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神社仏閣ラブ(弛め)

「日吉大社」(考)〜その2

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 近江輿地志略 : 校定頭註

 

↑『近江輿地志略』、行ってみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
ただ、かなり長く引用しているので、ぶつぶつと切り取っていきます……一回じゃ終わらない。
適宜、ブログ筆者による改行を入れています。
156コマです。

 

「[日吉神社]上坂本にあり。所祭三神七座末社十四社あり、二十一社といふは是也。上七座といふは大宮・二宮・聖真子・八王子・客人宮・十禅師・三宮、中七社といふは下八王子・王子宮・早尾・大行事・聖女・牛尊・気比宮、下七社といふは、小禅師・悪王子・新行事・岩瀧・山末・劔宮・大宮竃殿、総て二十一社とはいふ。中古以来伝教大師両部習合して以後の事なり。往古は大比叡神社と号し奉り、延暦年中よりは遥に古よりある神社也。
【神風記】曰く、日吉一座大物主神也。当社鎮座の時代定かならず神代の鎮座か。七社及廿一社の勧請は伝教以後の説なるべし云々と。嗟呼神道の衰微実に怨むべし。日吉社延暦寺と混雑せり、故に又日吉社近邊にある処の仏道古跡等も其竝びに出す。日吉社八王子山までも先日吉の條下に併出す。延暦寺條下日吉條下坂本條下を一にして見る時は、事分明なるべし。二十一社の説も品々あり、上七社は始の説にかはらず、中七社を【日吉山王新記】には大行事・牛御子・新行事・下八王子・早尾・王子宮・聖女とし、下七社は小禅師・大宮竃殿・二宮竃殿・山末・岩瀧・劔宮・気比とする。」

 

二十一社が列挙されています。
現代に伝わっているものとそれほど違いはないと思いますが、異説も掲載しています。


「【山王新記】及び【廿二社次第】曰、後朱雀院長暦三年八月十八日被奉官幣、加日吉社爲廿二社。日吉社之事可爲住吉之次、梅宮之上由宣下也云々。【拾芥抄】三十日神名の中に十七日大比叡、十八日小比叡、十九日聖真子、廿日客人、廿一日八王子云々。【公事根源】曰く、後朱雀院長久四年六月八日始二十二社の数に備はる云々と。」

 

文中に出てくる「二十二社」というのは、特に格の高いものとされた神社のことです。
「三十日神」というのは、「三十番神」のことで、一ヶ月を三十日と考えたときに、一日を交代(番代わり)に守護するものとされています。
この中に、「十七日 大比叡大明神」「十八日 小比叡大明神」「十九日 聖真子大明神」「二十日 客人大明神」「二十一日 八王子大明神」が入れられています。

 

 

日本の神様読み解き事典

日本の神様読み解き事典

 

 

『日本の神様読み解き事典』の「三十番神」の項によれば、

 

「なお、天台宗では如法経尊重の風習に根源を発し『今昔物語』巻十一、、慈覚大師始建愕厳院語第廿七の条に、「堂ヲ起テ此ノ経(如法経)ヲ安置シ給フ。如法経是ニ始ル。其時ニ此ノ朝ノ諸ノ止ム事无キ神。皆誓ヲ発テ番ヲ結デ。此ノ経ヲ守リ奉ラムと誓ヘリ……」とある。さらに天台山門『叡山要記』には、慈覚大師のときに国内有勢神三十か所が選ばれ、延久五年(一〇七三)愕厳院良正阿闍梨三十番神を勧請し、如法堂の守護とした旨記されている。
こうして見てくると、三十番神天台宗によって生み出され流行した神であると考えられる。」(p351)

 

↑とあります。
天台宗の影響下にある「日吉大社」で祀られている祭神に、このような「三十番神」に含まれる神の名前がついていても、別に驚くことではない、ということですね(マッチポンプの匂いがします)。


「【日吉山王記】曰、後三條院延久三年十月二十九日行幸、被置僧官、行幸之觀賞也云々。
後拾遺集】に後三條院の御時、始めて日吉社行幸侍りけるに東遊に歌ふべき歌を仰せ事にてよみ侍りける。實政「明らけき日吉の御影君が爲山のかひある萬代やへん」日吉の社に御幸侍りける時、雨の降り侍りける。其時になりては、はれにければよみ侍りける。師尚「御幸する高根のかたに雲はれて空に日吉の験をぞ見る」日吉社司の説には天智天皇天武天皇桓武天皇嵯峨天皇清和天皇後一条天皇悉く行幸ありといふ。社司は七人樹下氏の者之を掌る。
【日吉山王新記】曰、高倉院承安二年三月行幸云々と。後醍醐天皇坂本への行幸は度々なり。【神皇正統記】等にしるせり。
日吉社年中行事】に曰く、第九十代後光厳院行幸の折、「迷ひたつ雲井の外の春に来てあらぬ軒端の花を見る哉」宸筆にて樹下が家の障子にあり。正三位成国我家の皇居となりしかば「仮初の御幸ながらも此宿の花に雲井の名をや残さむ」宸筆の御製、今に樹下に相続してこれあり云々と。公方家の社参を考ふるに、応永元年九月鹿苑院参詣の事あり、事は【御社参記】に詳なり。事繁き故之を省く。
日吉社年中行事】曰、光源院殿於樹下家御元服、加冠佐々木弾正少弼定頼云々。(臣)按ずるに天文十五丙午年十二月十九日足利義輝十一歳にて樹下氏祝氏民部成保が宅に来て元服なす事あり。十八日に坂本に来りしなれば十八日に日吉社へ詣でしなるべし。天文十五丙午年十二月十九日の記に曰く、元服摂津守元造、総奉行能冠(松田丹後守晴秀飯尾大和守堯連) 理髪細川中務晴常、御加冠佐々木弾正定頼云々。此時なるべし、此元服の事【所々御成次第】【御元服記】【重編応仁記】等に委し今之を略す。」

 

↑この辺りは、「日吉大社」関係の文書などに出てくる、天皇行幸に関するものや、足利将軍家の記事などを引用した部分です。


「毎年四月二日の申日祭礼を行ふ。其由来は【日吉記】【山王記】【山王新記】皆曰く、天智天皇の白鳳二年三月上巳大津與多崎八柳浜に明神臨幸あり、漁父田中恒世を呼んで唐崎に送るべき由仰あり、恒世諾す。神即恒世の船に乗り給ふ。恒世粟の飯を奉る、神甚感喜す。船唐崎浜に著く。神曰く汝が功労忘れず毎年卯月中の申日此處に来るべし。汝も供に此處へ来て粟飯を贈るべしとの給ふ。今に至て此くの如し云々と。按ずるに大津輿多崎は今の大津尾花川の浜辺より北へ少許りをいふ。田中恒世は後に神と祝へり、今松本村平野神社の左にある小社是也。田中恒世は膳所崎の漁夫なり。今の膳所中庄亀屋といへる者の家、古への恒世が宅地也故に今に至て膳所より粟の御供を備ふ。粟津庄といひ、膳所といふは皆之に依れり。詳に膳所の條下に記す。其始は神輿陸地を唐崎へ神幸ありて、膳所土人等も唐崎陸地にて備へたる事明けし。
【公事根源】曰ふ、日吉臨時祭は中の申日是は順徳院建暦三年十一月十八日より始て使を立てらる云々と。船祭の始は延文年中大洪水以後の事と見えたり。
【日吉山王新記】引【日吉神道秘密記】曰、近代延文年中大洪水、唐崎浦水込、陸地無之、其時御船、其以後如此、近年一円御船祭也、上古無之新義也云々。之を以てしるべし。今は唐崎の社の南の湖上にて神輿の船へ粟飯を備へ奉る、其體厳重なり。
日吉社年中行事】曰く、以榊祭之事始于天智天皇之御宇百廿年間榊之神事也云々。この故に大津四宮社より出す處の榊を祭第一に渡すは其由来也。
【日吉山王新記】曰、延暦十年伝教大師雖始祭礼之儀事未定。至弘仁之聖代始被行厳重之祭礼云々。人皇十四代円融院天元五年七月五日叡願に依て遂に行はれ、六十六代一条院長徳元年八月二十一日之を行はる。八十二代後鳥羽院建久三年二月十三日丙申後白河法皇御不豫急なるに依て御願之を行はる。此以後絶ゆる也。大凡当社の祭を日吉山王荒祭と俗に号して、坂本法師等甲冑を帯し剣を執り出づる者を供人といふ、三百人許也。濫りに行ひ人に傷つけ得たりとし、日吉神輿血を見ざれば渡らずと罵る。嗚呼不敬の甚しき是よりはなし。之をも忍ふべくんば孰をか忍ぶべからざらむ。日吉は神明也、何ぞ人を刃傷して喜ぶべけん。若之を喜ぶ時は神明にはあらで邪神也、何ぞ貴き事かあらむ。若し神輿血見ずして渡らずといはば毎年法師等一人宛を傷けて渡すべし、何ぞ神明、人に傷くる事を嘉し給はんや、民を愛し生を好みし給ふなる神明なる者を、斯る妄言を吐く事実に天下の大罪人也。政を亂り衆を疑はしむるを殺すといふ聖代の教也、妄言附会の説をなす者誰か憎まざるべけんや。」

 

↑この辺りは、祭りに関する由来などを述べている部分ですね。

 

天智天皇の白鳳二年三月上巳大津與多崎八柳浜に明神臨幸あり、漁父田中恒世を呼んで唐崎に送るべき由仰あり、恒世諾す。神即恒世の船に乗り給ふ。恒世粟の飯を奉る、神甚感喜す。船唐崎浜に著く。神曰く汝が功労忘れず毎年卯月中の申日此處に来るべし。汝も供に此處へ来て粟飯を贈るべしとの給ふ。今に至て此くの如し云々と。」

 

↑年代は信じがたいですが、こうした伝承があった、と。
浜に流れ着く辺り、古来の神(マロウド)を想起させますね。
後半は、江戸末期以降の国学の展開や、明治の聖代になってからの認識からくる、「比叡山」の僧兵の行いに対するツッコミ、と解釈するといいのかもしれないです。

 

「且此頃は土俗いふ、二條蔵人が子愛護若といふ者あり、継母の讒によつて父に疎まれ出奔し、革細工の小次郎といふ穢多が情に預り、大道寺田畑之助が粟の飯に露命を繋ぎ、叡山帥阿闍梨に会する事をいひ、或は愛護若村嫗に桃を請ふに、嫗輿へざる時は花は咲くとも実はなるなといひ、麻の中に隠るる時、朝は出来くとも苧になるなといひ、手白の猿などいふ事をいひ、霧降の瀬へ身を投ずるななどいふ。愛護若は今の日吉の大宮、細工の小次郎は今の唐崎宮、田畑は今の膳所田畑社なりといふ。剰へ伝に作り書に筆して愚俗を惑はす尤笑ふべし、跡方なき虚言歯牙を労すべき事にはあらねども、其土俗のいふ所について之を論ずるに、愛護若もし日吉大宮の化現にもあらば、何ぞ桃を実なるなといひ、麻を苧になるなといはんや。己に與へざるを恨み己が爲に憤りあればとて天地の造化にて実のれる木を実のらさず、麻を苧にせざるなど一己の私にして天下の公道にあらず。愛護若もし神ならば決していふべからざるの言、なすべからざるの行也。愛護若の事は【秋夜長物語】といへる仮名草子にこれに似たる事あり。それを作りかへていひ出せるなるべし。嗚呼虚妄の人を惑す事歎息に餘りあり。」

 

↑ええと、「愛護若」というのが何なのか、不勉強にしてまったく知りませんでしたので、検索。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 伝説の比叡山

 

↑『伝説の比叡山』という格好の本があったので、そちらから。
8コマです。

 

「あいごの若
日吉神社の前を大宮谷に沿ふてさかのぼると、程なくして神蔵が瀧と呼ばるる瀑布がある。その上に屹立した神宮寺山の絶壁に、今にも崩れ落ちさうな奇岩があつてそれを衣掛岩と名つけられてゐる(御山の栞)。この物語はその岩に秘められた哀話であり且つは唐崎の一ツ松の由来を語るものでもある。

或る年の或る日、琵琶湖に沿ふた北国街道をひとりトボトボと歩いてゆく若者があつた。時々立ち止まつて、雨雲のかかる比叡をふり仰いでホツと吐息をついては復重い足を運んだ。身につけた衣はボロボロに裂け、草履の尻はすり切れて歩くたびにバツバツと砂埃をあげて居る。髪は蓬々に延び、頸筋は真黒に垢じみて、見るからに見すぼらしいその姿は、定めて永い間の放浪生活に野に寝ね山に憩ふて、辛酸の限りをつくして来たものであらうと思はせる。けれどもじつと其の面を見てゐると、うるほひのある眼光や、調つた顔の型など、どことなく一種の気品をそなへてゐて、性来の野人ではなくよしある人のなれの果であらうと誰でも気づくのであつた。
やうやく唐崎までたどりついた彼は、そこの汀の岩に腰をおろして、うつとりと湖上の景色を眺め入つた、サラサラと漣は無心に彼の足下を洗つてゐる。やがて彼は腰の行厨を取り出した。中にはバラバラになつた稗飯が一ぱいつめてある。それでも飢えきつた彼は、さも美味さうに食ひ初めた、そして最後の一粒もあまさじとするやうに器の隅々までも拾ひ食つた。
飽満の快よさを覚えた彼は、器を収めやうともせず、一心に寄せては返す波を見つめた、その胸のうちには限りなき哀愁が去来してゐるのであらう。およそ小一ト時もたつた頃、彼はやつと立ちあがつて今使つた箸の一つを其所の砂に突きさして、
「あいごの若が世に出るならば松も千本葉も千本、もしも此の世に出ぬならば松も一本葉も一本」
と悲しげに独語した、その眼には涙の玉が光つてゐる。貴族の家に生れながら、ふとしたことから悲惨な運命に翻弄されてきた過去の生活を顧るにつけても、これから先きに迎ふべき年月のたよりなさに、かうしたことにも儚ない望みをかけて、自己を占つたのである。
松は年を経てますます緑の色を増したが、幹と葉は今も一本であつて、夜雨に咽ぶ梢の音は、波のひびきに相和して多感の遊士を動してゐる。
同じ日の午後、東谷の坊に訪ふたのは彼れあいごの若であつた、声に応じて一人の寺男が出て来た。
「私は此の坊の主の甥にあたる者で、或る事情から家を出で、諸国流浪の果てに此所まで辿りついたのである、どうか叔父ごに会はせて下さるまいか」
「なに、あなたが僧正さまの甥だと! たはけたことを申さるるな。苟も当院の僧正は九條さまの出である。その甥子といへばとりも直さず九條さまの御血筋、それがなんであなたのやうな見すぼらしい様をして居られやう、騙さうと思つてもさうやすやすとは騙されぬ、かう見えても此の爺はまだそれ程まで老耄れては居ないつもりだ」
「そんなに疑はれるのも決して無理とは申さぬが、叔父ごにお目にかかれば分ること、どうかあいごの若が来たと伝へて下さるまいか」
「なんぢゃと、まだくどくどとおつしやるか、なんぼ言つても叶はぬこと、若い者らに見つけられぬまにちやつちやと帰らつしやい」
どんなに云ひ抗つても頑ななる寺男はいつかな聞き入れさうにもなく、果ては足もて蹴ちらしそうな気色さへ見えた。すげなく追ひ立てられたあいごの若は、今は一縷の望みの綱も切れはてて、見返りつつもすごすごと山を下つた。
神宮寺山まで下つて来たあいごの若は、そこの岩根にどつかと腰を据ゑて、腕拱いて思ひに耽つた。ーーああなんといふ悲しい運命であらう。叔父君に会つたら、また何とか欣ばしい世界も展開して来ようかと、それのみをたよりにして此の山まで登つてきたのに、情ない寺男に遮ぎられて叔父上に一言交すことさへも得ず、かうして山を下つてから、さて何所へ行かうといふのか、都の内はもとよりのこと、東土の端から筑紫の極みまで、花咲く春を待つべき所はないのだ、攝取不捨の霊山にさへ容れられぬ身を置くべきところは、も早や現世にないのであらうかーー
虚空を見つめて溜息ばかりにくれてゐた彼は、何思ひけんすつくと立ちあがり、衣を脱ぎすててかたへの岩に懸け、岩根をたよりに大宮谷の流れまで下つた。神蔵が瀧に激した水は、そこでは紺碧の淵を湛へて、物すごい渦巻は中流に消えては現はれ現はれしてゐる。太古のやうな静寂は身の毛もよだつかと思はるるまでに迫つて来る。
じつと水面を見つめてゐたあいごの若はふと我に帰って、右手の拇指をがくりと噛み切つた、ほとばしり出る鮮血に歯も唇も忽ち真紅に染まつた、餘滴は芝生の上にぽたぽたと落ちてゐる。彼は淋しい笑を洩しながら、かたへの山帰来の葉をむしり取つて、したたる血汐でそれに文字を書き初めた。一枚、また一枚、書き了へた彼は遥かに大空を見つめた。
「風も生あるものならば、叔父ごのところへ飛んでゆけ」
と口走りながら、山帰来の葉を一枚一枚空に吹き上げた、腥風にのせられた血染の葉は、ひらひらと東谷さして飛んで行つた。
東谷の僧正が、書見に疲れた目を庭に移したとき、黄昏の空から舞ふてきた木の葉がはらはらと苔の上に散つて来た。それは此の庭にはついぞ見かけぬものであり、一枚ごとに赤く彩られてあるらしいので、不審に思つて侍者を呼んで拾はせた。見ると一つ一つにまだ腥い血で文字らしいものが書きつけてあるので、気持ち悪い思ひをしながらあれこれと拾ひ合はして読んで見た。その顔はみるみる土の如くに青ざめ、手はあやしく打ち震ふた。やがて先の老爺は呼び出されて、問はるるままに若者の訪れて来たいちぶしぢうを物語つた。
院主が二三の者を引きつれて、アタフタと大宮谷を下つて淵のあたりを隈なく探したときには、もう若者の影は見えなかつた。青い水面には静かに渦巻が起つたり消えたりしてゐた、あたりの草には黒ずんだ、血の滴りが見えた、そして神宮寺山の岩に懸けられた破れ衣は、峯わたる風に翻つて居た。」

 

……ええと、ここで描かれている前段がさっぱりわからないので、なんとも言いようがないのですが……。
もうちょっと探ってみると、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 古代研究. 第1部 第1 民俗學篇

 

大・折口信夫翁の著作がひっかかったので、こちらも参照してみます。
215コマです。

 

「愛護若

若の字、又稚とも書く。此伝説は、五説経の一つ(この浄瑠璃を入れぬ数へ方もある)として喧伝せられてから、義太夫・脚本・読本の類に取り込まれた為に、名高くなつたものであらうが、あまりに末拡がりにすぎて、素朴な形は考へ難くなつてゐる。併し、最流行の先がけをした説経師の伝へてゐるものが、一番原始に近い形と見て差支へなからう。
何故ならば、説経大夫の受領は、江州高観音近松寺から出され、四の宮明神の祭礼には、近国の説経師が、関の清水に集つた(近江輿地誌略)と言ふから、唐崎の松を中心に、日吉・膳所を取り入れた語り物の、此等の人々の為に綴られた物と言ふ想像は、さのみ無理ではあるまい。今其伝本が極めて乏しいから、此処には、わりあひに委しい梗概を書く。
嵯峨天皇の御代に、二條の蔵人の左大臣清平といふ人があつた。御台所は、一條の関白宗嗣の女で、二人の仲には子が無かつた。重代の重宝に、刃の太刀・唐鞍(家のゆづり、やいばの大刀、からくら、天よりふりたる宝にて)の二つがあつた。第六天の魔王の祟りで、女院御悩があつたが、天子自ら二才の馬に唐鞍を置き、刃の大刀を佩いて、紫宸殿に行幸せられると、魔王は、霊宝の威徳によつて、即座に退散して、御悩忽平癒した。天子御感深く、その他の家々にも名宝があらうと思はれて、宝比べを催されたところ、六條判官行重は上覧に供へるべき宝が無くて、面皮をかいて居たのを、清平が辱しめて、退座を強ひる。
判官には、五人の男子があつて、嫡子をよしながといふ。家に戻つて今日の恥辱の模様を話すと、よしながが父に讐討ちの法を教へる。其は、子はどんな宝も及ばない宝である。幸、二條蔵人には子が無いから、奏上して、子比べをして、恥をかかせようと言ふのである。子福者の行重は、非常な面目を施した。御感のあまりよしながに、越後守を受領せしめられた。
清平は、今度は、あべこべに辱しめられて、家に帰つて、御台所と相談して、初瀬寺の観音に、申し子を乞ふ事になる。七日の満願の日に、夫婦の夢に、菩薩が現れて、子の無い宿因があるのだから、授ける事は出来ない。断念して帰れ、と告げさせられる。夫婦は、さらに三日の祈願を籠めて、一向納受を願ふと、一子は授けてやるが、三つになつた年に、父母のどちらかが死ななければならぬと言ふのである(一段目)。
六條判官は、尚根が霽れぬ上、相手が初瀬寺に参籠して、何か密事を祈願して居ると言ふ事を聞いて、家来竹田の太郎及びよしながと共に、桂川に邀え撃たうとする。二條家には、荒木左衛門といふ家来がある。主人夫婦に従うて、初瀬寺からの帰り途、桂川で現れた伏せ勢を争うて居る所へ、南都のとつかう(東光か)坊が通りかかつて、仲裁する(二段目)。
北の方は玉の様な愛護若を生む。誓約の三年は過ぎて、若十三歳になる。約束の期は夙に過ぎた。命を召されぬ事を思ふと、神仏にも偽りがある。だから、人間たるおまへも其心して、嘘をつくべき時には、つく必要があるといふやうな事を訓へる。初瀬観音聞しめして、怒つて御台所の命をとる為に、やまふのみさきの綱を切つて遣はされたので、若はとうとう母を失ふこととなつた。
左衛門竝びに親類の者が、蔵人の独身を憂へて、八條殿の姫宮雲井ノ前を後添ひとした。愛護は、父の再婚の由を聞いて、持仏堂に籠つて、母の霊を慰めてゐる。あまり気が鬱するので、庭の花園山に登つて、手飼の猿、手白(てじろ)を相手に慰んでゐる姿を隙見した継母は、自分の子とも知らず、恋に陥る。侍女月小夜を語らうて、一日に七度迄も、懸想文を送る。若は果は困じて、簾中に隠れてしまふ。
二人の女は、愛護が父蔵人に此由を告げはすまいかといふ懸念から、逆に若を陥れる謀を用ゐる事になる。それは、重宝の鞍・刀を盗み出して、月小夜の夫に手渡し、都も都、桜の門で呼び売りさせて、清平の目につく様にして、若が盗んで売らせたのだ、と言はせようといふ魂胆である。此謀が早速成就して、怒つた清平は、若を高手小手に縛つて、桜の木に吊り下げて置く。若は苦しさのあまりに、血を吐いて悶えてゐると、手白の猿が主人を救はうとして、木に上るが、縄を解く事が出来ぬ(三段目)。
處が一転して、地獄の閻魔王の庁では、若の母が出て、若の命乞ひをして、自身出向いて救ひたいと願ふ。魂を仮托する死骸はないかと、鬼に見させると、娑婆では今日、人には死んだ者はないが、鼬が一匹斃れたといふ。母は早速、鼬の身に魂を托して、桜の下に現れ、若の縄を食ひ切つて助けると、手白が下で抱き止めて、怪我なく助かった。鼬は、母が仮りに姿を現したのだと告げて、かうしてゐては、終には命も危いから、叡山西塔の北谷にゐる、若の叔父帥ノ阿闍梨の處へ逃げて行くやうに、と諭して姿を消す。若は家を抜け出る日を待つて居る(四段目)。
暗く雨降る夜、家を出て四條河原にかかると、南に火の漏れる茅屋がある。細工の賎民の住む處である。ちかよるつて戸を敲くと、盗賊かと思つて、薙刀を持つて来る。愛護一部始終を語ると、敬ひ畏んで、臼の上に小板を敷き、荒菰を敷いて、米を賀茂
の流れで七度清めて、土器に容れて献る。此から神の前に荒菰を敷く風が出来たと説いてゐる。夜が明けて、細工に送られて、叡山へ志す。處が、中途まで来ると、三枚の禁札が立つてゐる。一枚目のには、女人禁制、二枚目にはさんひ(?)が、強ひて叔父の處まで送つてくれと言う。「仰せ尤にて候へども、賤しき者にて候へば、只御暇」と言うて、引つ返した。
愛護一人で、帥ノ阿闍梨を訪れた處、叔父は、甥若の訪問に驚いて、其車馬の数を見させた處が、稚児一人立つてゐたので、此はきつと、北谷の大天狗が我行力を試る為に来たのだと思うて、そんな甥はないと言うて、大勢に打擲せしめた。若は山を下りようとして、三日山路に迷うた末、三日目の暮れ方に、志賀の峠に達した。其處で疲れて休んで居ると、都へまんぞう(萬僧)公事に上る粟津の荘のたはたの介兄弟が来会うた。始終を聞いていとほしがり、柏の葉に粟の飯を分けてあたへた。「其御代より、志は木の葉に包め、と申すなる」と説明してゐる。
情を喜び、苗字を問ふと、弟せんちよが「之はきよすのはんと申すなり」と言ふ。お伴はしたいが、都へ出ねばならぬから、と別れて上つた。扨て其後、
岩ほの小松をとり持ちて、志賀の峠に植ゑ給ひ、おひ(松に?)せみやう(宣命)を含め給ふ。愛護世に出てめでたくば、枝に枝さき唐崎の千本松と呼ばれよや。愛護空しくなるならば、松も一本葉も一つ、志賀唐崎の一つ松と呼ばれよと、涙とうとう若は身を投げた。其時十五歳とある(五段目)。
瀧のほとりにかかつてゐる小袖を見つけた山法師等が、山の稚児の身投げと誤解して、中堂へ上つて、太鼓の合図で稚児の人数しらべをする。ところが小袖の紋で、若なる事が訣つた。実否を確める為に、二條へ使が行く。さて父・叔父などが集つてしらべると、下褄に恨み言が発見せられ、其末に「四條河原の細工夫婦が志、たはたの介兄弟が情のほど、如何で忘れ申すべき、まんそうくち(公事)を許してたべ」とあつた。
そこで、雲井ノ前は簀巻にして川に沈め、月小夜は引き廻しの末、いなせが淵に投げ込んだ。かの瀧に来て見ると、浮んで居た骸が沈んで見えない。祈りをあげると黒雲が北方に降りて、十六丈の大蛇が、愛護の死骸を背に乗せて現れた。清平が池に入ると、阿闍梨も、弟子共も、皆続いて身を投げる。穴生の姥も後悔して、身を投げる。たはたの介・手じろの猿も、すべて空しくなつてしまふ。細工夫婦は、唐崎の松を愛護の形見として、其處から湖水に這入つた。其時死んだ者、上下百八人とある。大僧正が聞いて、愛護を山王権現と斎うた。四月に申の日が二つあれば後の山三つあれば中の申の日に、叡山から三千坊、三井寺から三千坊、中下坂本・へいつち(比叡辻か)村をはじめ、二十一个村の氏子たちが、船祭りをする(六段目)と言ふのである。」

 

……長い。

 

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五説経(ごせっきょう)とは - コトバンク

 

コトバンクより、

 

「世界大百科事典内の五説経の言及
説経節】より

…なお,幕末に名古屋の岡本美根太夫が新内節に説経祭文を加えて新曲をおこしたが,これは説経源氏節,または単に源氏節と称される。
[演目と正本]
説経節の代表作を〈五説経(ごせつきよう)〉といい,この呼び名はすでに寛文(1661‐73)ころに見えるが,何をさしたか不明。後には《苅萱(かるかや)》《山荘太夫(さんしようだゆう)》《愛護若(あいごのわか)》《梅若》《信田妻》(《浄瑠璃通鑑綱目》)とも,《苅萱》《山荘太夫》《小栗判官》《信徳丸》《法蔵比丘》(水谷不倒説)ともいわれる。…」

 

↑とありまして、「苅萱」「小栗判官」「山荘太夫」「信太妻」辺りは、なんとなく知っているのですが(「信太妻」は、陰陽師安倍晴明」に関わるやつですね……これもいろいろあるようですが)、「愛護若」「梅若」辺りはさっぱり知らず……。
折口信夫翁の考証は、ここからより深くなっていくのですが(そして、面白いのですが)、とりあえず『近江輿地志略』に戻りまして、筆者は「愛護若が山王権現の化身だなどというのは笑うべき俗説だ」と書いており、それはその通りでしょう。
神仏混淆の時代以降に生まれた伝説で、「比叡山」の地主神とはほとんど関係ないでしょう。
一方で、では「何故このような伝承が生まれたのか、語り継がれたのか」という視点で考えるとき、神仏混淆の葛藤なんかが透けて見えるのかもしれません。
『近江輿地志略』に「革細工の穢多」、折口翁の文章に「細工」と出てくるのは、皮革加工に携わっていた、いわゆる賎民層のことをさしていますが、こういった登場人物が何かを示唆しているようにも思えます。
とはいえ、説経節は室町以降に流行ったもののようですし、そこから派生したと思われる浄瑠璃も江戸時代。
日吉大社」の古代と、「最澄」以降の断絶には相当に深いものがありますね。
最澄」以後だって、どうやって「山王二十一社」の信仰が成立したものやら……。
迷宮でございます。
……まあ、私は学究の徒ではないので、何かしら妄想のきっかけが得られればいいのですが(それも見えないほど、巨大ですけどね「比叡山」)。
さて、ちょっと飛ばして続きを。

 

「[早尾社]中七社の第五也。【日吉山王新記】曰、尾州熱田社内源太夫神是也云々。(略)」

 

↑修復中だった「早尾社」です。
「熱田社内源太夫神」というのは、今でいう「上知我麻神社」のことですが……「三十番神」に「熱田大明神」が入っているので、その関係でしょうか……ちょっと引っかかりますが……。


「[地蔵堂]早尾社の前にあり六角の堂形なり。【日吉記】曰、伝教大師六地蔵、悉安置此處。慈覚大師還之六處。九條、苗鹿・比叡辻・穴太・明良也云々。」

 

↑こちらは「六角地蔵堂」ですね。

 

○こちら===>>>

「日吉大社」(滋賀県大津市)(その5)〜滋賀巡り(再) - べにーのGinger Booker Club

 

↑この辺りで紹介しています。

 


「[総合鳥居]此鳥居の形、外の鳥居とかはれり■かくの如し。【日吉記】曰、神道胎金合体、依之号惣合神門。於此内向東両太神宮拝念、竝関東諸国諸神祈念、向西同之。種々有口伝云々。」

 

↑■になっていますが、いわゆる「山王鳥居」のことです。
さて、次回はそれぞれの社に関して引用というか、紹介を……いや『近江輿地志略』を読んでくださればいいのですけれど……。