと思われます(文化水準が上がった、と言えばいいのか)。

しかし、「天武天皇」的には、「天智天皇」をそこはかとなく貶めたいし、自分の正当性は主張したい。

そのためには、「大物主神」にそのまま日枝にいていただいては困るわけです。

なぜなら、ちょっと忘れがちになるのですが、「大物主神」と「勢夜陀多良比売」の間に生まれた「比売多多良伊須気余理比売命」は、他ならぬ「神武天皇」の皇后なのです(という神話を、朝廷はせっせと作ってきたわけです)。

大物主神」の神威がどの程度残っていたのかはともかく、初代天皇の皇后の父神がそのまま近江にいらっしゃったのでは、後々禍根を残すことになりかねない。

で、「天武天皇」、ふと考えを巡らせて……

 

「あれ、そういえば「大物主神」と「大己貴神」って、おんなじだよってことになってなかったっけ?」

 

……と思い出しました(ピキーン!)。

というわけで、「大物主神」じゃなくて「大己貴神」なんだよ近江にいるのは、とやってしまった。

もちろん「大物主神」には、いそいそと三輪山にお戻りいただく。

一方で、「天智天皇」に味方した(しようとした)賀茂氏系の氏族に対する手当を忘れては、今度は山城国一帯を敵に回しかねない。

そこでですね、「大物主神」ではなく、「大己貴神」を「西本宮」にすえた、もう一つの理由です。

冒頭の、自作の見づらい系譜を見ていただくと、「大己貴神」と「田心姫神」の間に生まれた「下照姫神」が書かれているのですが、もう一柱御子神がおられまして、「阿遅志貴高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)」とおっしゃいます。

記紀神話では結構面白い役割を果たす方なのですが(以前、入れ替わりトリックを考えたことがあります

 

○こちら===>>>

「鷲宮神社」(続)〜関東巡り〜 - べにーのGinger Booker Club

 

)、なぜか日枝の二十一社には入っていない……で、ここに系譜の工作があるのではないか、と思ったのです。

 

大山咋神」と「鴨玉依姫神」の間に生まれた「鴨別雷神」。

実は、この方と「阿遅志貴高日子根神」が同じ神格なのではないか、というか「天武天皇」がそういう系譜作りを賀茂氏に許したのではないか(ただし、賀茂氏側では「阿遅志貴高日子根神」の名前は出さないように、とかいう条件付きで)。

古事記』には、「阿遅志貴高日子根神」は「迦毛大御神(かものおおみかみ)」と紹介されています(「出雲国造神賀詞」でも、「阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ」とあります)。

「鴨別雷神」も「阿遅志貴高日子根神」も雷神です。

「鴨別雷神」は父の元へ行けと言われて飛んで行っちゃいましたし、「阿遅志貴高日子根神」は友人「天稚彦」の葬式に出たのにそっくりすぎて間違われて怒って喪屋を切り倒して飛んで行っちゃいましたし。

「鴨別雷神」=「阿遅志貴高日子根神」……これを賀茂氏に許可することで、「天武天皇」としては賀茂氏をある程度取り込みたかったのかもしれません。

ところが賀茂氏、これじゃ不足だとばかりに、もう一つ手を打ってきます。

古事記』の崇神天皇条、例の「大物主神」が盛大に祟りまくってですね、「意富多多泥古(おおたたねこ)」という自分の子孫に祀らせれば祟りをおさめるぞの場面。

この時の「大物主神」は、「丹塗矢」に化けたりはしていないのですが、妻の名前は「活玉依毘賣」、その子孫(子供)の「意富多多泥古」は「鴨君の祖」とばっちこいで『古事記』に書かれています。

表向き、「大物主神」の「丹塗矢」神話で「神武天皇」の血統に結びつくことはかないませんでしたが、実際にはこれこの通り、大和地方の祭祀一族につながることができていますし、祖先の片方は「素盞嗚尊」、もう片方で「八咫烏」、と朝廷的には功績抜群な氏族として歴史に名を残すことに成功したわけです。

 

……。

…………。

………………。

 

と、ここまで妄想してきて、『古事記』の「意富多多泥古」の記述で見落としていた部分があるのに気がつきました。
「鴨君の祖」はいいんですが、「神君(みわのきみ)の祖」とも書かれている、と。

 

いえ、「大物主神」の血統ですから、「三輪」氏族の祖であっても何も間違いではないんですが、何か忘れてるな……と慌てて『日本書紀』を探ってみますとですね。

天武紀の元年六月の条に、

 

「……是の時に、三輪君高市麻呂・鴨君蝦夷等、及び群の豪傑しき者、響の如く悉に将軍の麾下に会ひぬ。乃ち近江を襲はむことを規る。」(岩波書店日本書紀(五)』p90)

 

とありました。

ええと……つまりこれは、「壬申の乱」において、賀茂氏族は三輪氏族とともに、「天武天皇」方についていた、ということですね。

そうすると、今までの妄想が全部おじゃん……いえいえ、むしろその方がわかりやすいのかと。

近江朝についていた賀茂氏族を取り込むため、というよりは、「壬申の乱」での功績を讃えての系譜作成の許可だったのではないか。

元々、賀茂氏族が三輪氏族と祖先を同じにしているとしたら、「丹塗矢」神話を同様に持っているのもうなずけますし。

そうではなく、この段階で血統をより集めたのだとすると、三輪氏族としては「大物主神」の御神威を譲り渡すわけにはいかないとしても、それを「大己貴神」とダブらせることでよしとしたのかもしれないですし、賀茂氏族的にも「わかる人にはわかる」から手を打ったのかもしれません。

流れを見直してみると、

 

(1)「天智天皇」が近江に遷都するにあたり、その御神威を被りたかったために、「大物主神」の遷座も求めた。
(2)しかし、「壬申の乱」で、「大物主神」の奉斎氏族である三輪氏族は、「天武天皇」方につく。
(3)同じく、元々は大和の葛木にあって、勢力を山城に伸ばしていた(「風土記逸文」より)と思われる賀茂氏族も、「天智天皇」に協力したかに見えたが、結局「天武天皇」方につく。
(4)結果、賀茂氏族は、三輪氏族と同様に、有力な氏族と見なされて、記紀神話に名前を残すこととなった。

 

といった感じでしょうか。

こうなってくると、「鴨別雷神」はやっぱり「阿遅志貴高日子根神」なんじゃないでしょうか。

賀茂氏族系の伝承では「丹塗矢」神話で生まれていますが、大和朝廷としては、そこは譲れない(あるいは、三輪氏族が譲らなかったのかもしれないです)。

そこで、「大己貴神」を持ち出してきて、その御子神の「阿遅志貴高日子根神」という神格を作り出し、朝廷としてはこっちを認めるけど、まあわかる人にはわかるだろうし尊重するよ、的な手打ちになる。

その背後に透けるのは、「天稚彦」の存在……以前「阿遅志貴高日子根神」」と「天稚彦」の入れ替わりトリック、あるいは一人二役トリックを妄想したのですが、もし「天稚彦」=「阿遅志貴高日子根神」が成立するとなると、これまた面白いことにですね、「天稚彦」は「天津國玉神」の御子神ということになっているのですね。

それ以外に登場しない、よくわからない神なのですが、明らかに天津神系だと思われます(あるいは、思わせたい)。

大国主神」の別称「顕國玉神」との対比にも何かありそうですが、ここで重要なのは「天稚彦」が天津神系であることが明らかで、ということは同じく天津神直系(であるはず)の神武天皇」に匹敵する存在だ、ということです。

実際、天津神の子孫の神器である「天之波波矢」を所持していましたから(ちなみに、物部氏族の祖先である「饒速日」も持ってました)。

天稚彦」の葬儀の場面では、たくさん鳥が出てくるのですが、そこにはもちろん「鴨」はいません。

が、賀茂氏族の祖で、「迦毛大御神」と呼ばれる「阿遅志貴高日子根神」が、「天稚彦」のそっくりさんとして登場します。

この神話が、賀茂氏族が天津神系だったといいたいのかどうか、はおいておいて、「神武天皇」同様にその資格がある、つまり「大物主神」の「丹塗矢」神話の結果生まれた神だとしても不思議ではなく、大和朝廷皇統譜にも入り込む余地があるのだ、という意味だとすると。

このいくつにも重なり合った状況をざっと見てみると、

 

・「大山咋神」=「大己貴神」=「大物主神」(=「天津國玉神」)
・「鴨玉依姫神」=「田心姫神」=「勢夜陀多良比売」(=「活玉依毘賣」)
・「鴨別雷神」=「阿遅志貴高日子根神」=「天稚彦

 

てなことに……何か、我ながら収集がつきませんな……。

そろそろやめるか……あ、そうでした、例の、『日本書紀』天智紀五年の、

 

「是の冬に、京都の鼠、近江に向きて移る」

 

ってやつですが、これ、後から「鼠」にしたんじゃないのかな、と思います。

吉野裕子氏のように呪術的な意味があるかどうかわかりませんが、「天智天皇」が近江に呼びたかったのが「大物主神」だとしたら、ここはやっぱり「蛇(巳)」じゃないといけないと思うんですよね。

で、三輪山の神が移ってきた、という伝承が日枝にあるから「大物主神」でいいんじゃないの、と思われるでしょうが、大和朝廷的には表面上「大己貴神」に移っていただかないと具合が悪い。

だから、「鼠(子)」なんですよね……ほら、「大己貴神」=「大国主神」だとしたら、「鼠」じゃないですか。

ただ、実際には、一時的にしろ「大物主神」が遷座されたために、天智紀六年条の、

 

「三月の辛酉の朔己卯に、都を近江に遷す。是の時に、天下の百姓、都遷すことを願はずして、諷へ諫く者多し。童謡亦衆し。日日夜夜、失火の処多し。」

 

となった……つまり祟ったわけですね(どの時代までかはわかりませんが、火事というのは、古代において雷の神の属性でもあります)。

梁塵秘抄』の「四句神歌」のなかには、

 

「東の山王恐ろしや、二宮客人の行事の高の王子、十禅師山長石動の三宮、峯には八王子ぞ恐ろしき。」(岩波文庫版『梁塵秘抄』p49)

 

とあります。

基本的にみんな恐ろしや、ということになっているのですが、一番恐ろしいのはどなたなのか……ちょっと忘れがちですが、「山末之大主神」が元々の地主神で、賀茂氏族に土地を奪われたとしたら、かなり祟っている……と思います。

でも、そのあとに、古代最強の祟り神「大物主神」がやってきちゃったから、もう何だかなぁ……とぼやいているのかもしれません。

 

 

 

 

と、いうような妄想を、「最澄」以下比叡山を手中に収めた天台宗が生み出して、二十一社を整備していったのではないか、という妄想でした。

いや長かった……書きながら、確認しながら、妄想するものですから、最初に見えていた結論がどんどん遠ざかっていくという……。

ひとまず妄想はこんなところで〜。